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第3話 三十秒の武器

漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。


旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。

 返信が来たのは、応募してから三時間後だった。


 早い。

 早すぎる気もする。


 アツはスマホの画面を見つめた。


《加藤アツ様

 このたびはA station制作補助スタッフ募集へご応募いただき、ありがとうございます。応募作品および登録ポートフォリオを拝見し、一度面接をお願いしたく存じます》


 面接は……明日の午後ってやっぱり早すぎるだろ。


 持参物は、筆記具、ポートフォリオ、スマートフォン、本人確認書類。


《当日の体調に不安がある場合は、事前にご連絡ください》


《来訪途中に体調不良や視界の違和感が生じた場合は、無理に移動せずご連絡ください》


 署名には、

《A station 戸隠キズナ》

 とある。


 名前を見た瞬間、羽田の煙の向こうに立っていた少女が、また目の奥へ戻ってくる。


*


 翌日。

 現地に向かう電車の中で、アツはポートフォリオを何度も開きかけては閉じた。


 白い線のことは聞きたい。けれど、漫画の仕事としても落とされたくはなかった。


 地下を走っていた電車が地上へ出て、大きな川を渡った。

 そこから数駅。


 初めて降りた駅前は、思ったより静かだった。ロータリーを右に曲がり、緩い坂を下る。車の音が絶えない太い国道を渡ると、急に住宅街になった。植木鉢、自転車、干された洗濯物。生活感の漂うその一角に、地図の示す古いマンションがあった。入口脇の看板だけが真新しい。


《A station》


 アツは住所をもう一度確認した。間違っていない。


*


 アツはインターホンを押した。

 少し間があって、奥から足音が近づいてくる。


 ドアを開けたのは、背は高くないが、がっしりとした体つきの男だった。アツより年上に見える。寝癖なのか元からなのか分からない髪に、黒いTシャツ。片手には定規を持っている。


「加藤くん?」


「はい。面接で――」


「お、合ってる合ってる。上迫ケンだ。こっちこっち」


 確認が早い。

 ケンはドアを大きく開け、アツを中へ招いた。


「靴そこね。あ、右の束は踏まないで。踏むと先生が泣く」


 足元を見ると、コピー用紙と建物写真の束が壁際に積まれていた。


「これ、床に置いて大丈夫なんですか」


「大丈夫じゃないから踏まないでって言ってる」


 言いながら、ケンは自分で束をまたいだ。

 中は、外から見たより広かった。


 作業机がいくつも並び、液晶タブレットと紙原稿が同じ机の上に置かれている。壁際の棚には、建築、鉄道、植物、服飾、武器と書かれた資料ファイル。定規やペン先の入ったケース。ホワイトボードには、《ネーム》《背景残り》《仕上げ》《編集確認》の付箋が、色分けされて貼られていた。


 作業机から少し離れた棚には、菓子の袋とペットボトルがまとめて置かれている。


「飲み物は、あっちだけ」


 アツの視線に気づき、ケンが言った。


「一回、原稿の横でコーヒー倒してから決まりになった」


「誰が倒したんですか」


「そこは守秘事項」


 たぶん本人だ。


 画面の一つに、チャットの未読通知が点滅している。別の机には消しゴムのかす。椅子の背には薄い毛布。少なくとも、アツの想像にある漫画スタジオらしい光景だった。


 羽田の少女を追って来たはずなのに、アツは少しだけ肩の力が抜けた。怪しい場所でなかったことより、本当に漫画を作っている場所だったことに安心した。


 落とされた賞の受賞者がいる場所。もっと居心地が悪いと思っていた。けれど、雑然と並ぶ道具たちのせいか、不思議と見慣れた場所のように感じた。


「先生、面接の人来たよ」


 ケンが奥へ声をかける。

 液晶タブレットの前に座っていた小柄な少女が、ゆっくり顔を上げた。


*


 少女は椅子から立ち上がった。


 写真で見たより、さらに小柄だった。記事で年齢を知っていなければ、中学生だと思ったかもしれない。


 けれど、周囲に積まれた原稿も、机の上の予定表も、ケンが声をかけた時の自然な間も、ここが彼女を中心に動いていることを示していた。


「戸隠キズナです。今日は来てくださってありがとうございます」


 丁寧に頭を下げる。

 声と、眼鏡越しの静かな視線が重なった瞬間、迷いはほとんど消えた。


 羽田にいた少女だ。


 背中が少し冷えた。事故のショックではない。少なくとも、少女は本当にいた。

 ただ、あの場所で何をしていたのかだけは、まだ分からない。


「加藤アツです。よろしくお願いします」


 本当は聞きたかった。

 羽田にいましたか?

 あの白い線は、あなたが描いたんですか?


 でも、初対面の面接で切り出せる話ではなかった。少なくとも、漫画の腕を見てもらう前にファンタジーの話を始めるのは違う気がした。


「今日は体調は大丈夫ですか」


 キズナが聞いた。


「はい。たぶん」


「たぶん、ですか」


「昨日よりは」


 一瞬だけ、キズナの目が細くなった。

 何かを確認された気がしたが、それ以上は聞かれなかった。


 面接は、キズナの机の横にある小さな打ち合わせ卓で始まった。

 キズナはアツのポートフォリオを開く。


「科学漫画大賞へ応募されていましたよね」


「……はい。落ちましたけど」


「応募作品も確認しました」


 自分が落ちた賞の受賞者に、落選作を読まれている。

 思った以上に逃げ場がない。

 キズナは原稿を数枚めくった。


「線は少し硬いです」


「はい」


「でも、止まっている物にも、その前と後の動きを残そうとしています」


 落選作の中から、自分でも説明できなかった癖を拾われた。受賞者に言われるのは少し悔しい。それでも、ちゃんと読まれたことは嬉しかった。


 キズナは原稿から目を上げた。


「簡単な実技課題をお願いしてもいいですか」


 その声は、さっきまでより少しだけ仕事の声になっていた。


*


 打ち合わせ卓の上に、紙とペンが置かれた。


「課題は三つです」


 キズナが一枚の資料を差し出す。

 描かれていたのは、巨大な斧だった。


 刃は二枚。背の部分にも小さな刃。柄には金属の装飾と宝石らしきものが並び、握る場所にも細かな突起がついている。

 強そうではある。

 持ちたくはない。


「まず、これを模写してください。制限時間は九十秒です」


「九十秒」


「始めます」


 たったの一分半。心の準備を待ってくれる面接ではないらしい。

 アツは急いでペンを走らせた。

 大きな刃。柄の角度。補助刃。装飾。

 形を拾おうとするほど、細部が目に入る。全体を取るべきだと分かっているのに、目に入った細部を捨てられない。宝石の台座まで描きかけたところで、キズナの声がした。


「終了です」


「もう?」


 紙の上には、刃だけ妙に立派な斧が残った。柄の下半分は薄く、握る場所も曖昧だった。少女を確かめに来ただけなら、苦笑いで流していたかもしれない。けれど今は、普通に悔しかった。

 ケンが横から覗く。


「九十秒なら速い方じゃない?」


「完成してません」


「漫画は、完成したことにして締切を越える技術も――」


「ありません」


 キズナが即座に否定した。


「ないらしい」


「知ってました」


 アツは新しい紙を受け取った。


「次は、この斧を実際に使える形へ直してください」


「使える形?」


「持てて、振れて、見れば使い方が分かる形です。制限時間は六十秒」


 さらに短くなった。


 アツは斧の絵を見た。

 余計な刃が多すぎる。柄も細い。装飾は手に食い込みそうだし、この重さでは振り上げる前に肩を壊す。

 ペンを走らせる。

 背中側の刃を消す。柄を太くする。握る位置を二か所に絞る。刃を小さくし、柄との釣り合いを取り直す。


「終了です」


 キズナの声で、アツはペンを置いた。

 最初より地味になった斧が、紙の上にある。装飾は減った。だが、どこを握り、どちらへ振るのかは分かる。

 キズナはしばらく絵を見た。


「先に、刃と柄の釣り合いを直したんですね」


「このままだと、振った人の肩が壊れそうだったので」


「形より、使う人を先に見たんですね」


「絵でも、使えないものは気になります」


 キズナは小さく頷いた。

 新しい紙が置かれる。


「最後です。いちばん描きやすい武器を描いてください」


「条件は?」


「手に持てること。見れば使い方が分かること」


「時間は?」


「三十秒です」


 アツは紙を見た。

 剣でいい。

 無難な形なら描ける。

 そう思ったのに、ペン先が止まった。


 羽田の光景が戻ってくる。

 炎。

 黒い揺らぎ。

 その縁をほどいた、白い線。

 眼鏡の少女の手の先で、一瞬だけ形になったもの。


 今でも分からない。

 それでも、どちらへ動いたのかだけは覚えていた。


 アツは最初に柄を描いた。

 次に、握る手の位置。

 そこから刃先へ一本の軸を通す。抜く方向。振り始める角度。重さが通っていく軌道。

 外形を整える時間はなかった。

 装飾もない。

 細い線が数本あるだけだった。


「終了です」


 アツはペンを離した。


 日本刀に近い。


 けれど、刀の絵というより、誰かがそれを振るう途中だけを残したような線だった。

 自分でも、なぜこう描いたのか分からない。

 また形にしきれなかった。今度こそ失敗したと思った。

 ケンの軽口が止まっていた。

 キズナは紙を見たまま動かない。


「……形じゃない」


「え?」


「振る前から、動きがある」

 

*


 課題のあと、キズナとケンは少し離れた場所で言葉を交わした。長い相談ではなかった。


「加藤さん。まず試用という形で、三日ほど来ていただけませんか?」


「試用、ですか」


「はい。まずは制作補助として」


 想像していたより、あっさり決まった。

 羽田のことを聞ける。そのために来たはずだった。

 なのに最初に胸へ来たのは、別のことだった。

 自分の線を見て、ここに来ていいと言われた。それが、思った以上に嬉しかった。


「試用の三日間は、制作手順と……作業上の安全事項を説明します」


 安全事項?

 一瞬考えたが、アツは思いきって聞いてみた。


「あの、戸隠さん」


「はい」


「羽田のことで――」


 その時、奥の端末が短く震えた。

 小さな音だった。

 けれど、ケンの笑顔が止まった。

 キズナが画面を見る。

 原稿も液晶タブレットもそのままなのに、部屋の用途だけが切り替わったように見えた。


「確認します」


 キズナが言う。


「ケンさん、お願いします」


「了解」


 返事に軽さはなかった。


「何かあったんですか」


「仕事の連絡です」


 キズナはそれ以上説明しなかった。

 今日は帰るよう告げられ、ケンに玄関まで促された。


「悪いな。初日から落ち着かなくて」


「漫画の仕事って、いつもこんな感じなんですか」


 ケンは一瞬だけ答えに詰まった。


「……締切前は、まあ」


 たぶん、そういう話ではない。

 外へ出ると、住宅街は何事もなかったように静かだった。

 すぐにスマホが震える。


《A station 試用採用のお知らせ》

《初回業務説明:翌日》

《守秘事項:初回研修時に説明》


 漫画の仕事に採用された。そのことは、素直に嬉しかった。

 けれど、端末が震えた瞬間に変わった空気が、頭から離れない。

 明日から通うのは漫画スタジオだ。

 でも、たぶん、それだけではない。





本日は第3話「三十秒の武器」を公開しました。

前話では、映像に残らなかった少女の存在を追いかける形で、漫画家を目指すアツが少しずつ見えない世界へ近づいていきました。

第3話では、少女を探して漫画スタジオへ。ただそこは漫画を描くだけの場所では無さそうで……。


旧編を読んでくださった方にも、初めて読んでくださる方にも、新しい入口として楽しんでいただければ嬉しいです。


8月16日までは「お盆ウィーク連続投稿」として、毎日20:30頃に第6話まで公開予定です。

引き続き、新編『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。

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