第4話 上の階の異変
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。
旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。
昨日来たばかりの建物を、今日から職場と呼んでいいのかは、まだ分からない。
住所も間違いない。昨日と同じ古いマンションで、看板だけが妙に新しい。
それでも、インターホンを押す前に一度だけ指が止まった。
「お、ちゃんと来た」
ドアを開けたケンの第一声が、それだった。
「来ない可能性もあったんですか」
「昨日の顔だと五パーセントくらい」
「妙に現実的ですね」
靴を脱いで入ると、入口に近い空き机の前に少女がいた。奥ではキズナが液晶タブレットに向かっている。
少女と一瞬、目が合った。長い黒髪が印象的だ。大きな目が、アツと手元を落ち着かなく往復している。
「ええと……手洗いは奥です。タオルじゃなくて、紙の方を使うそうです」
「えっ、あの、ありがとうございます。先輩ですか」
「ち、違います。サチも今日が初日です。昨日は説明だけで」
目付きはキョドっているが、返事は速い。
「村上サチハです。よろしくお願いします」
「加藤アツです。先輩扱いした分は忘れてください」
「別に、忘れなくても……」
「残しておくんですか」
サチハは困ったように瞬きして、それから少し笑った。
「二人とも今日から三日間。正式採用はその後な」
ケンが言う。
「採用枠が一人だけ、みたいな話じゃないから安心して」
「言われるまで考えてませんでした」
「なら忘れて」
「一度発生した不安は消えませんよ」
サチハがまた笑い、すぐ真顔へ戻る。笑ってよい場面だったか、あとから確認するタイプらしい。
「二人とも」
奥にいたキズナが作業画面から顔を上げた。
昨日の面接では小柄な少女に見えた。
原稿を前にした今は、年齢より先に一人の漫画家として目に入る。
「試用でも、触ってもらうのは実際に使う原稿です。分からないことは、進める前に確認してください」
「はい」
「はいっ」
三日間の一日目。
追い返されずには済んだらしい。
代わりに、本物の原稿を壊せる距離まで通されてしまった。
*
作業机はいくつか空いていた。最初に割り振られたのは、原稿の仕上げだった。
アツの担当は、人物が持つ長柄の工具。前のコマと比べると、柄の長さも握る位置も違う。
アツは資料を開いた。
柄の太さを揃える。握る位置を戻す。手に当たりそうな突起の位置をずらし、重さの流れが不自然にならないよう金具の形も整える。気づけば、元の絵にあった大げさな輪郭まで少しずつ削っていた。
「できました」
キズナは画面を見て、数秒黙った。
「使える形にはなっています」
「ありがとうございます」
「でも、この漫画の形ではありません」
褒めてから落とされた。
「工具にも所属作品があるんですね」
「あります」
冗談で作った逃げ道まで塞がれた。
見比べると、構造は通ったのだが、元の漫画にあった誇張まで消えている。アツの工具だけ妙に現実的で、周囲の衣装や建物が同じ世界にいるのに、一つだけホームセンターから転送されているように見えた。
「形は戻さなくていいです。次は使える部分を残して、こちらの線に合わせてください」
一方、サチハはベタとトーンを任されていた。
仕上がりは丁寧だった。指定からも外れていない。ただ、一コマ目から動かない。
拡大して、戻して、また拡大する。質問しかけては口を閉じ、その間にも時計だけが進む。
「丁寧です」
「はい」
「でも、この速さでは締切に間に合いません」
「すみません。やり直します」
「やり直す必要はありません」
サチハの手が完全に止まった。
ケンが横から画面をのぞく。
「謝る前に、どこで迷ったか言ってみよう」
サチハが恐る恐る境界を示すと、キズナは短く答えた。
「次は、作業を始めて十分で一度見せてください。迷ったら、止まる前に聞いてください」
アツは直しすぎ、サチハは止まりすぎる。
羽田の少女を追って来たはずなのに、やっているのは地味で難しい漫画の仕事だった。
少なくとも今のところ、ここは秘密組織より先に、締切のある職場らしい。
*
アツが工具の線を引き直しているとき、小さく何かが震えてキズナの手が止まり、眼鏡のつるに指をかけた。
見ると、キズナの眼鏡は普通のものよりつるが太く、小さな操作部も付いている。
――スマートグラス?
そう思った直後、隣でサチハが胸元を押さえた。
「……なにか、息がしづらいです」
キズナが眼鏡からサチハへ視線を移す。
「いつからですか」
「今です。急に、胸の奥が重くなって」
少し間があった。
「何か来た?」
ケンにはまだ何も分からないらしい。
「同じ建物です。上階」
キズナが答えた直後、天井の向こうで何かを引きずる音がした。
ケンが先に廊下へ出た。キズナが続き、アツとサチハもその後を追う。階段の途中で、ようやく焦げた臭いが鼻についた。
「今度は俺にも分かる。焦げ臭い。火元を見てくる」
「火元と煙を確認してください。必要なら通報を」
「了解。二人は俺より前に出ない」
一階上では、斜め向かいの部屋から薄い煙が漏れていた。
ケンがインターホンを押し、ドアを叩く。返事はなく、室内から大音量のテレビだけが響いてくる。
「すみませーん! 焦げ臭いんですけど、大丈夫ですか!」
何度目かで、ようやくドアが開いた。
顔を出した老婦人は、煙を見て初めて驚いたらしい。
ケンは事情を説明し、許可を取って台所へ入る。キズナも続く。
「二人はここ」
ケンに止められ、アツとサチハは廊下に残った。
ガスコンロの上では、ヤカンがほとんど空のまま火にかけられていた。
「空焚きだ」
ケンが火を止める。空になったヤカンを見た老婦人が廊下へ出ようとしてよろめき、その腕をサチハが先に支えた。
「大丈夫です。ゆっくりでいいですから」
さっきまで質問一つに迷っていたのに、こういう時だけ動きが速い。
だが台所へ顔を向けた瞬間、サチハの呼吸がまた浅くなった。
「……あっちだけ、まだ苦しいです」
アツも目を凝らす。
見えるのは、焦げたヤカンと、天井へ昇る煙だけだった。
*
ケンが窓を開けると、焦げた臭いを含んだ空気が動き始めた。
煙は窓の方へ流れ、少しずつ薄れていく。老婦人も廊下へ出た。これで終わった――はずだった。
アツは台所の奥から目を離せなかった。
煙は上へ昇り、熱気も同じ方向へ揺れている。
なのに、ヤカンの後ろにある黒い縁だけが、壁に沿って横へ動いていた。
黒い煙ではない。壁の角が薄皮一枚だけ剥がれ、その隙間を影が這っているように見える。
「そこ、煙と動きが合ってない」
声が勝手に出た。
「壁の角です。右へ伸びてる」
ケンが目を凝らす。
「俺には煙と壁しか見えないな」
そう言いながらも、否定はしなかった。
「見えてるなら、そこから言え。近づくなよ」
サチハも台所へ顔を向け、浅く息を吸った。
「そっちを向くと……まだ苦しいです」
キズナは二人の言葉を聞き、眼鏡のつるにある細いダイヤルへ指をかけた。
レンズの端に淡い光が走る。
取り出したのは、少し太いが普通のペンだった。
ケンが台所から戻り、老婦人と二人をさらに廊下側へ下げる。
「ここから動かない。見えたことと、感じたことは口で言え」
キズナだけが台所へ入った。
歩き方も、ペンを構える手も静かだった。羽田で人の流れに逆らっていたときと同じように。
ペン先が空中をなぞる。
紙にペン先を滑らせたような音が、アツの耳の奥でかすかに鳴った。ペン先の軌跡に、白い線が残る。紙もないのに、引いた線だけがそこに現れた。
線を挟んで、二つの動きが離れる。
ヤカンの熱気は上へ。
黒い縁は壁の角を越えようとして、白い線に押し留められる。
――同じだ。
羽田で見た白い線。
映像には残らなかったのに、目の奥から消えなかったもの。
黒い縁が細くなり、壁の角で止まる。
だが、まだ終わっていない。
「まだあります」
キズナが振り返らずに尋ねた。
「どこですか」
「ちょっと上……いや、右上です。壁と天井がぶつかるところ」
キズナが手首を返し、短い線を引き足す。
黒い揺らぎは煙と一緒には流れず、紙の線を消しゴムで薄くするように、輪郭から静かに消えていった。
隣でサチハが、深く息を吸う。
「……軽くなりました」
白い線はもう消えている。
それでもアツは、何もない空間に残った軌跡を目で追っていた。
キズナが、その視線に気づく。
何も聞かなかった。
ただ一度だけ、アツの目を確かめるように見た。
*
老婦人にけがはなく、ヤカンも底を焦がしただけで済んだ。
ケンは換気を続け、コンロの元栓を確認してから、管理人と家族へ連絡を入れた。老婦人は何度も頭を下げたが、ケンは責めなかった。
「大事にならなかったんで。次からは、テレビとヤカンの音量勝負をさせないでくださいね」
スタジオへ戻ると、作業画面には途中の原稿がそのまま残っていた。
「火事にならなくてよかった。原稿は燃えてないけど、締切はまだ燃えてる」
ケンの軽口に、アツは少しだけ笑った。サチハも笑いかけたが、上階を気にするように天井を見た。
「さっきの、あれ……」
何を聞けばいいのか分からないらしく、その先は続かなかった。
キズナは二人の顔色を確かめる。
「体調が悪いなら、今日は終わりにします」
「大丈夫です」
「サチも、平気です」
「今日は、見たことと感じたことを覚えておいてください」
それから二人は、短い時間だけ原稿へ戻った。
キズナはアツの画面を指す。
「明日は、さっきの続きを。使える形を残して、この漫画の線へ合わせてください」
続いてサチハへ、
「次は、十分経ったところで一度、途中を見せてください」
と告げた。
異常が消えても、仕事は消えないらしい。
帰り支度を始めたところで、アツは足を止めた。
「戸隠さん。羽田でも、同じことをしてたんですか」
キズナの手が止まる。
「……同じではありません」
「でも、あの白い線は」
「見間違いではありません」
机の上では、自分が直した工具だけが原稿から少し浮いている。
目の奥には、紙の外へ引かれた白い線が残っていた。
見間違いという逃げ道は、もう消えていた。
「じゃあ、あれは何だったんですか」
「今日のものとは違います。羽田の方が、ずっと大きかった」
キズナは一拍置いた。
「詳しい説明は、明日から少しずつします」
その顔を見て、アツはそれ以上聞けなかった。
答えを得たはずなのに、分からないことは前より増えていた。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
新編『描線眼鏡』、お盆ウィーク連続投稿4日目です。
本日は第4話「上の階の異変」を公開しました。
前話で漫画スタジオの面接を受けた加藤アツ。
そこは漫画スタジオでありながら、ただ漫画を描くだけの場所ではありませんでした。
迎えた三日間の試用初日、同じ期間に試用だと言われた少女、原稿に向き合い苦戦する中、上の階で起きた小さな異変。
日常の中に、少しずつ「見えない世界」が重なり始める回になります。
第1話から第4話まで公開中です。
8月16日までは「お盆ウィーク連続投稿」として、毎日20:30頃に第6話まで公開予定です。
また、旧編三部作については、お盆ウィーク終了の今週末まで公開を延長しています。
旧編からの方も、初めての方も、よければこの機会に触れていただければ嬉しいです。
引き続き、新しい『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。




