第18話 答えのない地図
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。
少女の名は、戸隠キズナ。
十代の新人にして、自ら漫画スタジオ「A station」を構える天才少女漫画家。
原稿を描き、締切を追い、仲間と働く。
そして眼鏡越しに現れる“魔”へ線を引く。
漫画と科学、想像力と観測。
異なる“見え方”を持つ仲間たちが、それぞれの線を重ねながら、世界の見えない側へ踏み込んでいくSF群像劇。
翌朝、A stationの机には、黒い眼鏡ケースが置かれていた。
昨日まで、キズナの顔にあった眼鏡が入っている。
当の本人は、別の眼鏡を掛けてネームを読んでいた。
「もう予備が来たんですか?」
「協会の標準型です。昨夜、手配してもらいました」
「早いんですね」
「こういうときのための予備ですから」
そう言いながら、キズナは眼鏡の位置を直した。
ページをめくる。
また直す。
「……合わないんですか?」
「見えますよ」
間が空いた。
「ちょっと、落ち着かないだけです」
「眼鏡が?」
「ワタシが」
アツは返事に困った。
そこへスマートフォンが震えた。
「フクハラさんです」
キズナが画面を開く。
正式連載の開始日。初回のページ数。打ち合わせ候補日。ネームの提出予定。
やり取りのたびに、仕事が増える。
「決まった途端、容赦ないよね」
ケンが覗き込む。
「決まったからですよ」
キズナは笑って、返信を始めた。
ペンの音も、キーボードの音も変わらない。
けれど、机の向こうでサチハが自分の眼鏡ケースを開いたとき、アツはそちらを見てしまった。
サチハは眼鏡を取り出していた。
掛けようとして、止まる。
レンズを透かしてみる。傷ひとつない。
「……」
結局、何も言わずにケースに戻した。
アツも声を掛けなかった。
「アツ、そこの資料を取ってもらえます?」
「あ、うん」
サチハが指した棚から、薄いファイルを抜き取る。
差し出すと、彼女の手が一瞬だけ迷ってから受け取った。
「ありがとう」
いつもの声だった。
ただ、受け取ったファイルへ目を落とすまでに、ほんの少し時間が掛かった。
*
午前の作業が一段落すると、サキがモニターを回した。
「昨日の記録、確認します」
「お手柔らかにお願いします」
アツが包帯を巻いた腕を上げる。
「腕ではなくログです」
「分かってますけど」
サチハは笑っていなかった。
画面に、時刻と音声が並ぶ。
【18:42:11 サチハ「右、重い」】
【18:42:16 眼鏡側入力:左側定位】
【18:42:19 サチハ「訂正します。左です」】
「八秒か」
ケンが呟いた。
「その間に、右と左が入れ替わってるのね」
ランが身を乗り出す。
「正確には、最初の右は音声報告です。位置入力とは別です」
「はいはい、そこ大事」
「大事です」
サキが表示を拡大した。
アツは最初の行を見る。
「サチ、右って言ったときは、何が見えてた?」
「……分かんない。右が重くて」
サチハは俯きながら呟いた。
「それで見直したら、左にいたんです。ちゃんと、そこに」
「左側の入力は残っています」
サキが言った。
「じゃあ、眼鏡は正常だった?」
マナセが尋ねる。
「少なくとも、入力が途切れた形跡はありません」
「でも、右から来たじゃない」
ランの声に、サキは首を振った。
「それと、この入力が正しいかどうかは別です」
画面が切り替わる。
荷物の移動。各員の報告。サチハの描線が外れた時刻。
アツは無意識に傷の上を押さえた。
「……サチが間違えたんですよね」
サチハが小さく言った。
「そこも、まだです」
キズナが答える。
「最初の右を、消さなければ……」
「その右は、どこから来たんですか?」
「ただ、重かっただけで」
「その『だけ』は、やめましょう」
借り物の眼鏡を直しながら、キズナは画面を見た。
「昨日、役に立ったでしょう」
サチハは膝の上で手を握り直した。
サキが二つの記録を並べる。
「眼鏡側の入力と、その後の発話や行動は確認できます。でも、本人がどう認識したかまでは分かりません」
「眼鏡が悪いの?」
「それも未確定です」
「じゃあ、サチハの方?」
「同じです」
「何も分かんないじゃない」
「分からない範囲は分かりました」
ランが肩をすくめた。
「それ、進歩なの?」
「一応」
アツはもう一度、最初の時刻を見た。
眼鏡の記録より先に出た、右という言葉。
「……じゃあ、あの右は何だったんでしょうね」
誰もすぐには答えなかった。
*
午後、キズナは壊れた眼鏡を机の中央へ置いた。
「じゃあ、こっちも調べましょうか」
協会へ通信をつなぐ。
画面に現れたのは、室内なのに濃いサングラスを掛けた技術担当だった。
『……派手にやりましたね』
「怒られますかね?」
『赤羽橋はともかく、鯖江なら怒るような方じゃ無いと思いますよ』
「だとは思うんですが……」
『現物、見せてもらえますか』
キズナが眼鏡をカメラへ向ける。
『ああ……これはレンズがもう駄目ですね』
「標準型なら交換できますよね?」
『戸隠さんのは別です。鯖江へ持ち込んだ方が早い』
「ですよねえ」
キズナは借り物の眼鏡を直した。
アツが机の端を指す。
「そういえば、お祖母さんの眼鏡は?」
「ああ、これ?」
キズナは古いケースを開けた。
眼鏡を掛け、手元のネームへ目を落とす。
「これは光と影だけで、魔を見つめていた時のもの。レンズそのものは変わらないのかも知れませんが……」
外した眼鏡を、そっとケースへ戻す。
『鯖江には連絡しておきます』
「お願いします」
通信が切れた。
「さて」
サキが別の画面を開く。
「こちらは、描線眼鏡による観測そのものに関わります」
サチハのログだった。
「誰に相談すれば良いの?」
ランが尋ねる。
「やはり谷保五郎博士に直接相談するのがよいかと」
「五郎さんか……」
キズナが少し考える。
「今、どちらに?」
「神岡にいらっしゃるはずです。眼鏡が何を記録したのか、元の観測データと照合できるかもしれません」
「神岡?」
アツが顔を上げた。
「岐阜県です」
「鯖江は福井でしたよね」
「はい」
「……ずいぶん離れてません?」
サキは答えず、地図を開いた。
画面に二つの地点が現れる。
「まず五郎さんに連絡しましょう」
キズナが言う。
サチハは黙って画面を見ていた。
「サチハ?」
「……はい」
返事はしたが、視線はまだ神岡の文字に向いていた。
*
赤羽橋の交差点を渡ると、ビルの隙間に東京タワーが見えた。
野田は襟元を直し、日本科学漫画協会の玄関をくぐった。
受付には催し物の案内。壁には科学漫画大賞の受賞作。子どもたちが漫画を読んでいる写真まで飾られている。
どこから見ても、漫画の団体だ。
「週刊文潮の野田です」
名刺を差し出すと、受付の女性が来訪票を確認した。
「笹崎がお待ちしております」
通された応接室には、協会の活動報告書が用意されていた。
「お待たせしました」
笹崎花子。女性漫画家の草分けとして知られる名前だ。
けれど、応接室へ現れた本人は、野田の知る漫画家のイメージより、企業の経営者に近かった。
柔らかな笑顔に、隙がない。
「今日は何でも聞いてください」
「それは助かります」
野田は録音機を置いた。
まずは科学漫画大賞と若手作家への支援について。
笹崎は事業の経緯を話し、資料を開いた。
研究機関との連携。教育現場への教材提供。防災啓発事業。
質問するたび、別の資料が出てくる。
「ずいぶん活動範囲が広いですね」
「科学に関わるものですから。漫画は、その入口の一つです」
「官公庁との人的交流も多いようですが」
「研究や教育、防災には行政の協力が欠かせません」
野田は頷き、次の資料をめくった。
「防衛関係機関の出身者も、複数いらっしゃいますね」
笹崎の指が一度止まった。
「ええ。安全保障も科学技術の一分野です。経験のある方に力を貸していただくことはあります」
「では、防衛関係の経歴は、具体的にどの事業に必要なんでしょう?」
「例えば自治体向けの防災教材では、避難や災害対応を漫画で伝えるなどに、現場からの知見を活かして頂いております」
「漫画の協会にしては、珍しくありませんか」
「珍しいことと、不自然なことは違いますから」
笹崎は穏やかに笑った。
「なるほど」
野田も笑ってメモを取る。
答えはある。
数字も、名前も、説明も。
なのに、聞けば聞くほど、何のためにこれほど大きな組織が必要なのか分からなくなる。
「戸隠キズナさんについても伺いたい」
「どうぞ」
「若手支援の成功例として、随分手厚い待遇ですね」
「才能ある作家です。今後にも期待しています」
「彼女は、その一人にすぎない?」
「もちろんです。他にも多くの方を支援していますよ」
笹崎は資料を一枚差し出した。
実際、その通りだった。
「ありがとうございました」
野田は録音機を止める。
「こちらこそ。よい記事になるといいですね」
立ち上がったところで、笹崎が思い出したように口を開いた。
「そういえば、先日の戸隠さんへの取材はいかがでした?」
野田の手が止まる。
その件は、今日の取材申請には書いていない。
「……耳が早いですね」
「若い作家ですから。取材の際は、どうぞお手柔らかに」
「もちろんです」
野田も笑って頭を下げた。
連絡が回っていても、おかしくはない。
ただ、なぜ会長がそれを知っている。
エレベーターの扉が閉まる。
野田は手元の資料に目を落とした。
どの質問にも返事はあった。
それでも、取材を終えた気がしなかった。
*
夕方、A stationの大きなモニターが日本地図に変わっていた。
アツが原稿の修正を終えて顔を上げると、岐阜と福井に印が増えている。
「……スタジオって、旅行代理店もやってましたっけ」
「やってません」
サキは即答し、地図を拡大した。
「谷保博士から返事です。金曜なら時間を取れるそうです」
「五郎さん、相変わらず早いですね」
キズナは予備眼鏡を押し上げた。もう何度目か、アツは数えるのをやめている。
「だったらワタシは鯖江に――」
「一人で行くつもりですか」
「眼鏡の修理ですし」
「二件とも協会に報告する案件です。移動もまとめます」
サキが画面に線を引く。
「木曜に出発。金曜は神岡、土曜に鯖江。日曜は勝山まで」
「勝山?」
アツが聞くと、サキが手元のメモを見せる。
《勝山周辺・磁場観測値の局所偏差/地質資料との照合要》
「協会に未確認の観測案件が一件残っています。勝山周辺です。同じ福井県ですし、鯖江からなら回れます」
ランが横から顔を出した。
「勝山! 恐竜博物館。ここまで行くなら見たいじゃない」
「出張ですよね?」
「見学だって勉強でしょ」
「都合いいですね」
「宿は任せて。露天風呂つき、探すから」
「仕事だってば」
ケンが車の鍵を鳴らす。
「デリカなら何処でも行けるが、山はまだ雪があるぞ」
「道路情報は確認します。ボク、予備の経路も調べます」
マナセは天気予報を開いた。
そんな話の輪に、サチハは入らなかった。
「……サチのことで、みんなに」
「ワタシの眼鏡も壊れてます」
キズナが言う。
「それに、五郎さんに聞きたいのはワタシも同じ。ね?」
「……はい」
サチハは頷いたものの、目尻に指を添えたままだった。
「問題は一つ残ってます」
ケンが指さしたのは地図ではなく、キズナの端末だった。
「フクハラさん。連載」
画面の通知が、ちょうど増えた。
【初回ネーム、進捗いかがですか?】
キズナはしばらく無言で通知を見た。
「……ネームは持っていきます」
「その返事、送るんですか?」
「だめです?」
「オレなら怖くて無理です」
画面には三つの印が並んでいる。
神岡。鯖江。勝山。
アツは包帯の残る腕で鞄を引き寄せた。
まだ出発もしていないのに、持っていくものが増えそうだった。
いつも『描線眼鏡』をお読みいただき、ありがとうございます。
本話「答えのない地図」をもって、新編第三章は終了となります。
次回からは、神岡・鯖江・勝山を巡る「旅行編」に入ります。
旧編でも描いたロードムービー的な楽しさを残しつつ、新編では「観測」と「見え方」を巡る物語を、さらに広げていく予定です。
さて、更新について一つお知らせがあります。
私事で恐縮ですが、先日身内に不幸があり、現在もその後の諸手続きなどが続いています。加えて制作機器の不具合も重なり、執筆・投稿環境が安定していない状況です。
連載を再開して間もない時期に心苦しいのですが、来週の更新は一週間お休みさせていただきます。
再来週の更新再開を目標に、原稿のストックと制作環境を整えたいと考えています。ただし、状況によっては改めてお知らせする場合があります。
楽しみにしてくださっている皆さまには申し訳ありません。
次章では、いつものスタジオを離れ、少し遠くまで足を延ばします。
引き続き『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。




