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第1話 羽田の白い線

漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。


旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。

 帰ってきた、とりあえず。

 帰ってどうするか、は見えてこない。


 加藤アツは、機内の窓から東京湾の灯りを見下ろしていた。

 房総半島の黒い輪郭。その先に広がる海。遠くに並ぶ滑走路の灯り。


 実家では餅を食べた。親戚には将来のことを聞かれた。「漫画の方はどうなの」と言われ、アツは「まあ、ぼちぼち」と笑った。

 ぼちぼちって何だよ。何がどうなったら、漫画家志望がぼちぼちになるんだ。


 荷物棚の鞄には、母親から押し込まれた土産のバターサンドが入っている。あと、ペンタブレット。描きかけのネームも入っている。


 重い。


 バターサンドも重いが、どちらかというとペンタブレットの方が精神的に重い。


 スマホには、まだ消せない通知が残っていた。

 集談館科学漫画大賞新人賞、一次選考結果のお知らせ。

 開き直る気にはなれない。削除する気にもなれない。つまり、ものすごく中途半端だった。


 アツは通知から目をそらし、登録していたサイトの漫画アシスタントの求人欄を開いた。


 背景、仕上げ、デジタル作画経験者優遇。週三日以上。在宅可。未経験応相談。


 応相談。


 その三文字だけが、ちょっとだけ優しく見える。


 漫画家志望。星の数ほどいる存在だが、とりあえず名乗れる。名乗っているあいだは、まだ完全には負けていないような気がする。そんな気がする。


 機内アナウンスが流れ、乗客たちが少しずつ姿勢を直した。


「当機はまもなく、東京国際空港、羽田に着陸いたします――」


 アツはスマホを伏せ、もう一度窓の外を見た。

 機体が小さく揺れる。着陸前にはよくある揺れだ。


 そう思った。


 けれど一瞬、身体に返ってくる振動が遅れた気がした。

 窓の外で、滑走路の灯りが細く滲む。


 光の帯。

 いや、線。

 なんだ今の。


 アツはまばたきをした。

 次に見たときには、それはただの誘導灯に戻っていた。


*


 車輪が滑走路に触れた。

 少し乱暴な着地。

 そう思った直後、機体が大きく跳ねた。


 何かを、乗り越えた。

 いや、そう感じただけかもしれない。音が先だったのか、衝撃が先だったのかも分からない。ただ、次の瞬間には、アツの身体はシートベルトに強く押しつけられていた。


 金属が悲鳴を上げた。

 床が震えた。

 頭上で荷物棚が開く音がした。


「きゃああああっ!」

「なに、なに、なに!?」

「伏せて!」


 誰かのスマホが通路を滑っていった。前の座席にぶつかり、黒い画面が割れる。

 アツは息を吸おうとした。うまく吸えなかった。焦げた匂いがした。煙の匂い。いや、煙そのものが、どこかから流れ込んできている。


 これ、まずいやつだ。


 頭のどこかで、妙に冷静な言葉が浮かんだ。冷静なのは言葉だけで、身体は全然ついてこない。指先が震えている。膝も震えている。たぶん顔もひどいことになっている。


「皆さま、落ち着いてください! 前の方から順番に避難します!」


 客室乗務員の声が飛んだ。

 すごいな、と思った。

 この状況で、仕事の声が出るんだ。


「手荷物は持たないでください! 荷物は置いてください!」


 荷物。

 その言葉で、アツは反射的に頭上を見た。

 鞄がある。

 母親に押し込まれたバターサンド。充電器。着替え。描きかけのネームが入ったペンタブレット。

 どうでもいいものと、どうでもよくないものが、同じ鞄に入っている。

 手が伸びた。


「荷物は置いてください!」


 鋭い声に、アツの指が止まる。

 命より大事な荷物はない。

 そんな当たり前のことが、今は自分だけでは判断できなかった。


「は〜や〜く〜だ〜し〜て〜く〜だ〜さ〜い」


 少し前の席で、子どもが叫んでいた。親に言われたのか、たどたどしく、妙に間延びした声だった。その声だけが、機内の悲鳴の中で変にはっきり聞こえた。


 早く出たい。

 みんなそうだ。


 でも、列はなかなか進まない。何十分も待っている気がした。たぶん、実際にはそんなに経っていない。それでも、煙の匂いが濃くなるたび、時間が引き伸ばされていく。


「ハイヒールや尖った靴は脱いでください! 前の方から順番に!」


「走らないでください! 押さないで!」


 アツは前の人の背中だけを見て進んだ。

 怖い。

 熱い。

 煙い。

 頭の中には、その三つしか残っていなかった。

 ようやく前方のドアが見えた。

 外の光が見える。

 夜なのに、やけに明るい。炎の色だと気づくまで、一瞬かかった。


「両手を前でクロスさせて、胸部を保護してください! 下に降りても立ち止まらないで、すぐに機体から離れて!」


 言われた通り、アツは両腕を胸の前で交差させた。

 ドアの外へ出る。

 冷たい風が顔に当たった。

 黄色い脱出シューターに足を踏み入れた瞬間、身体が落ちた。

 浮いた、と思った。

 次には、地面が来た。

 足がもつれ、膝が崩れそうになる。誰かにぶつかられたのか、自分でよろけたのかも分からない。


「立ち止まらないで!」


 声に押されるように、アツは走った。

 走った、というより、前へ転がった。

 生きている。

 それだけは分かった。


 でも、自分が何から逃げているのかは、まだ分かっていなかった。


*


 滑走路は、思っていたよりも冷たかった。

 それから、広かった。

 こんなに広い場所なのに、どこへ逃げればいいのか分からない。前を走る人の背中を追えばいいのか、係員の声に従えばいいのか、そもそも自分の足がちゃんと動いているのかも怪しい。

 機体の方から、熱が押し寄せてくる。

 赤い光。黒い煙。消防車のサイレン。泡のようなものが滑走路に広がっていく。誰かが泣いている。誰かが怒鳴っている。誰かが、まだ機体の方を振り返っている。


「離れてください! 機体から離れて!」


 声は聞こえている。

 でも、身体の反応が遅い。

 片方の靴が脱げかけ、アツはよろけた。膝が滑走路に当たる。痛い。遅れて痛い。煙を吸って、咳が出た。

 顔を上げた。

 何かが見えた。

 機体の影の下に、黒いものがあった。

 煙ではない。

 炎の影でもない。

 もっと薄くて、もっと重い。事故のあとに、そこだけ現実から剥がれ残ったみたいな、黒い揺らぎ。


「なんだ、あれ?」


 思わず声が出た。

 煙を吸ったせいだ。怖すぎて、変なものが見えている。そう思おうとした。

 けれど、その黒いものは、煙とは逆の方向へ揺れていた。


 そのとき、白いものが走った。

 光でも、火花でもない。

 そう、誰かが空中へ白いインクを引いたように。


 線だ。


 アツは、なぜかそう思った。誰かが、そこに描いたんだ。


 白い線が触れた場所から、黒い揺らぎがほどけた。絡まった糸を、ペン先で解くように。

 ありえない。

 でも、見えている。

 アツは息を忘れたまま、白い線の先を追った。


 なぜか、上を見た。


 ターミナルのガラス面。その向こうなのか、炎の反射の中なのか分からない場所に、少女がいた。


 眼鏡をかけた少女だった。


 避難する人の流れから外れ、彼女だけが炎ではないものを見ていた。

 片手に端末。もう片方の手に、ペンのようなもの。

 事故現場の赤い光の中で、眼鏡のレンズだけが白く冷えて見える。炎と悲鳴には似合わない静かな手つきで、少女は何かを描いていた。

 ペン先が、白く灯る。

 いや、違う。

 光ったんじゃない。

 線が生まれた。

 端末の上ではなく、空中に。

 その線の向こうに、一瞬だけ輪郭が浮いた。刀のようにも、槍のようにも見えた。けれど次の瞬間には、形はほどけ、ただの白い線に戻っていた。

 少女がこちらを向いた。

 目が合った。

 けれど、違う。

 彼女の視線は、アツを通り越していた。アツの背後に、まだ何かが残っているかのように。


「……見えてる?」


 そう聞こえた気がした。

 風の音かもしれない。サイレンかもしれない。誰かの叫び声だったのかもしれない。


「そこの方、立てますか!」


 腕をつかまれた。

 現実が戻ってきた。


「こっちへ! 機体から離れてください!」


 アツは引っ張られるように立ち上がった。足がもつれる。振り返る。

 振り返っても、そこにあるのは炎と煙と、赤く回る消防車の光だけだった。

 そこに、もう少女はいなかった。

 ただ、白い線だけが、まぶたの裏に残っていた。


*


 気づけば、アツは毛布を肩にかけられていた。

 滑走路から離れた待機場所で、紙コップの水を渡される。飲んだ。味はしなかった。


「お名前、言えますか?」


「加藤……アツです」


「お怪我は?」


「たぶん、膝を。でも歩けます」


 係員の声は落ち着いていた。だからこそ、アツは自分の声がひどく頼りなく聞こえた。

 スマホには、不在着信が並んでいる。

 母。

 父。

 母。

 母。

 母。

 さっきまで面倒だった実家が、急に現実のものに戻った。


「あの」


 アツは係員に声をかけた。


「あそこに、女の子が……眼鏡の。白い線みたいなのを」


「お連れの方ですか?」


「いや、そうじゃなくて」


「煙を吸っているかもしれません。念のため、座っていてください」


 違う。そう言いたかった。

 けれど、何が違うのか、自分でも言葉にできなかった。


 ふと、首から下げた記者証のようなカードを揺らした男が、スマホを構えているのが目に入る。カードには『週刊文潮』の文字が見えた。

 事故を撮っている。炎を撮っている。毛布にくるまった人も、泣いている人も、まとめて画面に入れようとしている。

 嫌な目だ、と思った。

 救助する目でも、心配する目でもない。何かを拾おうとしている目だった。

 アツの目線に気づいたようだ。


「すみません、報道の者です。乗客の方ですよね? 中では何が起きました? 煙はいつから? 避難誘導に問題はありませんでしたか?」


 矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。


「取材は後にしてください。離れて」


 係員の声が割って入る。

 男は一歩下がった。

 でも、スマホは下ろさなかった。


*


 深夜、自分のアパートに戻ってきた。

 部屋は、出発したときのままだった。流しに置いたマグカップ。床に積んだ漫画雑誌。机の上のペン立て。描きかけのネームを開いたままのパソコン。

 何も変わっていない。

 変わったのは、自分の目の奥だけだった。

 スマホを開くと、事故はもう、事故ではなくなっていた。

 ニュース。切り抜き動画。コメント。まとめ。誰かの恐怖が、誰かの画面の中で何度も再生されている。


《全員脱出できたの奇跡では》

《これ撮った人すごい》

《荷物持って逃げてる人いない?》

《映画みたいとか言うなよ、現実だぞ》


 アツは画面をスクロールした。

 誰も、白い線の話をしていなかった。

 眼鏡の少女の話も、していなかった。

 映像を開く。画面は揺れていた。炎上する機体。脱出シューター。走る乗客。消防車の赤い光。毛布をかけられた誰かの背中。


 その中に、自分もいた。

 小さく、情けなく、画面の端を横切っていた。

 アツは一時停止した。

 画面の中の自分は、ただ逃げていた。生き残ることだけで精いっぱいの顔だった。


 指で画面を戻す。

 止める。

 拡大する。

 もう一度戻す。

 炎の向こう。煙の端。消防車の赤い光が揺れた、その一瞬。

 画面の端に、白いノイズが走っていた。

 アツの心臓が、嫌な跳ね方をした。


 これだ。

 そう思った。


 でも、次の瞬間には分からなくなる。

 ただの圧縮ノイズに見える。レンズの反射にも見える。画質の荒れだと言われれば、それで終わる。


 そこに、あの少女だと分かる姿はなかった。

 さらに拡大する。煙の奥に、小さな光がある。眼鏡の反射にも、人影にも見える。けれど、輪郭はノイズに崩れ、顔にはならない。


 あの少女だったと断言できるものは、何も残っていなかった。

 見間違いだ。


 事故のショックだ。煙と炎とサイレンと恐怖が、頭の中で変な絵を作った。そう考えるのが、一番まともだった。

 それなのに、白い線だけは消えなかった。


 炎の色よりも。煙の匂いよりも。シューターを滑った感触よりも。

 あの線だけが、やけにはっきり残っていた。

 描いた線なら、分かる。

 下手な線も、迷った線も、勢いだけの線も。何本も引いて、何本も消してきた。


 でも、あれはそのどれでもなかった。

 例えるなら、入り抜きが完璧な線。

 アツは、手近なスケッチブックに線を引いてみた。

一本。もう一本。さらに一本。

 どれも違う。

 あんな線を、アツは見たことがなかった。


 ため息をついてスマホに戻る。

 画面を消すと、黒くなったガラスに自分の顔が映った。

 ひどい顔だった。疲れていて、情けなくて、まだ少し震えている。けれど、アツの目の奥には、まだ白い線が残っていた。

 事故の炎よりも細く。煙よりも白く。誰かが世界の裏側に引いたみたいな、一本の線。

 あの眼鏡の少女は、いったい何だったんだ。

 




漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃します。


それは、ただの事故ではなかったのか。

映像に残らなかったものを、彼だけがなぜ見たのか。

そして、その白い線はどこへつながっているのか。


新編は、旧編三部作の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口、キャラクターの導入、見えない世界の描き方をあらためて整理し、新しい第1話から描き直していくものです。


旧編を読んでくださった方には、同じ世界を別の角度からもう一度たどる物語として。

初めての方には、ここから入れる現代異能SFとして。

お付き合いいただければ嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
 新たな異能の物語が始まった予感にワクワクです☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
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