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第21話 地図にない光

漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。


少女の名は、戸隠キズナ。

十代の新人にして、自ら漫画スタジオ「A station」を構える天才少女漫画家。


原稿を描き、締切を追い、仲間と働く。

そして眼鏡越しに現れる“魔”へ線を引く。


漫画と科学、想像力と観測。

異なる“見え方”を持つ仲間たちが、それぞれの線を重ねながら、世界の見えない側へ踏み込んでいくSF群像劇。

 会議室に入るなり、ランが椅子に沈み込んだ。


「……地下って、見て回るだけでも疲れるんだね」


「五万トンの水を見たわけじゃないけどね」


「気分は五万トン分だよ……」


 マナセが笑い、サキは配られた資料をきちんと揃えている。

 谷保五郎は端末に向かい、壁のモニターへ二つの記録を映し出した。


「さて。今度は、みんなの仕事の話をしようか」


 左側には研修時の映像。右側には先日の戦闘ログが並んでいる。


「あ……これ」


 サチハが小さく声を漏らした。


「そう。君の記録だよ」


 谷保は左側の画面を指した。


「研修のときは、輪郭が曖昧でも、何かがあることは報告できていたんだね」


 白い線が揺れ、画面の端で途切れる。


「でも、こちらは……」


 右側の記録が動き出した。


 アツは思わず身を固くした。倉庫での出来事が、無機質な線と数字になって再現されている。


「眼鏡の表示と、本人が見たものは、同じとは限らないんだ」


「……機械が間違えたんですか?」


 アツの問いに、谷保は首を振った。


「それも調べる。でも、機械が正常だったとしても、問題がないとは言い切れない」


 サチハは膝の上で、眼鏡のケースを握っていた。


「そこで、少し試してみたい」


 谷保が画面を切り替える。


「実戦じゃないよ。模擬映像を使う。武器も使わないし、途中でやめても構わない」


「……はい」


 サチハは小さくうなずいた。


 キズナが隣から声を掛ける。


「無理はしないでね」


「はい。……サチ、ちゃんと確かめたい」


 アツは何か言おうとして、やめた。


 サチハはケースを開き、描線眼鏡を取り出す。

 少しためらってから、耳に掛けた。


 研究員が隣室の扉を開ける。中には椅子とモニターが一台。地下で見た巨大装置に比べれば、ずいぶん小さかった。


「じゃあ、始めようか」


 谷保の声に、サチハはもう一度うなずいた。


 最初に映し出されたのは、白い丸だった。


「これは?」


「……丸です」


「じゃあ、次は?」


「右向きの矢印」


 谷保の操作に合わせて、図形が次々と切り替わる。


「普通の視力検査みたいですね」


 アツが呟く。


「最初は簡単なところからね」


 谷保は笑い、今度は描線眼鏡へ直接画像を送った。


 サチハのレンズに、細い線や四角い枠が浮かぶ。


「これも分かる?」


「はい。ちゃんと見えてます」


「表示の記録も正常です」


 サキが手元の端末を確認した。


「じゃあ、少し難しくしようか」


 画面が暗くなり、白い線がゆっくりと動き始めた。


 研修用に作られた、魔の模擬映像だった。


 アツの前にあるモニターにも、同じ画像が映っている。


「線は見える?」


「……はい」


「どこにある?」


「右の方と……下にも」


 サチハの返答に合わせ、谷保が表示を変えていく。


 白い線が増え、重なり、黒い輪郭を作り始めた。


「じゃあ、これは一つの対象かな?」


「えっと……」


 サチハが顔を近づける。


「線は、あります。でも……」


 しばらく沈黙が続いた。


「形にならないんです」


 アツには、画面に黒い塊が浮かんで見えた。輪郭の一部は曖昧だが、どこを指しているのかは分かる。


「ここまでは、研修のときも試しているね」


 谷保が古い記録を呼び出した。


 当時のサチハは、迷いながらも対象の位置を答えていた。


「もう一度、動かしてみよう」


 模擬対象がゆっくり左へ移動する。


「今、どちらへ?」


「……右?」


 サチハの声が揺れた。


「いえ、左……だと思います」


 言い直したところで、指が止まった。


 アツは、あの倉庫の白い光を思い出した。


 サチハの視線が、一瞬こちらへ向く。


「……ごめんなさい」


「謝らなくていいよ」


 谷保が静かに画面を消した。


「今日はここまでにしよう」


「でも、まだ……」


「十分だよ。無理をしても、正しい記録にならないからね」


 サチハは眼鏡を外し、膝の上に置いた。


*


「装置からの画像は、正常に送られていた」


 谷保が二つの記録を並べる。


「普通の図形も識別できている。けれど、魔を模した像になると、線を一つの対象として捉えるところで不安定になるようだね」


「……じゃあ、サチの眼がおかしいんですか?」


「そう決めるのは早いよ」


 谷保は首を振った。


「研修用の映像だからね。本物の魔を見たときと同じとは限らない。それに、以前からあった問題なのか、事故のあとで強まったのかも、まだ分からない」


 キズナが腕を組む。


「少なくとも、何も見えていないわけじゃない、と」


「その可能性が高いね」


 谷保はサチハに向き直った。


「ところで、君は以前、右側が重いとか、何かが近づいてくるとか、報告していたね」


「……はい。眼鏡で見えなくても、そう感じることがあって」


「今の映像を見ている間は?」


 サチハは少し考えた。


「……何も、感じませんでした」


「そうだろうね。今日は画像を映しただけだから」


 谷保はその記録を残した。


「本当に何かを捉えているのかは、まだ確かめられない。でも、次に感じたら教えてほしいな」


「……いいんですか?」


「もちろん。研究って、分からないことを集める仕事でもあるからね」


 アツはサチハを見た。


 眼鏡を持つ手は、まだ少し強張っている。


 それでも彼女は、もう一度レンズを覗き込んでいた。


「さて、少し休もうか」


 谷保が椅子から立ち上がる。


「実はね、見えないものを調べるために、ずいぶん昔から苦労してきた人たちがいるんだよ」


「……また難しい話ですか?」


「今度は昔話さ」


 谷保は楽しそうに笑った。


*


「昔話って、どのくらい昔ですか?」


 会議室へ戻ると、谷保は紙コップのコーヒーを一口飲み、古い写真をモニターに映した。


「八十年くらいかな」


「……思ったより昔ですね」


「昔話だからね」


 写っているのは、眼鏡を掛けた痩せた男性だった。


「オッペンハイマー。原子爆弾の開発に関わった科学者だよ」


 名前を聞いて、アツも背筋を伸ばした。


「その人が、魔を見つけたんですか?」


「いや。本人には見えなかったらしい」


 谷保は別の記録を開く。黄ばんだ紙に、実験日時と幾つもの手書きの印。


「核物理の研究中、異常が起きる前に気づく研究者がいた。決まって一部の人だけ、妙に勘がいい」


「超能力者?」


 ランが身を乗り出す。


「当時は誰もそう呼ばなかったさ。眼鏡を使っていて、絵や音楽が得意な人に多い。それが何を意味するのか、分からなかった」


「原子爆弾と関係が?」


「そう考えられた時期もあった。でも、彼らが感じていたのは核反応そのものじゃなかったらしい」


 谷保の指が、記録の余白に引かれた細い線をなぞった。


「戦後、その疑問は日本にも伝わった。異常な現象と人間の想像力に関係があると気づいたのが、手塚先生だった。今の協会の始まりにいる漫画家だよ 」


「協会の始祖たる師匠(グランド・マイスター)」


 キズナが呟くと、谷保がうなずいて続けた。


「科学者の立場からは、湯川秀樹、朝永振一郎両博士。小柴昌俊博士の時代には、素粒子を調べる巨大な装置も生まれた」


「それが、今日の地下施設に繋がったと?」


「そこへ至るまでには、ずいぶん寄り道もしたけどね」


 アツは、先ほどまでサチハが見つめていた白い線を思い出した。


「最初に気づいた人も、何が見えてるのか分からなかったんですね」


「うん。だから記録を残した。次の人が確かめられるように」


 サチハは、膝の上の眼鏡をそっとケースに戻した。


「……ずっと、調べてきたんですね」


「そうだね。それでも、まだ分からないことだらけさ」


 谷保が笑う。


「でもね。記録が積もれば、一人では見られないものも見えてくる」


 彼は端末を操作した。


「さて、今度は少し視野を広げてみようか」


 画面が切り替わる。


 そこには、夜の地球が浮かんでいた。



*


 モニターに浮かんだ地球は、暗闇の中で光っていた。


 日本列島を縁取る細かな光。大陸を横切る都市の帯。海岸線に沿って、無数の灯りが連なっている。


「うわあ……きれい」


 ランが息を漏らした。


「人工衛星で観測した、夜間の地球だよ。何日分もの記録を重ねてある。仮に『経済の可視化』と呼んでいる」


 谷保が画面を拡大した。


「街の明かりを見るだけでも、人間がどこでどれだけ活動しているのか、ある程度分かるんだ。富山湾のイカ釣り漁船みたいなのも写るけどね」


「電気が止まれば、暗くなるんですね」


 サキが尋ねる。


「そう。災害や戦争の影響も、光の変化として現れることがある」


「……宇宙からだと、こんなにきれいなのに」


 サチハが呟いた。


 谷保はしばらく画面を眺め、それから別の画像を呼び出した。


「じゃあ、こちらはどうかな」


 同じ地球だった。


 しかし、都市の光は消え、代わりに不規則な色の濃淡が浮かんでいる。暗い地域にも色が広がり、ところどころで濃く重なっていた。


「……何ですか、これ」


 アツが身を乗り出す。


「協会の非公開観測網で推定した、魔の集積分布だよ」


「これが全部、魔?」


「正確には、集積の兆候だね。各地の観測装置や現場の記録を重ねている。観測点の少ない場所は、かなり曖昧だけど」


 谷保は地図の一部を拡大した。


「さっきの『経済の可視化』に対して、これを『憎悪の可視化』と呼んでいる」


 アツはその言葉を、すぐには飲み込めなかった。


 画面には東ヨーロッパが映っている。


「ここは……ウクライナですか?」


「そう。ロシアによる侵攻が続いている地域だ」


 広い範囲に、濃い色の帯が重なっていた。


 次に画面が中東へ移る。


「こちらはガザ地区」


 狭い地域に、ひどく密集した色の塊がある。ただし、その輪郭は滲んでいて、細かな位置までは分からない。


 ランは何も言わなかった。


 先ほどまで美しいと眺めていた地球が、まるで別のものになっていた。


「……憎悪だけなんですか」


 キズナが口を開いた。


「そこにいる人たちが感じているのは、憎しみだけじゃないですよね。怖いとか、悲しいとか……」


「その通りだよ」


 谷保はうなずいた。


「名前が少し乱暴なんだ。僕らが測っているのは、一人ひとりの感情じゃない。人の負の感情の集積として観測された魔の痕跡だ。憎しみだけじゃなく悲しみや恐怖、絶望もある。それが何によって、どのくらい生まれたかまでは分からない」


「じゃあ、この色が濃いからって……」


「そこに暮らす人が憎しみに満ちている、なんて言えないね」


 谷保が表示を縮小する。


 東京にも、ニューヨークにも、色の濃い場所があった。


「戦争のない街にも、こんなに……」


 マナセが呟く。


「人が集まれば、いろんな感情も集まるからね。ただ、集積があっても、必ず魔による災害が起きるわけじゃない」


 キズナは腕を組んだ。


「協会は、これをどこまで公表しているんですか?」


「公開していないよ」


「……でしょうね。でも知らないままでいいんでしょうか?」


 キズナは地図を見つめた。


「知ったところで、今度はその地域を危険だと決めつける人も出るだろうね」


「それも分かります。でも、こんなに広く魔の影が重なっているのに……」


 そこで、アツが口を開いた。


「あの、博士」


「何だい?」


「魔が生まれるのを、止める方法ってないんですか?」


 谷保はしばらく考え、それから首を横に振った。


「まだ分からない。僕らは集積を調べて、発生を予測するところまでは来た。でも、根本から止める方法は見つかっていないんだ」


「……そうですか」


「でもね、僕は漫画家っていう人たちに、ずっと期待しているんだよ」


 谷保はキズナたちを見回した。


「見えないものに線を引いて、誰かに伝わる物語を作る。そんな人たちが魔を見いだす力を持っているのは、偶然じゃないと思ってる」


「物語、ですか?」


 キズナが小さく問い返した。


「だから僕は、君たちがいつか希望を描いてくれると信じている」


 珍しく、キズナはそれ以上何も言わなかった。


 アツは二枚の地球を思い返した。


 一枚には街の光があり、もう一枚には魔の集積があった。


 どちらにも、人の顔は映っていない。


 昨日、自分たちは七人で弁当を食べ、卓球をして笑った。地図の小さな点の下にも、そんな時間を過ごしている人たちがいるはずだった。


 谷保が表示を閉じた。


 モニターが暗くなると、会議室の窓に七人の姿が映った。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


*


「……さて、そろそろ晩ご飯の時間かな」


 谷保の一言に、ランが顔を上げた。


「そういえば、お腹すいた……」


「さっきまで神妙な顔してたのに」


「だって、お腹は別だもん」


 ケンが笑い、会議室に少しだけ賑やかさが戻った。


「それにしても、すごいものを見せてもらったな」


 マナセが端末を閉じる。


「観測するだけでも大変なのに、あんな情報をどう扱うかまで考えなきゃいけないんだね」


「数字を集めるだけなら、まだ簡単なんだけどねえ」


 谷保は肩をすくめた。


 サキは最後まで資料に目を落としていたが、やがて静かに端末をしまった。


*


 帰り支度をするアツの隣で、サチハが眼鏡のケースを確かめていた。


「サチ、疲れた?」


「うん、ちょっと。でも……来てよかった」


「そっか」


「まだ、ちゃんと見えるわけじゃないけど」


 サチハはケースをバッグに収めた。


「今度、何か感じたら、ちゃんと言ってみる」


「うん。オレも、見えたものは言うよ」


「……それ、いつもじゃない?」


「そうだった」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


 玄関へ向かうと、谷保がキズナを呼び止めた。


「そうだ。明日は祖父のところへ行くんだったね」


「ええ。眼鏡の仕上がりも気になるし」


「三郎じいさんに、あんまり無理するなって伝えてくれる?」


「五郎さんが言ったほうがいいんじゃないですか?」


「僕の言うことは聞かないんだよ、あの人」


 キズナが呆れたように笑う。


「じゃあ、伝えるだけ伝えておきます」


「頼んだよ。レンズの話になると、長いから覚悟してね」


「……科学者の五郎さんが、それを言います?」


 アツの指摘に、谷保は声を上げて笑った。


*


 研究施設を出る頃には、山あいはすっかり暗くなっていた。


 七人がデリカへ乗り込む。


「明日は鯖江ね」


 助手席のキズナが、また眼鏡の位置を直した。


「今度は眼鏡工房かあ。今日みたいに地下へ潜るの?」


「潜らないわよ」


「よかったー!」


 ケンがエンジンを掛ける。


 アツは窓の外を見た。


 山の向こうに、町の明かりがぽつぽつと見えている。


 さっきの地球の画像では、きっと小さな光の一つにもならない。


 それでも、そこには誰かが暮らしている。


 デリカは夜の山道を走り出した。


いつも新編『描線眼鏡』をお読みいただき、ありがとうございます。


第21話「地図にない光」を公開しました。

前回は、A stationの七人が神岡の地下観測施設を訪れました。


地上からは直接見ることのできないものを、巨大な装置と膨大な観測記録によって確かめていく場所。

今回はその神岡編の後編です。


まず向き合うのは、サチハの「見え方」の問題。

眼鏡から送られている情報は正常なのか。

本人は何を見ているのか。

そして、眼鏡で見えるものと、身体が感じているものは同じなのか。


簡単な答えは出ません。


「分からない」ことそのものを記録し、次に確かめられる形で残していく。


そして後半では、谷保五郎博士から七人へ、もう少し大きな「地図」が示されます。

人間の活動を光として見る地球。

そして、別の観測によって浮かび上がる、もう一つの地球。


観測できたものを、そのまま「意味」だと思ってよいのか。

数字や色の向こう側にいる人間を、どう考えるのか。


そして旅は、次の目的地の鯖江へ。


眼鏡の故郷して知られる土地に、描線眼鏡の原点を作った人のところへ向かいます。


現在、新編『描線眼鏡』は第1話「羽田の白い線」から第21話「地図にない光」まで公開中です。


引き続き、木曜・日曜更新で進めていきます。


遠征編「見えないものをたどって」、引き続きよろしくお願いいたします。

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