第20話 地の底の光
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。
少女の名は、戸隠キズナ。
十代の新人にして、自ら漫画スタジオ「A station」を構える天才少女漫画家。
原稿を描き、締切を追い、仲間と働く。
そして眼鏡越しに現れる“魔”へ線を引く。
漫画と科学、想像力と観測。
異なる“見え方”を持つ仲間たちが、それぞれの線を重ねながら、世界の見えない側へ踏み込んでいくSF群像劇。
翌朝。旅館の食堂には、朴葉味噌の香りが漂っていた。
「もう一泊したいなあ」
ランが名残惜しそうに茶碗を置く。
「昨日も同じこと言ってなかった?」
「昨日は二泊したいって言ったの!」
「湯治で来てんじゃねえよ!」
ケンの突っ込みに、サチハが小さく笑った。
荷物を積み直す間、アツはスケッチブックをバッグにしまった。昨夜描いた温泉街の景色には、なぜか卓球のラケットまで描き込まれている。
「そろそろ出発します」
サキの声に、七人がデリカへ乗り込んだ。
飛騨川沿いを走り、高山を抜けてさらに北へ。山陰には雪が残り、カーブを曲がるたびに景色が入れ替わる。
「今日は何を見るんでしたっけ?」
アツが後席から尋ねた。
「地下の観測施設です」
「地下って、鍾乳洞みたいな?」
「ニュートリノとか重力波を調べる場所だよ」
マナセが答えると、アツは少し身構えた。
「……もう難しそうなんですけど」
「谷保博士に聞けばいいわ。ワタシだって全部は分からないもの」
助手席のキズナが眼鏡を押し上げる。いつもよりその仕草が多かった。
*
やがて山あいの研究施設に到着した。
受付で手続きを済ませると、奥からラフな作業着姿で、なぜか肩にオレンジのタオルを掛けた男性が歩いてきた。
「やあやあ、戸隠さん、皆さん。遠いところよく来たね」
男性は肩のタオルをくいっと直した。
「五郎さん、お久しぶりです」
アツは内心驚いた。博士というより、お笑い芸人と言ったほうがしっくりくる。
「おや、今日はいつもの眼鏡じゃないね」
「はい。鯖江に預けてます。そんなに違和感あります?」
「分かるよ。いつもなら、さっきからそんなに眼鏡を直したりしないもの」
谷保五郎は楽しそうに笑い、アツたちへ向き直った。
「遠かったでしょう。温泉は楽しめた?」
「はい。卓球が、かなり激しくて」
「……観測前から何を消耗してるんだい」
ひとしきり笑ったあと、谷保は入坑時の注意書きを示した。先ほどまでの気安い顔とは違い、声が少し引き締まる。
「ここからは僕の案内についてきて。写真を撮れない場所もあるからね」
アツがヘルメットを受け取ると、谷保は坑道の奥を指差した。
「じゃあ、まずは見てもらおうか。僕らが何を見ようとしているのか」
昨日は山を眺めていた。
今日は、その中へ入るらしい。
*
ヘルメットのあご紐を締め、アツは坑道に入った。
外とは違い、中の空気は冷たい。岩肌に沿って照明が続き、その先へ銀色の管がまっすぐ伸びている。
「……これ、どこまで続いてるんですか?」
「三キロだよ」
谷保が答えた。
「三キロ!? 地下にそんなに潜るんですか?」
「いや、横に三キロ。直角にもう一本。ここがKAGRA。二本の腕で重力波を捉えるんだ」
「腕っていうより、地下鉄ですね」
「電車は走らないけどね」
ランが真空管へ顔を寄せようとして、サキにそっと肩を引かれた。
「触らないでくださいね」
「まだ触ってないよ!」
「重力波って、宇宙の揺れなんでしたっけ」
アツが尋ねると、谷保はうなずいた。
「ブラックホール同士が合体するときなんかに、時空がほんのわずかに伸び縮みする。その違いを、レーザーの光で測るんだ」
「三キロも使って?」
「三キロも使わないと、測れないくらい小さいんだよ」
ケンが感心したように真空管を見上げた。
「こんだけ頑丈そうなのにな」
「ところが、頑丈なだけじゃ駄目なんだ。地面が少し揺れただけで、宇宙からの信号が埋もれてしまう」
谷保は通路の先で足を止めた。作業員が、開けられた設備のそばで点検を続けている。
「一月の能登の地震でね。鏡を支える防振装置に傷みが出た。今は復旧と調整の最中なんだ」
「能登って、ここからずいぶん離れてますよね」
サチハが小さく尋ねる。
「それでも届いたんだ。坑道が壊れたわけじゃない。でも、観測するには精密すぎる装置だから」
キズナが眼鏡の位置を直した。
「じゃあ、協会の異常予報にも影響が? あの時の羽田にも……」
「影響はあったよ。でも、観測網全体が止まったわけじゃないからね」
谷保の端末に、日本と欧米を結ぶ線が浮かぶ。
「LIGO、Virgo、それからKAGRA。頭文字を合わせてLVK。重力波の国際観測網だよ」
「世界中で見張ってるんですか?」
「宇宙を観測するための研究網だよ。協会は、その観測記録を別の解析にも使っている」
谷保は画面を切り替えた。
「今は宇宙の共同観測は休止期間だ。過去のデータや設備の試験記録、各地の補助観測を照らし合わせている。でも、確実に魔を見つけられるわけじゃない」
「見逃すこともある、ってことですね」
マナセの言葉に、谷保はうなずいた。
「残念だけどね。ノイズを何でも魔のせいにしたら、研究にならないだろう?」
アツは、もう一度まっすぐな管を見た。
この長い線の先で、宇宙の揺れを探している。
「次は、光を捕まえるところへ行こうか」
谷保は肩のタオルを直し、歩き出した。
「今度は三キロ歩かなくていいですよね?」
「安心して。今度は水が五万トンだ」
「全然安心できないんですけど!」
*
遅めの昼食を済ませ、一行は次の地下施設へ向かった。
「スーパーカミオカンデ。ここではニュートリノを観測しているんだ」
谷保に案内され、七人は管理区域へ進んだ。
「ニュートリノって、確かものすごく小さい粒子なんですよね?」
「そう。しかも、物質をほとんど素通りしてしまう」
「じゃあ、どうやって捕まえるんですか?」
「それが、五万トンの水なんだよ」
谷保が笑った。
「水の中の原子核や電子に素粒子が当たった時に、光が出るんですよね?」
ランが尋ねると、谷保はうなずいた。
「そう。正確には、その反応で飛び出した荷電粒子が、チェレンコフ光を出すんだ」
「じゃあ、見ているのは素粒子そのものじゃなくて、反応した跡なんですね」
サキが言った。
「そうそう。滅多に反応しないから、これだけ大きな水槽が必要なの」
ランは当然のように答えた。
谷保は端末に写真を映した。
巨大な円筒形の空間。壁一面を、金色の丸い装置が埋め尽くしている。
「うわ……何ですか、これ」
アツは思わず画面に顔を近づけた。
「光電子増倍管だよ。これで、ごく弱い光を捉えるんだ」
「これ、全部ですか?」
「全部」
「……いくつあるんですか?」
「一万個以上だね」
「目が多すぎません?」
マナセが吹き出した。
「水槽は高さも直径も四十メートルくらい。今は水が入っているから、こんなふうには見られないけどね」
「えー、あの中、見てみたかった!」
「水を抜くわけにもいかないからねえ」
谷保は別の画像を開いた。暗い背景に、小さな光の点が輪を描いている。
「これが、その光を捉えた記録だよ」
「……輪になるんですね」
「そう。光を拾った場所や時間から、粒子の方向や種類を推定するんだ」
「でも、関係ない信号も混じりますよね?」
サキが表示された記録を覗き込んだ。
「その通り。それを見分けるのが大変なんだよ」
アツはもう一度、金色の装置で覆われた写真を眺めた。
こんな巨大なものを地下に作って、それでも捕まえられるのは、ほんのわずかな光なのか。
「ちなみに、もっと大きいのも造ってるよ」
谷保が次の資料を開いた。
「ハイパーカミオカンデ。今度はさらに大きな水槽だ」
「まだ大きくするんですか!?」
「うん。今は建設中だけどね」
建設現場の写真には、山の内部を掘り進める巨大な空間が映っていた。
「人間って、よくここまで造りますね……」
アツが呟く。
「まだ分からないことが、たくさんあるからね」
谷保は何でもないことのように答えた。
隣でサチハが、画面に浮かぶ光の輪をじっと見つめていた。
「……見えないものでも、こんなふうに調べられるんですね」
「見えないからこそ、いろんな方法を考えるんだよ」
谷保は端末を閉じた。
「さて。次はさらに、協会の仕事に近いところを見てもらおうか」
「まだあるんですか?」
「もちろん。地下は広いからね」
「……今度は何万トンですか?」
アツの質問に、谷保は楽しそうに笑った。
「今度は重さより、中身のほうが面白いよ」
*
谷保のカードをかざしても、扉はすぐには開かなかった。
「博士でも入れないんですか?」
「僕だけじゃ、ね」
奥の職員が七人の名前を確かめ、ようやく電子錠が鳴った。
「秘密基地みたい!」
「まあそんな物だけど、中でその呼び方はしないでね。研究者が困るから」
扉の向こうは、拍子抜けするほど普通の研究室だった。机に端末、壁際には配線の束。白衣の研究者が一人、画面から顔も上げずに会釈した。
「ここでは何を?」
「そのものズバリ、暗黒物質。ダークマターだよ」
谷保が古い装置の写真を表示した。
「XMASSっていう実験があってね。液体キセノンを使って、暗黒物質の反応を探していたんだ。公開のデータ取得は既に終わったけど、その技術は残ってる」
「じゃあ、これは後継機?」
「協会用に組み直した観測系だね」
次の画面には、数字と細い線が並んでいた。どこにも魔らしい姿はない。
「魔って、ダークマターなんですよね?」
アツが尋ねると、キズナがうなずいた。
「集積したものを、ワタシたちは魔と呼んでいるの」
「そう。ただ、どうして人の感情がダークマターの集積に関わるのか、そこはいまだに分からない」
谷保が画面の一点を示す。平坦だった線が、ほんのわずかに盛り上がっていた。
「これだけで魔だって分かるんですか?」
「分かったら苦労しないよ。ほかの装置の記録や、現場から届く観測ログと重ねるんだ」
「……眼鏡で見たものも?」
サチハの声だった。
「もちろん。それも大事な記録だ」
谷保は当たり前のように答えた。
「博士は、魔を見たことがあるんですか?」
アツの質問に、谷保は笑った。
「ないよ。僕には見えない。祖父とは違ってね」
「それでも、ここまで調べられるんですね」
「見えないから、道具を増やしたのかもしれないなあ」
サチハはもう一度、画面に目を戻した。線は相変わらず、ただの線に見える。
谷保が端末を閉じ、タオルをくいっと直しながら言った。
「さて。地上で少し、みんなに聞いてみたいことがあるんだ」
アツは研究室を振り返った。
あれだけ装置が並んでいても、最後まで魔の姿は見えなかった。
*
坑道を出ると、アツは思わず目を細めた。
「……明るい」
山の上には、午後の青空が広がっている。さっきまで地下にいたせいか、木々の色まで違って見えた。
「いやあ、すごかったね!」
ランが大きく伸びをする。
「三キロの腕に、五万トンの水。地下って、あんなに広いんだ」
「維持するのも大変そうだよね」
マナセが振り返る。
「実際、大変なんだよ」
谷保が笑った。
「何十年もかけて造って、毎日手入れして、それでも分からないことばかりさ」
「科学者って、気が長いんですね……」
アツの言葉に、キズナが肩をすくめた。
「漫画家だって似たようなものでしょ」
「いや、締切は待ってくれませんから」
「研究にも締切はあるんだけどねえ」
谷保が苦笑する。
地上の研究棟へ戻る途中、サチハが小さく手を挙げた。
「あの、博士……」
「何だい?」
「装置がちゃんと反応してても、見えないことってあるんですか?」
谷保は足を止めた。
「あるよ。装置が何かを拾うことと、それが何なのか分かることは別なんだ」
「……そうなんですね」
「それに、人間が見たと思っているものも、必ずしも同じとは限らない」
サチハは自分のバッグへ目を落とした。
描線眼鏡のケースが、そこに収まっている。
「君の研修記録と、先日の事故の報告は読ませてもらったよ」
谷保の声は穏やかだった。
「もしよければ、当時と似た条件で、一度確かめてみないかい。もちろん、安全な模擬環境でね」
アツはサチハを見た。
あの倉庫でのことが頭をよぎる。けれど、ここで自分が答える話ではない。
「サチハ。どうする?」
キズナも、それだけを尋ねた。
サチハは少し考えてから、顔を上げた。
「……サチ、確かめてみたいです」
「分かった。じゃあ準備しよう」
谷保はタオルには手をかけず、そのまま研究棟の奥へ歩き出した。
「検証が終わったら、もう一つ見てもらいたいものがあるんだ」
「また大きな機械ですか?」
「今度は機械じゃない。世界中から集まった記録だよ」
「……世界中?」
アツは首を傾げた。
地下で見た長い真空管。写真の中の巨大な水槽。そして、数字だけが並んでいた観測室。
今度は何が見えるのだろう。
七人は谷保の後を追い、会議室へ向かった。
いつも新編『描線眼鏡』をお読みいただき、ありがとうございます。
第20話「地の底の光」を公開しました。
前回は、A stationの七人が東京を離れ、下呂温泉へ向かいました。
残雪の山。
キズナの手作り弁当。
温泉街。
卓球。
そして、夜のスケッチ。
仕事のための遠征だけど、少しだけ修学旅行のような一日。
今回の第20話から、旅はいよいよ次の目的地へ進みます。
向かうのは神岡の元鉱山。地中深くに作られた各種の観測所。
地上からは見えない場所で、何を観測しているのか。
人間は、直接見ることのできないものを、どうやって「ある」と確かめるのか。
描線眼鏡を通して異常を見るA stationの面々にとっても、今回の訪問はこれまでとは少し違う角度から「見ること」を考える機会になります。
見えないものをたどる旅の、次の一歩です。
現在、新編『描線眼鏡』は第1話「羽田の白い線」から第20話「地の底の光」まで公開中です。
引き続き、木曜・日曜更新で進めていきます。
遠征編も、引き続きよろしくお願いいたします。




