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第19話 春へ向かう道

漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。


少女の名は、戸隠キズナ。

十代の新人にして、自ら漫画スタジオ「A station」を構える天才少女漫画家。


原稿を描き、締切を追い、仲間と働く。

そして眼鏡越しに現れる“魔”へ線を引く。


漫画と科学、想像力と観測。


異なる“見え方”を持つ仲間たちが、それぞれの線を重ねながら、世界の見えない側へ踏み込んでいくSF群像劇。

 

 三月の朝、A stationの前にはまだ冬の冷たさが残っていた。

 スタジオ前に着いたアツは、すでに待っていたキズナとサキを見つけた。


「おはようございます。早いですね」


「遠征の朝ですから」


 サキはタブレットのチェックリストから顔を上げた。キズナの足元には、色鮮やかなふろしき包みが置かれていた。その中身は大きな保冷バッグのようだ。


「……何ですか、その荷物」


「お昼のお楽しみ」


 キズナは得意げに笑った。いつもの自分の眼鏡ではないせいか、また指で眼鏡の位置を直している。


 ほどなくマナセとサチハも到着した。


「おはよう、サチ」


「……おはよ、アツ」


 サチハは小さく笑い、バッグを持ち直した。脇のポケットには描線眼鏡のケースが収まっている。アツはちらりと目をやったが、何も言わなかった。


 そこへ、低いエンジン音が近づいてきた。


 ケンのデリカD:5だった。

 多摩川の出動でも見た車だが、改めて眺めると、やはり妙に厳つい。張り出したフェンダーに太いタイヤ。車体は高く、後ろには大型キャリアまで付いている。


「……これ、温泉旅行に行く車ですよね?」


「雪道も走れる温泉旅行の車だ。完璧だろ」


「何か別の任務に出るみたいですけど」


 運転席の窓からケンが笑った。

 スライドドアが開く。


「みんな、おはよーっ!」


 ランが勢いよく降りてきた。


「……ランさん、寝坊ですか?」


「違うの! 楽しみすぎて全然寝られなくて、やっと寝たら朝だったの!」


「それを寝坊って言うんじゃねえのか」


 迎えに行ったケンが呆れる。幸い、出発予定には間に合っていた。

 サキの指示で荷物を積み込む。観測機材のケースに、着替えに、ランのやけに大きなバッグ。


「これ、何泊するつもりです?」


「三泊四日だよ?」


「そういう意味じゃなくて……」


 アツのつぶやきをよそに、キズナがケンへ尋ねた。


「ところで、そのタイヤで燃費は?」


「高速なら十キロ近く走ることもあるぞ」


「……十キロ、いかないのね」


 キズナが静かに端末の経費表を閉じた。

 助手席にはキズナ。二列目にラン、マナセ、サキ。アツとサチハは三列目に並んで座った。


「忘れ物はありませんね?」


 サキの最終確認に、ランが元気よく手を挙げる。


「温泉への期待は満載です!」


「荷物も満載だけどな」


 ケンがウインカーを出した。

 サチハが窓の外を見た。アツもつられて振り返る。いつものスタジオが、ゆっくり遠ざかっていく。

 仕事のための遠征のはずなのに、なんだか修学旅行みたいだった。

 七人を乗せたデリカは、朝の街へ走り出した。


*


 風を切って進むデリカは快調だ。

 東名川崎インターから高速道路に入ると、景色の流れ方がまた違って見える。


「おお……視点が高い」


 アツは三列目の窓から外を眺めた。普通のミニバンよりずいぶん高いところに座っている気がする。


「いいだろ。こういう車は遠出してこそだ」


 運転席からケンの声が飛んでくる。


 助手席ではキズナが端末を操作していた。返事の代わりに、何かを入力する指だけが動く。


「……経費表につけてますね、あれ」


「ボクもそう思う」


 二列目のマナセが小声で答えた。


「ねえねえ、下呂温泉ってカエルの神社があるんだって!」


 ランが身を乗り出す。


「カエル? 温泉なのに?」


「下呂だから、ゲロゲロ! しかも無事に帰る、のカエル!」


「……駄洒落ですか」


「駄洒落じゃない、御利益!」


 サキの冷静な指摘に、ランが頬を膨らませた。


「じゃあ帰りに寄るんですか?」


「行きに決まってるじゃん! ちゃんと帰れるようにお願いするの!」


「まだ着いてもいませんけど」


 アツが言うと、サチハが隣で小さく吹き出した。

 ランは聞き逃さなかったらしい。


「サッチーも一緒にお参りしよ!」


「え、ええ……考えておきます」


 サチハは曖昧に濁して、窓の外へ目を戻したが、その口元には少し笑みが残っていた。

 そのとき、前方から短い通知音が聞こえた。


「あ、フクハラさん」


 キズナが端末を覗き込む。


「ネームの確認、もう来たんですか?」


「昨日送った分ね。……ああ、ここ、もう一コマ欲しいって」


「旅行中までお仕事?」


 ランが不満そうな声を上げる。


「四月から連載っていっても入稿は月内だから、意外と近いのよ」


「今日くらい忘れちゃおうよ、キズニャ!」


「忘れたら帰ってから思い出すのが怖いでしょ」


 アツには、その怖さがよく分かった。

 キズナは二、三度画面を叩くと、端末を膝に伏せた。


「はい。今日はここまで」


「やったー!」


「……ただし、帰ったら全員働いてもらいます」


「えーっ!」


 車内に笑い声が広がった。

 

「山の方、まだ雪が残ってるみたいだね」


 マナセが天気予報を眺めながら言った。


「チェーンも積んである。心配すんな」


 ケンは快調に車を走らせる。

 窓の向こうでは建物が少しずつ減り、遠くに山並みが見え始めていた。


「次は駒ヶ岳で休憩します」


 サキが予定を告げる。


「お昼だ!」


 ランの声に、助手席のキズナがふふんと笑った。


「期待してていいわよ」


 足元の大きな保冷バッグが、妙に頼もしく見えた。


*


 駒ヶ岳サービスエリアに入ると、窓の向こうに雪をまとった山並みが広がった。


「うわあ、すごい!」


 ランが真っ先に飛び出した。

 アツも車を降り、思わず肩をすくめた。日差しは暖かそうなのに、風はまだ冬の冷たさを残している。


「中央アルプスだね。あの辺りはまだ雪が多いよ」


 マナセが山を指差す。その横でケンは、デリカのタイヤと後部キャリアを確かめていた。


「ケンさん、休憩しないんですか?」


「こいつの調子を見るのも休憩のうちだ」


 よく分からない理屈だった。


「それじゃ、お昼にしましょうか」


 キズナがとっておきのふろしきを持ち出す。


 休憩用のテーブルでふろしきの中の保冷バッグを取り出す。中からは次々に重箱が現れた。


「……え?」


 アツは目を丸くした。

 梅や昆布、味噌カツなどを具にした俵型のおむすび。甘めの卵焼きに鶏の照り焼き。ピーマンとちくわの炒め物。彩りよく並んだ野菜に、手作りのフルーツ寒天まである。


「これ、全部キズニャが作ったの!?」


「昨日のうちに仕込んでおいたの。朝は詰めるだけ」


「それでもすごいですよ……七人分ですよね?」


「せっかくの旅行ですもの」


 キズナは当然のように答えた。

 アツは、昨夜まで原稿のネームを確認していたはずの少女を見つめる。


 (……いつ寝たんだろう、この人)


「じゃあ、いただきまーす!」


 ランが真っ先に手を伸ばす。

 サチハは少し離れたところで、皆が取り始めるのを待っていた。


「サチハも。遠慮してるとマナセが全部食べちゃうわよ」


「ボクを何だと思ってるんだい」


「大食い大王じゃん」


「……いただきます」


 サチハが選んだのは卵焼きだった。

 一口食べて、目を細める。


「……甘くて、おいしい」


「よかった。ちょっと甘めにしたの」


 キズナが笑う。


「これも美味しいよ! サッチー、照り焼き食べた?」


 ランが皿を差し出す。


「あ、はい。じゃあ、一つ……」


 サチハは受け取ると、今度は自分から保温ボトルを取り出した。


「お茶、持ってきたんですけど……みんな飲む?」


「飲む飲む!」


 ランの返事が早い。アツも紙コップを差し出した。

 サチハは残りのお茶を確かめながら、一人ずつ注いで回った。

 

「しかし、相変わらずよく食うなあ」


 ケンはマナセのおむすびを数える。


「まだ三個ですよ!」


「既に四個目を握ってるだろ」


 食事を終える頃には、重箱もずいぶん軽くなっていた。


「じゃ、よく食べたし、午後はボクが運転するよ」


「調子いいやつだな」


 マナセがケンからキーを受け取る。

 アツはもう一度、雪の残る山を見上げた。

 まだ昼過ぎ。目的地までは、もうひと走りだ。


*


 昼食のあと、ハンドルを握ったのはマナセだった。


「ボク、長距離運転って結構好きなんだよね」


「眠くなったら言えよ。すぐ代わるからな」


「ケンさん、さっきからそればっかり」


 デリカは再び中央道を走り始めた。

 マナセの運転はケンよりずっと穏やかだった。加速もブレーキも滑らかで、後席にいるアツは少し眠くなってきた。

 雪を頂いた山々が後ろへ流れ、窓の外には木々や集落が現れては消えていく。朝から賑やかだった車内も、いつの間にか静かになっていた。


 中津川で中央道を降り、コンビニで短い休憩を取ったところで、ケンがハンドルを引き継いだ。


 国道二五七号を北へ進むと、山がぐっと近づいてきた。


「おお……」


 アツは窓に顔を寄せた。

 道沿いを流れる川。斜面に張りつくような家々。日向には春の色があるのに、山陰にはまだ白い雪が残っている。


「さっきまで春だったのに、また冬ですね」


「この辺りは、まだ朝晩冷えるからね」


 マナセが二列目から答える。

 ケンもいつもの豪快さを少し抑え、カーブの続く道を滑らかに走らせていた。

 隣では、サチハが窓の外を眺めている。


「……きれいだね」


「うん。あの山の重なり、漫画の背景にしたくなる」


「アツ、旅行中も漫画のこと考えてるの?」


「いや……今のは、ちょっと違うかも」


 描くために見ているわけじゃない。ただ、見ているだけで面白かった。

 サチハは小さく笑い、また窓へ目を向けた。

 前の席ではキズナが端末をしまい、いつの間にか景色を眺めていた。ランは温泉街の案内を膝に広げたまま、うとうとしている。

 川の流れに沿って道が曲がる。


 やがて、山あいに旅館の建物が見え始めた。


「……あっ!」


 ランが突然顔を上げた。


「温泉! 温泉だよ!」


「寝てたんじゃないんですか?」


「温泉の気配で目が覚めた!」


「便利な能力ですね……」


 アツが呆れると、車内に笑いが戻った。

 デリカは飛騨川沿いを進み、下呂の温泉街へ入っていった。


*


 デリカが旅館の駐車場に滑り込むと、ランが真っ先にシートベルトを外した。


「着きましたーっ! 下呂温泉!」


「まだドア開けてねえぞ」


 ケンの声も聞かず、ランは窓の外を覗き込んでいる。

 車を降りたアツは、大きく背筋を伸ばした。


「……腰が固まった」


「若いのに情けねえな」


「ケンさん、三列目に座ってから言ってくださいよ」


 笑いながら荷物を降ろし、サキの先導で旅館へ入る。

 部屋は男性三人と女性四人に分かれた。畳の匂いに、窓の向こうには飛騨川。ようやく旅行らしくなってきた。


「夕食まで少し時間があるわね」


 キズナが時計を確かめると、ランが勢いよく手を挙げた。


「散策! カエルの神社!」


「覚えてたのか」


「忘れるわけないじゃん!」


「サッチー、神社行こ!」


「あ……ごめんなさい。サチ、ちょっと疲れちゃって。先にお風呂に入ってもいい?」


「もちろん! じゃあ、サッチーの分もお願いしてくるね!」


 少しくつろぎたいメンバーもいて、結局、ランにケンとマナセが付き合うことになった。


*


 旅館を飛び出したランは、思わず羽織の前を合わせた。


「さむっ!」


「だから上着を着ろって言っただろ」


「温泉街なら、もっとあったかいと思ったんだもん!」


 三月の風は思ったより冷たかったが、三人は下駄を鳴らして温泉街へ。

 湯気の漂う通りを歩くランは上機嫌だった。


「加恵瑠神社、発見!」


 小さな社の前で、ランは妙に真剣な顔になった。


「みんなで無事に帰れますように!」


「まだ初日だぞ」


「だから今お願いするんでしょ!」


 ケンの突っ込みをかわすと、ランは神社の斜向かいにある足湯へ向かった。

 三人並んで足を浸すと、マナセがほっと息をついた。


「ああ……これはいいね」


「だろ? 温泉はこうでなくちゃ!」


「ラン、お前、まだ大浴場にも入ってねえぞ」


 下駄が三足、行儀悪く並んでいた。


*


 湯上がりのアツは、浴衣の襟元を少し緩めた。まだ身体がぽかぽかしている。

 夕食の膳には、飛騨牛の料理が並んでいた。


「お肉だ!」


「ランラン、今日それ何回目?」


 キズナが笑う。


「美味しいものには何度でも感動するの!」


 ケンが豪快に食べ、サキが静かに料理を味わう。マナセは昼の弁当を思い出して言った。


「でも、お昼のキズニャのお弁当も負けていなかったよ」


「……褒めても原稿の仕事は減らないわよ」


「えっ、そういう話だったの?」


 アツは思わず笑った。

 隣のサチハも、箸を持ったまま肩を揺らしている。

 食後、誰が言い出したのか、七人は卓球台の前に集まっていた。


「勝負だ、ケンさん!」


「おう、かかってこい!」


 ランの第一球は、見事に天井方向へ飛んでいった。


「……ホームラン?」


「卓球だよ!」


 マナセが笑いながら球を拾う。

 キズナは小柄な身体を器用に動かし、相手の隅を狙っていた。


「サチもやらない?」


 アツがラケットを差し出す。


「えっ、サチ、あんまり上手じゃないけど……」


「大丈夫。オレもだし」


 二人が台につき、相手はケンとサキになった。


 上手じゃないと言っていたサチハだが、無難に球を返す。

 サチハの返球が、サキの横を抜けかけた。


「任せろっ!」


 横から飛び込んだケンの足がもつれる。振り抜いたラケットは、見事に空を切った。


「うおっ、何だ今の!」


「ケンさん!?」


 ランが叫び、マナセが吹き出す。

 サチハも、こらえきれず声を上げて笑った。

 ケンは何事もなかったように立ち直る。


「……今のは床が悪い」


「床はともかく、スゴい空振りでしたね」


 アツの突っ込みに、また笑いが起きた。


*


 夜も更け、皆が部屋へ戻ったあと、サキから明日の神岡行きの最終予定が届いた。

 谷保五郎博士が、到着後すぐに各種の地下観測施設を見学できるように取り計らってくれているそうだ。


 神岡までまだ距離があり、翌朝は少し早い。アツは確認の返事を送り、窓際に腰を下ろした。


 飛騨川の向こうに、温泉街の明かりが点々と続いている。

 スケッチブックを開き、鉛筆を走らせた。

 山の稜線。川沿いの建物。水面に映る光。


 描いているうちに、昼の弁当や、さっきの卓球台が頭に浮かんできた。

 隅の余白に、ラケットを握ったランを描き足す。次に、転びかけたケン。その横には、笑っているサチハ。


「……温泉に来たのに、温泉描いてないな」


 アツは小さく笑った。

 それでも、消しゴムには手を伸ばさなかった。

 窓の外では川の音が静かに続いている。

 もう一本、鉛筆の線を重ねた。


いつも新編『描線眼鏡』をお読みいただき、ありがとうございます。


事情により更新が遅くなりましたが本日、第19話「春へ向かう道」を公開しました。


少し更新をお休みしていましたが、今回から新編本編の更新を再開します。


眼鏡の割れたキズナと視界が割れたサチハ。

問題の答えを探してA stationの七人は東京を離れ、遠征へ向かうことになりました。


今回は、その旅の初日です。


ケンのデリカD:5に七人で乗り込み、残雪の残る山を越えて下呂温泉へ。


キズナの手作り弁当。

車内でのいつもの掛け合い。

温泉街の散策。

夕食と卓球。

そして、夜のスケッチ。


仕事のための遠征ですが、今回は戦闘も大きな異常もありません。


少し立ち止まって、七人が同じ車に乗り、同じ景色を見て、同じ食卓を囲む時間を描きました。


これで何かが解決したわけではありません。


旅はまだ始まったばかり。


次の目的地は神岡の地下鉱山跡。

そこでA stationの面々は、これまでとは少し違う角度から、「見ること」と「観測すること」に向き合っていきます。


第19話「春へ向かう道」。

春へ向かう道の途中で、七人が少しだけ同じ時間を過ごす回です。


現在、新編『描線眼鏡』は第1話「羽田の白い線」から第19話「春へ向かう道」まで公開中です。


今後は木曜・日曜の定期更新に戻します。


これから始まる遠征編も、よろしくお願いいたします。

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