第2話 画面にいない少女
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。
旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。
朝になっていた。
眠った記憶は、ほとんどない。
机の上には、昨夜開いたままのスケッチブックがある。白い線を思い出しながら何本も引いた跡。まっすぐな線。震えた線。途中で止まった線。
どれも違った。
羽田で見た線は、もっと迷いがなかった。
スマホには安否確認が並んでいた。
母。父。友人。知人。
無事だとは、もう伝えてある。
それでも母親からは、
《朝ご飯は食べた?》
《病院には行った?》
《眠れた?》
と順番に届いていた。
飛行機事故から生還した息子に、次に確認するのが朝飯なのは、いかにも母親らしい。
アツは返信欄に「大丈夫」と打った。
少し考えてから、「たぶん」を足した。
《たぶん大丈夫》
送信すると、すぐにニュース通知が画面を覆った。
《羽田空港事故、乗客脱出の一部始終》
《現場撮影の映像が拡散》
《炎上する機体、緊迫の避難》
サムネイルには、昨夜の炎が映っていた。
アツはスマホを伏せた。
目を閉じても、白い線だけは消えなかった。
*
結局、アツはスマホをもう一度手に取った。
事故の映像は、もう見たくなかったが、白い線までなかったことにされる方が怖かった。
通知を開くと昨夜の動画がニュース記事に埋め込まれていた。
《現場に居合わせた契約記者が撮影》
動画には炎上する機体。黄色い脱出シューター。滑走路を走る乗客。消防車の赤い光。昨夜、何度も見た映像だった。
再生位置を戻す。止めては、少しだけ進める。
何度見ても白い線はなく、眼鏡の少女も居なかった。
代わりに、画面の端へ小さな人影が入った。
自分だった。
毛布をかけられる前のタイミングだろうか、靴を引きずるように歩いて、機体から離れている。
アツは指を止めた。
画面の中の自分が、不意に立ち止まった。
周りの乗客は前へ進んでいるのに、自分だけが身体を半分ひねって上を見ていた。
「……ここだ」
あの時、白い線と眼鏡の少女を見た。たぶん、その瞬間だった。
アツは画面を拡大してみる。自分の視線の先には、炎と煙と、ターミナルのガラスがあった。しかし白い線はない。少女らしい影も見つからなかった。
映っていない。
なのに、画面の中の自分だけが、確かに何かを見ていた。
動画をさらに進める。
映像が大きく揺れた。画面の外から、男の声が入った。
『すみません、報道の者です。乗客の方ですよね? 中では何が起きました? 煙はいつから?』
アツは顔を上げた。
声に聞き覚えがある。
続いて、昨夜と同じ係員の声が流れた。
『取材は後にしてください。離れて』
その先で動画は終わった。
《提供 週刊文潮》
見出しの下には、撮影者の名前もあった。
《本誌契約記者 野田》
昨夜、こちらの返事も待たずに質問を重ねてきた男の声だった。首から下げていたカードにも、『週刊文潮』の文字があった。
白い線は映らない。
少女も映らない。
けれど、見たはずの自分だけは残っている。
調べてみよう。
アツは動画を閉じ、検索欄を開いた。
*
最初に入れたのは、
《羽田 眼鏡の少女》
だった。
検索結果には、事故の記事と、怪談めいた投稿と、眼鏡店の広告が並んだ。
違う。
《白い線 事故》
今度は道路標示と航空写真ばかり出てきた。
「そりゃそうだよな……」
声にすると、少しだけ馬鹿らしくなった。
自分は何を探しているんだ。
事故現場で見た、空中に線を引く眼鏡の少女。そんなものを、検索窓に入れて見つかると思っている方がおかしい。それでも指は止まらなかった。
ふと、思い出した。自分を落とした賞の受賞作が、確か『眼鏡の女の子』だった。
《眼鏡の女の子 漫画》
検索結果の上に、見覚えのある名前が出た。
《集談館科学漫画大賞 新人賞受賞》
《戸隠キズナ『眼鏡の女の子』連載開始決定》
アツはしばらく画面を見た。
自分が落ちた賞だ。
落選通知は消せないくせに、受賞者の記事はまともに読まなかった。祝う気にもなれなかったし、受賞者の笑顔を見るのも嫌だった。
記事を開く。
画面に、眼鏡をかけた少女の写真が表示された。
戸隠キズナ。十六歳。高校生漫画家。集談館科学漫画大賞新人賞を受賞。
受賞盾を何とか抱えている少女は小柄で、記憶の中の少女にとてもよく似ていた。
だが、画面の中の愛らしい笑顔と、あの時の冷たい視線がどうしても結びつかない。
煙と炎の中で見た顔など信用できない。
それでも、写真から目を離せなかった。
記事を下へ送る。
受賞作『眼鏡の女の子』。
ページの末尾に、小さく制作情報が載っていた。
《制作スタジオ A station》
アツはその名前を押した。
検索結果は多くなかった。漫画制作スタジオ。戸隠キズナの連載作品を担当。所在地は神奈川県内。公式ページは最低限。スタッフ紹介も、制作実績も、妙に情報が少ない。
《現在、一般募集は行っていません》
アツは画面を見つめた。
その名前を、どこかで見た気がした。
検索履歴ではない。
メールだ。
科学漫画大賞に落ちたあと、開かずに放置したメールの中に、似た名前があった。
アツはメールアプリを開いた。
*
メールボックスで、《科学漫画大賞》と検索する。
落選通知が一番上に出た。
目に入れたくはなかったが、その下に未読のまま放置していたメールがある。
《科学漫画大賞応募者向け 制作補助スタッフ登録のご案内》
「ああ、これか」
届いたことは覚えていた。
落選通知の直後だったから、まともに読む気になれなかったのだ。
賞には落とす。
でも受賞者の手伝いなら紹介する。
そう言われた気がして、少し腹が立った。
実際には、そんなことはどこにも書いていない。八つ当たりだ。それくらいは分かっている。
アツはメールを開いた。
応募時の原稿と作画環境をもとに、連載作家や関連スタジオの求人を提示する制度らしい。
賞には落ちても、原稿データまでは有効活用されるらしい。
本文の下に、専用ページへのリンクがある。
押すと、応募時に作ったアカウントがそのまま残っていた。プロフィール。使用ソフト。作画歴。提出した漫画原稿。見返したくないものまで、きちんと保存されている。
《登録情報に一致する求人があります》
表示されたのは、一件だけだった。
《A station 連載作品制作補助スタッフ募集》
新人賞には落ちても、受賞者の背景を描く候補にはなれるらしい。
求人内容を開く。
背景、小物、仕上げ、資料整理。守秘義務あり。
週五日のスタジオ勤務だそうだ。
今どき、テレワーク・在宅可の方が多いのに珍しい。
一次選考で落ちた自分に、なぜこの一件だけが表示されたかはわからない。
応募フォームを開く。
氏名。年齢。連絡先。使用ソフト。作画経験。応募番号。
途中までは自動入力されている。
最後に、志望動機の欄があった。
本音を書くなら簡単だ。
羽田で、あなたを見た気がする。
空中に白い線を引いていた。
あれが何だったのか知りたい。
書けるわけがない。
アツはしばらく考え、無難な文章を打った。
《漫画作品の制作現場に関心があり、これまでの作画経験を活かしたいと考え応募しました》
「嘘じゃない……半分足りてないだけだ」
送信ボタンの上で指が止まる。
自分は落選者で、相手は受賞者だ。
事故の翌朝から、煙の中で見た少女を検索し、その勤務先らしき場所へ応募しようとしている。
客観的に見ると、自分で何をやっているのか怖い。
別人だと分かれば、少なくとも終われる。
でも、もし違わなかったら?
あの白い線が、今もどこかで描かれているなら?
応募画面を閉じられないのは、それだけではなかったのかもしれない。自分の絵が、まだ誰かの仕事に使えるかも……そんな思いもあった。
アツは送信ボタンを押した。
《適性情報を確認しています》
一瞬だけそんな文字が表示され、それから画面の文字が、白くずれた。羽田で見た線を思い出したのは、たぶん寝不足のせいだ。
「適性情報?」
読み返す前に画面が切り替わる。
《応募を受け付けました。選考結果は後日通知します》
あとは、どこにでもある受付完了画面だった。
アツはスマホを置いた。
ただのアシスタント応募だ。
白い線を確かめたい。漫画の仕事にもつながりたい。
どちらが本当の理由か分からないまま、アツは自分で入口を開いた。
第1話「羽田の白い線」で、漫画家志望の青年・加藤アツは、事故の中で誰にも映らない白い線と眼鏡の少女を目撃しました。
第2話では、その映像に残らなかったものを追いかける形で、アツが少しずつ「見えない世界」へ近づいていきます。
旧編を読んでくださった方には、同じ世界を別の角度からもう一度たどる物語として。
初めての方には、ここから入れる現代異能SFとして。
お付き合いいただければ嬉しいです。




