第6話 見え方の違い
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。
旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。
三日目の朝、いつもの作業机から原稿が消えていた。
代わりに並んでいるのは、上の階の見取り図、焦げたヤカンの写真、時刻の書かれた表、見慣れない端末。
「最終日に試験会場へ変わってる」
アツが呟くと、机の向こうにいた女性が顔を上げた。整った顔立ちだが、細い眼鏡の奥の視線には感情が読み取りにくい。机の上の写真と資料は端を揃えて並べられ、ペンも一本だけ決まった位置に置かれていた。
アツを見たのも一瞬だった。値踏みするというより、確認項目の一つを見たような目だった。
「試験ではありません。確認です」
「昨日言ってたサキ」
ケンが横から口を挟む。
「話は細かいけど、取り調べじゃないから」
「正確にお願いします。細かくはしません」
「その言い方が一番怖いんだよ」
サキは気にした様子もなく、端末へ指を置いた。
「最初に異変を感じた時から、順番に話してください。推測は後で分けます」
先に答えたのはアツだった。
「煙とは別に、黒い縁がありました。煙は上に行ってたのに、そっちは壁に沿って横へ動いてて」
「どちらから、どちらへ?」
「ヤカンの後ろから右へ。最後は壁と天井がぶつかる辺りです」
見取り図へ指を伸ばすと、サキがその上へ透明なシートを重ね、ペンを渡した。
「こちらに描いてください」
アツは黒い縁の動きを一本の線で示した。
次はサチハだった。
「スタジオにいた時から、胸の奥が重くなりました。上へ行くほど息がしづらくなって……」
「形は見えましたか」
「いいえ。台所の奥を向くと苦しくなっただけで、そこに何がいたかまでは」
「拾った情報の種類が違います」
サキが透明なシートを持ち上げる。その下には、まだ何も描かれていない見取り図が残っていた。
「次に、装備側の記録と重ねます」
*
サキが端末を操作すると、画面に同じ見取り図が表示された。その上へ、色の違う線と薄い範囲が重なる。
「これは一昨日、師匠――戸隠さんが使っていた眼鏡の記録です」
サキはアツが描いた透明シートを、端末の横へ並べた。次に、つるに小さなスイッチの付いたスマートグラス風の眼鏡を指す。
「私が使っているのも同じ。描線眼鏡といいます」
「スマートグラスに記録が残るんですか?」
「表示だけでなく、反応した位置と時刻も記録します。魔を安定して見るための標準装備です」
次に、スタンドへ置かれた太いペンを指した。
「こちらは描線ペンといいます。白い線を引いた道具です」
「描線……が白い線なんですか?」
「その理解で良いです」
「魔が黒い揺らぎなんですよね」
「黒い揺らぎは、魔に伴う反応の一つです。通常は描線眼鏡を通して確認します」
サキは最初の記録へ戻り、話を続ける。
「眼鏡が振動したのは、協会から送られたアラートを受信したためです」
また知らない名前が増えたが、アツが聞く前に、サキは透明シートを端末の横へ寄せた。アツが描いた黒い線と、眼鏡に残った反応が並ぶ。
どちらもヤカンの後ろから壁沿いへ伸び、最後は右上で止まっていた。
「加藤さんが示した方向と、最後まで反応が残った位置は一致しています」
「本当にここだったんだ……」
続いて、時系列表へいくつか印が付く。
「村上さんが苦しくなった時刻とも重なります」
「でも、サチは何も見えなかったです」
「描線眼鏡なしで形が見えないのは、普通です」
サチハの肩が、ほんの少し下がった。
「じゃあ、オレが見えた方が変なんですか」
「一般的ではありません。ただ、村上さんも身体感覚で反応を拾っています」
白い線の正体を知りたかっただけなのに、いつの間にか自分の目まで確認される側に回っていた。「一般的ではない」という言葉は、褒められたようには聞こえなかった。
サキは見取り図へ、もう一本の線を表示した。
今度は壁の中を通る配線だった。
黒い反応は、そのすぐ近くまで伸びている。
「現実の火は、ヤカンを下ろした時点で止まっています。ただ、装備側の反応はその後も残っていました」
「これ、配線ですか」
「はい。距離は近いです」
それ以上、何が起きたかはサキも断定しなかった。
「ここまでが、一昨日の記録から確認できる事実です」
サキが見取り図を片づけ、二人の椅子を壁際のモニターへ向けた。代わりに机の中央へ、二つの眼鏡ケースが置かれる。
「次は、違いを実際に確認します」
*
サキが開いた眼鏡ケースには、キズナのものとほぼ同じスマートグラス風の眼鏡が二つ収まっていた。
「研修用に用意しました。協会の記録を再構成した映像へ、眼鏡側で異常を重ねます」
最初はアツだった。
眼鏡をかけると、正面の画面に駅前の映像が流れ始める。
通行人。自転車。風に揺れる看板。
そこへ細い補助線と数字が次々に重なった。
「これ、目が二つで足りる前提ですか」
「全部を同時に追わないでください」
人を見れば看板を見失い、看板を見れば影が消える。眼鏡の中だけ情報が渋滞していた。
アツは見る範囲を絞り、車輪や看板の金具、足元の影から、物の動きだけを追った。
「……あった」
青い看板は左へ揺れている。
だが、背後の黒い境界だけが、看板より少し遅れて動いた。
「看板の後ろ。動きが合ってません」
サキが映像を止める。
「位置は合っています」
「やっぱり」
「ただし、その下を見てください」
看板の近くへ、自転車と子どもが進んでいた。
アツは全く気づいていなかった。
「異常だけ見えても、現実側を見落とせば不足です」
アツはもう一度停止画面を見た。黒い境界を見つけた時には、そこに子どもがいたことすら覚えていない。
眼鏡を外すと、目の奥がじんと重い。見えたことに少し得意になった分だけ、背中が冷えた。
「運転免許の検査みたいですね」
「見落とせば事故になります」
次はサチハだった。
眼鏡をかけると、視線が中央から左右へ落ち着きなく動いた。
「何か見えますか」
「線は……あります」
「形は説明できますか」
サチハは答えようとして、口を閉じた。
「一つ追うと、別の線が入ってきます。どこからどこまでが、同じものなのか……」
画面へ近づくほど、呼吸が浅くなる。
「見えてはいるんです。でも、どれを一つとして見ればいいのか」
「形を決めなくていいです。外してください」
サチハは返事をせず眼鏡を外した。さっきまで寄っていた眉間の皺が、少しだけほどけた。サキが眼鏡を受け取った。
「今は、入ってくる情報を整理できていないようですね」
サチハは眼鏡なしで、停止した映像を見直した。
「形は分かりません。でも、左を歩く人だけ少し遠回りしています」
さらに画面の一角を見て、胸元へ手を当てる。
「そこを見ると、少し重いです」
サキは眼鏡をケースへ戻した。
「現場では異常だけを追わず、人と周囲を見る。場所は共有できる言葉で伝え、危険なら下がってください」
ケースの留め具が鳴り、資料も片づけられた。
「見えることと、扱えることは別です」
奥で原稿を進めていたキズナが、こちらへ顔を上げた。
*
「お疲れさまでした」
サキの言葉を合図に、ケンが窓を少し開けた。
端末の熱と、眼鏡をかけた後の重い空気が外へ逃げていく。
「ここまでがサキ先生の特別授業でした」
「先生ではありません」
「師匠はいるのにな」
「それは私の呼び方です」
「ケンさん、話を増やさないでください」
奥の席で、キズナがペンを置いた。
「そっちも聞いてたのか」
どうやら原稿へ集中しながら、会話は全部拾っていたらしい。
サキは机に残した一枚の記録をキズナへ渡した。
「確認結果です」
キズナは立ったまま目を通す。
アツが示した黒い縁の動き。サチハが感じた胸の重さ。眼鏡に残った反応。壁内配線との距離。
「加藤さんの報告は、残留反応の位置と一致しました。村上さんの身体感覚も、反応が変化した時刻と重なっています」
キズナはまず、サチハを見た。
「形を答えられなくても、分かったことだけ伝えれば大丈夫です」
次に、アツの描いた線へ目を落とす。
「一昨日も、助かりました」
昨日、原稿の一コマについて言われたのと同じ言葉だった。
「オレがいなくても、見つけられたんですよね」
「はい」
即答だった。
「そこは少しくらい迷いません?」
「確認に時間はかかったと思います。加藤さんが教えてくれたので、早く処理できました」
褒められているのか、事実を修正されたのか微妙なところだった。
その時、天井の向こうからテレビの音が聞こえた。明るい番組らしく、笑い声がかすかに落ちてくる。
アツは天井を見上げた。
「上のおばあさんが今日も普通に暮らしてるのも、あの線の続きなんですか」
「はい。次の日も同じ部屋で暮らせて、何も起きなかったことにできるなら、その方がいいです」
声はいつもと変わらなかった。
アツには、白い線が守っていたものが少しだけ分かった気がした。
ヤカンを火にかけ、テレビを見て、翌日も同じ部屋で暮らす。
名前もつかない、普通の続きだった。
ケンが昼食の買い出し用らしい財布を持ち上げる。
「じゃあ、堅い話はここまで。午後はちゃんと漫画屋に戻るぞ」
*
昼食のあと、机から記録用の資料が消えた。
見取り図の代わりに原稿が広げられ、眼鏡ケースも棚へ戻される。
三日間の試用は、今日で終わる。
アツはペンを持つ前に、キズナへ尋ねた。
「さっきみたいに、見えたものをちゃんと言えれば、それも仕事になるんですか」
「なります。ですが、漫画の仕事と異常対応は別です」
キズナが答える。
「役に立つことと、危険な場所へ出ることも別です」
サキが続けた。
「見えるなら、やれって話じゃない?」
「はい」
「じゃあ、いつ決めるんですか」
「試用の結果と一緒に、改めて話します」
今すぐ答えを出さなくていいことには、少し安心した。
ここで漫画を描きたいという答えは、もう決まっている。
もう一つは、まだ分からない。
「では、午後は昨日の続きです」
キズナが原稿を開いた。
アツも自分の席へ戻る。
画面には、途中まで仕上がった長柄の工具が待っていた。
何を描くかは分かっている。
何を見るのかは、まだ決めていない。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
新編『描線眼鏡』、本日、第6話を公開しました。
これで、「お盆ウィーク連続投稿」は一区切りとなります。
羽田から始まった物語は、漫画家志望の青年・加藤アツが、誰にも映らない白い線を目撃し、眼鏡の少女と出会い、A stationという場所へ足を踏み入れ、仲間達と出会い、ここまでで新編『描線眼鏡』の入口となる流れが一通り揃った形になります。
それぞれの「見え方の違い」が、これからの物語につながっていく回です。
明日以降は、毎日更新から通常更新へ移行し、基本的に毎週木曜・日曜の週2回更新で続けていく予定です。
このお盆ウィーク中に読んでくださった方、本当にありがとうございます。
旧編から追ってくださっている方にも、初めて触れてくださった方にも、新しい入口として楽しんでいただければ嬉しいです。
引き続き、新編『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。




