第8話 多摩川の白い刃
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。
旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。
夜のA stationには、ペン先の音と、誰かが開けた菓子袋の気配だけが残っていた。
アツは画面の中で、男が刀を振り下ろすコマを拡大する。刃先が少し太い。角度も、あと二度くらい寝かせた方が格好いい。
「加藤さん」
背後からキズナの声がした。
「刃より先に、身体の向きを合わせてください」
「刃、けっこう頑張ったんですが」
「頑張る順番が違います」
即答された。
アツは人物の腰を回し、踏み込む足を半歩前へ出す。肩を下げ、握った手から刀身へ軸を通した。
さっきまで止まっていた絵が、急に次のコマへ動き出したように見える。
「……刃じゃなかった」
「刃も大事です。順番です」
面接で武器を描かされた時も似たことを考えた。
握る場所。力の通る軸。動く方向。
その時、隣で小さな音がした。サチハのペンが机を転がる。
「……少し、重いです」
胸元へ手を置いている。
キズナが顔を上げた。一拍遅れて、眼鏡のつるが短く二度震えた。ほぼ同時に、机の端末が鳴る。
《Priority Alert/警戒レベル:R》
《予測地点:川崎市西部(多摩川流域)》
《予測範囲:300m±30m》
《予測時間:+00:30:00±05:00》
《反応:1》
地図の上で、淡い円が点滅していた。
「……これ」
アツが意味を聞くより早く、キズナが立ち上がった。
「作業を中断します」
周囲のペン先が止まる。
アツだけが一拍遅れて窓を見た。
ガラスの向こうには、いつもと変わらない冬の夜がある。
白い線も、黒い縁も、まだ何も見えなかった。
*
キズナの声が終わるより先に全員が動いた。サキが地図を開き、ケンが車の鍵を取る。マナセとランも棚からケースを引き出した。
アツとサチハには眼鏡と端末、描線ペンが渡された。
「二人は観測です。状態が悪くなったら車へ戻ってください」
キズナの確認に、二人がうなずく。
数分後には、ケンの運転するミニバンが夜の道を走っていた。
車内でも端末の表示は更新され続けていた。重力波側だの素粒子解析だの、聞き慣れない用語が飛び交い、アツには半分も分からない。
「……何の話ですか」
「慣れてくれ。ボクも最初はそうだった」
前の座席のマナセが答えた。
地図で示された多摩川縁の予測地点へ近づくにつれて、車窓の明かりが減っていく。
アツと三列目シートに並んだサチハが、胸元へ手を当てていた。
「さっきより、少し重いです」
キズナが振り返る。
「無理なら車内に残ってください」
「大丈夫です。前には出ません」
アツは眼鏡ケースへ手を置いた。
「オレも行きます」
「分かりました。入口側に後方位置を取ります。二人とも、そこから先へは出ないでください」
「はい」
サキの画面では、広がった反応の中で中央の一点だけが濃くなっていた。
遠くに並ぶ街灯は、裸眼ではただの街灯だった。
今のところは。
*
車を降りた途端、冷たい風が頬を切った。
河川敷に人影はない。川の音と、乾いた冬草が擦れる音だけが続いている。白い息の向こうに、遊歩道と階段、間隔を空けた街灯が並んでいた。
「普通に寒いだけの場所に見えるんですが」
「眼鏡をかけてから言ってみなよ」
マナセに促され、アツは描線眼鏡をかけた。
一瞬、視界がずれた。
街灯の光へ薄い表示が重なり、足元の距離感が変わる。アツは踏ん張って焦点を合わせ直した。
「……うわ」
黒いものがいた。
上の階で見た、壁を這う細い縁とは違う。
河川敷の中央に、奥行きのある黒い塊が浮かび、そこから細い影が何本も伸びて、土に残った足跡や古い轍へつながっていた。
街灯の影さえ、その一部だけが光とは違う方向へ伸びている。
別々の黒い違和感ではない。
全部が、中央へつながっていた。
「……あれが、魔?」
「中央の反応が一番強いです」
サキは断定せず、端末へ位置を落とした。
ケンが遊歩道の入口と車の周囲を確認して戻ってくる。
「人はいない。入口も今のところ問題なし」
キズナ、マナセ、ランが河川敷側へ出る。数歩後ろにサキとアツ、そのさらに入口側にサチハとケン。キズナはアツとサチハへ、指定位置を動かないよう念を押した。
「二人はここから動かないでください。見えたことと、感じたことはそのまま報告を」
「はい」
「はい」
配置についた直後、サチハが車の方を振り返った。
「……車の方、少し苦しいです。見えたわけじゃないですけど」
キズナは二人の位置を数歩ずらし、車周辺も観測対象に加えた。
サキがアツへ報告端末を差し出した。
「加藤さんは、黒く見えている接続を記録してください。全部でなくて構いません。位置と向きだけでいいです」
画面には、河川敷の簡単な見取り図と白い余白が開いていた。
アツは描線ペンを握る。
遊歩道側へ一本。階段へ一本。古い轍へもう一本。
見えているものを、そのまま短い線で置いていく。
一本を追っている間に、別の線が少し動いた。
「これ、描いた時点でもう古くなってません?」
「だから時刻も残ります」
「急に仕事っぽい」
サキは答えず、前方へ視線を戻した。
そこでマナセが描線ペンを構える。
白い線が手元へ集まり、輪郭を閉じた。
次の瞬間、そこには大きな斧があった。
「え……」
ランの手元では白線が半円を描き、弓の形を取る。
キズナのペンからは、長い白刃が伸びた。
羽田で一瞬だけ、武器のように感じた白い輪郭。
今は眼鏡越しに、はっきり見える。
本当に、武器だった。
しかも絵だけではない。斧が形を持った瞬間、マナセの腕がわずかに沈む。キズナも腰を落とし、白い刃の重さを受けるように立った。
ランの矢が黒い塊の外側を縫い止め、そこへマナセの斧が入る。
アツは一瞬見入って、慌てて端末へ視線を戻す。
黒い線の位置が、また少し変わっている。
古い轍へ引いた一本だけが、新しいタイヤ跡の方へ寄っていた。アツはその先を描き直す。
その間に、前方ではキズナが黒い塊へ入り込んでいた。
長い刃が中央を通る。
眼鏡の中で、反応が一気に薄くなった。
――終わった?
そう思って端末へ目を戻す。
描き直した一本だけが、さっきより車の側へ近づいていた。
*
アツが描いた線を見直すより早く、中央の黒い塊が崩れた。
消えたのではない。
黒い影が三方向へほどける。
《反応:3》
眼鏡の表示が切り替わった。
「三つ?」
前方では、ほどけた二つの影が厚みを持ち、獣じみた黒い輪郭を結んだ。
「二体、現出」
サキの声が飛ぶ。
二体へ対応するため、前線三人の動きが分かれた。
アツは端末を見る。
三本描いた線のうち、遊歩道と階段へ伸びた二本は、前方の魔へつながっている。
なら、もう一本は。
車側へ近づいていた線を見る。
さっきより、さらに短くなっていた。
いや。
短くなったんじゃない。
こちらへ来ている。
「サキさん、これ――」
隣でサチハが息を詰めた。
「……重い」
胸元を強く押さえる。
「どこですか」
「右……」
サチハは首を振った。
「見えたわけじゃありません。でも、サキさんの後ろから、こっちへ来ます」
アツは顔を上げた。
車が河川敷へ入った時につけた新しいタイヤ跡。
その溝を、黒い線が滑っている。
「同じだ。端末に描いたのと同じ経路だ」
サキが端末を見る。
「後退してください!」
アツは描線ペンを握ったままだった。端末を抱えて一歩下がる。
黒い線の方が速い。
タイヤ跡から影が持ち上がった。
一本だった線が折れ、重なり、厚みを持つ。
前脚のようなものが乾いた地面へ落ちてくる、背中もできた。
まだ揺れていた輪郭が閉じていき、地へ落ちたその前脚が、地面を掻いた。
「後方で一体現出!」
サキの声と重なるように、キズナの指示が飛んだ。
「加藤さん、下がって!」
下がらなきゃ。なのに、アツの目は端末と魔を往復していた。
位置を書く。
頭らしい黒い塊が持ち上がり、こちらを向き、動き出した。
書いた時にはもう次の場所へ動いている。これでは間に合わない。
身体の端が揺れ、タイヤ跡から伸びた黒い線が、何度も胴の中央へ吸い込まれている。道だったものが、目の前で魔になった。
魔が身体を低くした。
アツの手の中で、描線ペンが震えた。
どこにいるかじゃない。
どう動くかでもない。
あの黒い線が、身体の真ん中へ通っている。
なら――。
どこを横切れば、止まる。
握る場所。
力の通る軸。
振る方向。
面接の時と同じ三つが、今度は目の前の魔へ重なった。
*
アツは端末へ短い柄を描いた。
そこから一本、軸を通す。
目の前の魔の胴へ伸びている黒い線。それを横切る側にだけ、刃を足した。
矢印一本より、使う形にした方が早かった。
最後の線を引いた瞬間、描線ペンが手の中で跳ねた。
「えっ」
端末の隅に黄色い枠が開く。
読むより早く、画面の白い線が手元へ重なった。
描線ペンを包むように白い柄が現れる。
一本の軸。
片側だけの刃。
先端は途中で欠け、外側の二重線も揃っていない。片方だけが細かく震えていた。
数分前に見た三人の武器とは、似ているのに全然違う。
出来損ないだ。
それでも、握った手首が沈んだ。
「重っ……」
「加藤さん!」
キズナの声が眼鏡から飛んだ。
「前へ出ないで!」
「出る以前に動けません!」
声だけは出た。
まだ揺れていた輪郭が閉じ始めた。魔が身体を低くし、前脚が地面を蹴る。
「一度だけです。来たら、そのまま振って!」
考える時間はなかった。
アツは、端末へ描いた軸と同じ方向へ腕を振った。
白い刃が走る。
黒い身体の中央へ、一本の白線が通った。
音はしなかった。
一瞬だけ、魔の胴に白い線が残る。
次の瞬間。
その線を境に、黒い輪郭がずれた。
「――え」
上と下に分かれた形が、そのまま崩れる。
脚も、背中も、頭も形を保てなくなり、黒い線へ戻って散っていく。
タイヤ跡から伸びていた影まで、途中からほどけて消えた。
目の前にいた魔が、いなくなった。
同時に、アツの白刃も崩れた。
二重線が大きくずれる。欠けた刃が砕けるように消え、柄も描線ペンから剥がれ落ちた。
手には、さっきまでと同じ太いペンだけが残る。
「……斬った?」
腕が痺れていた。
膝も、遅れて震え始める。
「後方反応、消失」
サキの声が戻った。
サチハが胸元へ手を置いたまま、ゆっくり息を吐く。
「こっちは……もう大丈夫です」
前方ではまだ二体が残っていた。ランが動きを止め、マナセが一体を崩す。最後の一体へキズナの白刃が走った。
やがて眼鏡の警告が一つずつ消え、川の音だけが戻った。
*
キズナはまっすぐ後方へ戻ってきた。
最初にアツの手首を取る。
「怪我は?」
「ちょっと痺れてますけど……大丈夫です」
「指は動きますか」
アツは五本とも開いてみせた。
「いち、に、さん、し、ご」
「数えなくて大丈夫です」
「こっちは安心したいんです」
隣でサチハが、小さく笑った。
「オレ、今……魔を、倒したってことですか」
キズナは少しだけ間を置いた。
「はい」
即答だった。
「そこは否定しないんだ……」
「助かりました」
続けて、キズナは言う。
「でも、退避指示への反応は遅れていました」
「それって、褒めてはないですよね?」
「両方です」
やっぱり、一体倒した分と怒られる分は相殺されないらしい。
*
深夜のA stationへ戻ると、出動前の原稿には、直しかけの刀が残っていた。
河川敷の白刃はもっと粗く、一度振っただけで消えた。
それでも、あの一本は届いた。
「保存だけして、今日は終わりにしましょう」
キズナの声で、アツは描線ペンを机へ置いた。
その時、キズナの端末が短く鳴った。
《描線武器形成:検出》
《ライセンス照合:該当なし》
《戦闘ログ送信完了》
「……ライセンス?」
アツが顔を上げる。
キズナの指が、一瞬だけ止まった。
すぐに画面が閉じられる。
「今日は休んでください」
説明は、それだけだった。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
お盆ウィーク連続投稿で第1話から第6話までを公開し、前話の第7話からは通常更新へ移行しました。
今回は主人公が初めて現場に出動。日常の延長にあったはずの場所で、白い線が別の形を取り始める回になります。
今からでも第1話から追っていただけますので、旧編からの方にも、初めて触れてくださる方にも、新しい入口として楽しんでいただければ嬉しいです。
今後は基本的に、毎週木曜・日曜の週2回更新で続けていく予定です。
引き続き、新編『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。




