第7話 二つの仕事
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。
旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。
三日ぶりのA stationの前で、アツはチャイムに伸ばした指を止めた。玄関前でバッタリ会ったサチハの指が、同じ高さで止まっている。
「どうぞ」
「加藤さんが先に着いていましたよ」
「チャイムに到着順ってある?」
「面接の続きなら、あるかもしれない」
「急に怖いこと言わないでよ」
二人とも手を引いた。結局、アツが押す。電子音が鳴ると、サチハが背筋を伸ばし、アツもつられて姿勢を正した。
休日のスタジオは、ペン先の音も話し声もなく、普段より広く見えた。
キズナは打ち合わせ机へ案内して、二人が試用中に作った原稿を置いた。
「先に、漫画制作の話をします」
その一言で、サチハの肩が少しだけ固くなった。アツも姿勢を直す。
キズナは最初にアツの原稿を開いた。
「加藤さんは、道具や人の動きを見るのが得意です」
「はい」
「ただ、正しくしようとしすぎて、この漫画の線から外れることがあります」
「……はい」
長柄の工具だけがホームセンターから転送されてきたようになった画面が、嫌でも頭に浮かぶ。
「でも、途中から他の人の線に合わせられていました。分からない部分も、確認できています」
キズナはページを閉じ、今度はサチハを見る。
「村上さんは、丁寧です。最初は迷ったところで止まっていましたが、途中から自分で確認を出せるようになりました」
「はい」
サチハの返事は、普段より少しだけ高い。
「仕上がりも問題ありません」
短い言葉だったが、サチハの肩が目に見えて下がった。
キズナは二人を見比べる。
「なので、二人とも制作スタッフとして正式にお願いしたいと思っています」
白い線を追って来たはずなのに、最初に胸へ広がったのは、漫画の仕事で残れる安堵だった。隣を見ると、サチハもこちらを見ていた。今度はどちらからともなく、小さく笑った。
「よろしくお願いします」
アツが頭を下げると、隣でサチハも続いた。
「サチも、よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
キズナも頭を下げた。
それで話が終わるのかと思った。
けれど、キズナは原稿を机の端へ寄せた。
空いた場所へ、黒い眼鏡ケースと太いペンが置かれる。
「では」
ほんの少しだけ、部屋の空気が変わった。
「ここからは、別の話です」
*
キズナは、黒い眼鏡ケースを指先でこちらへ向けた。
「A stationには、漫画制作とは別の仕事があります」
「試用の三日間で、いろいろ見た気はします」
アツが言うと、キズナは少し考えた。
「見ていますね」
「そこは否定しないんだ」
上の階のヤカン。壁を這った黒い縁。空中に引かれた白い線。
知らなかったことばかりなのに、三日で妙に見慣れたものだけは増えた。
「魔への対応です」
キズナは簡潔に続ける。
「魔は人間の負の感情や歪みが集まって起きる異常です。日常の小さなずれを大きくして、事故や災害につながると考えられています」
アツが思わず隣を見ると、サチハは少しだけ視線をそらした。
「村上さんには既に伝わっていたことですが」
「はい」
サチハが答えた。
「村上さんは以前から協会で指導を受けています。A stationには、その先の受け入れ先として来てもらいました」
「え」
「村上さん、そっちは先輩だったの?」
「先輩ってほどじゃ……」
サチハは困ったように両手を膝の上で重ねた。
「一応、研修は受けました」
「初日に手洗いの場所を教えてもらった時点で、もっと敬っておけばよかった」
「そこは今まで通りでお願いします」
キズナが小さく息を吐く。
「加藤さんは、応募作品や登録情報をもとに、協会から候補として紹介がありました」
「そこから候補になったんですか」
キズナはうなずき、続けた。
「ただ、協会がしたのは紹介までです。漫画制作の採用とは別です」
少なくとも、漫画の方まで最初から決められていたわけではないらしい。
「村上さんは、加藤さんとは経緯は違いますが、二人とも、漫画制作では同じ新人です。それで十分だと思います」
「助かります」
「サチも、その方がいいです」
意見が揃った。
キズナは机の眼鏡へ視線を戻した。
「ただ村上さんは、これまで受けた指導があります。加藤さんは、まだ何も教わっていません」
アツは眼鏡ケースを見た。
ただの眼鏡にしては、知ってしまったものが多すぎる。
「だから、今日ここで二人に同じことをお願いするつもりはありません」
キズナはまずサチハを見る。
「村上さんは、今の状態を確認しながら配置を決めます」
続いてアツへ。
「加藤さんには、ここから関わるかどうかを決めてもらいます」
「断ったら?」
「漫画の仕事は、そのままです」
アツは机の端に置かれた原稿を見る。さっき残れると決まった場所は、これで消えない。
「必要だから、引き受けてくださいとは言いません」
休日のスタジオは静かだった。
誰かがペンを走らせる音もない。
だから、その言葉だけが妙にはっきり残った。
*
先に口を開いたのは、サチハだった。
「サチは、続けます」
さっきまでより、声がはっきりしていた。
アツが横を見る。
「でも……ここに来てから、眼鏡をかけると変なんです」
キズナの視線が、少しだけ鋭くなる。
「変、というのは?」
「見えてないわけじゃないんです。でも、考え始めるとまとまらなくなって」
「苦しくなる感覚は?」
「それは、分かります」
サチハは胸元へ軽く手を置いた。
「だから、今のまま前へ出るのは、ちょっと自信がないです」
キズナはすぐには答えなかった。
拒むというより、言葉の形を確かめているように見えた。
「分かりました」
やがて、静かにうなずく。
「当面は、観測の補助をお願いします。見えたものの形を、無理に決めなくて構いません。見えたこと、苦しくなったこと、分からなかったことを、そのまま伝えてください」
「はい。それなら大丈夫です」
キズナは次にアツを見る。
同じ話なのに、今度は少し違って聞こえた。
「加藤さんは、どうしますか」
「どうって言われると……」
アツは机の上の眼鏡を見る。
羽田で白い線を見た。ここでは黒い縁を見た。研修では眼鏡で異常を追ってみたが、すぐそばの子どもを見落としていた。
見えるから、できる。そんな簡単な話ではないらしい。
「戦えるかって言われたら、全然分かりません」
アツはもう一度眼鏡を見た。
「でも、オレは自分が何が見えているのかは知りたいです」
言葉にすると、それが一番近かった。
「怖くないわけじゃないです」
アツは続けた。
「でも、知らないままにする方が、たぶん気になります……だから、見えたものを伝えるところからなら、やってみたいです」
キズナは一度だけうなずいた。
「分かりました」
それだけだった。
もっと大げさな返事が来ると思っていたわけではない。
でも、人生の分岐点らしきものが、ずいぶん事務的に通過した気はする。
「二人が同じものを見る必要はありません」
キズナが言う。
「同じ場所にいても、拾うものが違う。その方が役に立つこともあります」
サチハが隣でうなずく。
アツも、少し分かる気がした。
「まずは、それぞれ見えるものから始めましょう」
机の上には、同じ形の眼鏡ケースが二つ並んでいた。でも、眼鏡の向こうに見えるものも同じとは限らないらしい。
*
キズナは机の端に置いていた眼鏡ケースを、アツの前へ滑らせた。
「では、これを預けます」
ケースには研修の時に使った描線眼鏡が入っていた。
「自分用?」
「貸与です」
「急に扱いが慎重になる言葉だ」
「最初から慎重に扱ってください」
もっともだった。アツはケースごと持ち上げ、すぐ机へ戻した。
キズナは続いて、もう一つ細長いケースを置く。中にあったのは、見た目はただの太いペンだった。
「ペンは研修で使います。指示がない時は使わないでください」
「例えば?」
「勝手に線を引かない。試さない。危険だと思ったら、まず下がる」
「最後だけ普通の注意ですね」
「一番大事です」
それでも、これで白い線が引けると知ってしまったせいか、ただの筆記具には見えなかった。
「現場では、指定した場所から動かないでください」
キズナが言う。
「見えたことは、そのまま伝える。分からなければ、分からないと言う。自分で判断して近づかない」
隣では、サチハが自分の眼鏡ケースを確認している。
「村上さんは、しばらく観測側に入ってください」
「はい」
「違和感があったら、使い続けないでください」
「分かりました」
サチハの返事には、さっきまでの迷いはなかった。
アツはもう一度、自分の眼鏡ケースを見る。
「これで、オレもそっちの人ですか」
「まだです」
「そこは即答なんだ」
「今日決めたのは、見る側へ入ることです」
キズナはアツの前に置いたペンを指した。
「その先は、また別です」
*
翌日。
ホワイトボードの《試用》欄から、二人の名前が消えていた。
代わりに《制作》の列へ、新しい付箋が二枚並んでいる。
「今日から、こっち」
ケンが自分のことのように満足そうに言った。
「三日で追い出されなくてよかったな、アツ」
「最初から追い出す前提だったんですか」
「三パーセントくらい」
奥では、マナセが作業フォルダを開いていた。
「アツ、この前の続きここだよね。ランランから小物の修正も戻ってる」
「了解です」
「サチハちゃん、こっち空けたよ」
ランが椅子を引く。
「ありがとうございます」
サチハは少し迷ってから座り、試用中と同じようにペンタブを引き寄せた。
サキは二人の会話には加わらず、端末を操作している。
「加藤さん。報告用のアカウントを作りました」
「もう仕事が増えてる」
「まだ何も報告していません」
「増える予定だけ確定した感じですね」
「はい」
否定してほしかった。
アツの席にも、昨日までなかったものが増えていた。
漫画原稿。背景資料。ペンタブ。
その横に、黒い眼鏡ケースと細長いペンケース。
画面の端には、真っ白な報告用キャンバスが開いている。
漫画の机なのか、そうじゃないのか。
たぶん、両方なのだろう。
「二人とも」
キズナが奥の席から声をかけた。
いつものように原稿を開き、いつもの眼鏡をかけている。
「今日から、正式にお願いします」
「はい」
「はいっ」
二人の返事が重なった。
アツは机の上を見た。画面には、この前の続きの漫画原稿が待っている。
アツはそこへ、今日最初の線を引いた。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
「お盆ウィーク連続投稿」では、第1話「羽田の白い線」から第6話「見え方の違い」までを毎日公開しました。今回の第7話からは、連続投稿後の通常更新へ移行します。
今後は基本的に、毎週木曜・日曜の週2回更新で続けていく予定です。
今話では、A stationという場所が持つ二つの側面に、アツが改めて向き合っていきます。
漫画を描くこと。
そして、見えない異変に関わること。
どちらか一方ではなく、その二つが重なっていく場所として、A stationの日常と仕事を描いていく回になります。
第1話〜第6話まで公開済みですので、今からでも新編の入口をまとめて追っていただけます。
旧編から読んでくださっている方にも、初めて触れてくださる方にも、新しい『描線眼鏡』として楽しんでいただければ嬉しいです。
引き続き、新編『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。




