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第17話 割れた視界

漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。


少女の名は、戸隠キズナ。

十代の新人にして、自ら漫画スタジオ「A station」を構える天才少女漫画家。


原稿を描き、締切を追い、仲間と働く。

そして眼鏡越しに現れる“魔”へ線を引く。

漫画と科学、想像力と観測。

異なる“見え方”を持つ仲間たちが、それぞれの線を重ねながら、世界の見えない側へ踏み込んでいくSF群像劇。

 キズナは、画面に表示された名前を見つめたまま、一度だけ息を吸った。


「はい。戸隠です」


『お疲れさまです。今、大丈夫ですか』


「大丈夫です」


 フクハラの声は、いつもより少しだけ軽かった。


『正式連載、決まりました』


「……」


 返事が出なかった。


『戸隠さん?』


「……はい」


 キズナは眼鏡を外したまま、机の上のネームを見る。


「ありがとうございます」


 電話を切る。

 数秒、そのまま動かなかった。

「キズニャ?」


 ランに呼ばれて、ようやく顔を上げる。


「……正式連載、決まりました」


「おお!」


 ランが先に声を上げた。


「やったね」


 マナセが笑う。


「また締切生活だな」


 ケンは現実的だった。


「開始時期は?」


 サキは実務として、もう端末を開いている。


「ページ数と制作周期も確認してください。人員配分を組み直します」


「そこからですか」


「そこからです」


 サチハが両手を胸の前で合わせる。


「おめでとうございます、キズナさん」


「ありがとう」


 アツは机の隅に積まれた資料を見た。

 自分が背景を手伝った漫画が、そこで終わらず、この先も続いていく。


「すごいですね」


「まだですよ」


 キズナは微笑む。

 表彰状をもらったときより、ずっと素直な笑顔だ。


「ここからですね」


*


 数日後。

 A stationの机には、連載用の資料がまた増えていた。


「片付けた意味、ありました?」


 アツが積み直された箱を見る。


「ありました。空きましたから」


「もう埋まってますけど」


「そういうものです」


 キズナが真顔で返したところで、端末が鳴った。

【協会アプリ】

《Priority Alert/警戒レベル:R》

《予測地点:横浜市瀬谷区》

《予測範囲:1000m±100m》

《予測時間:+01:00:00±05:00》

《反応:1》


 サキが画面を確認する。


「近いですね」


「じゃあ、いつも通りでいきます」


 ケンが車の鍵を取った。


*


  現場は、横浜市郊外の古い物流施設だった。

 人気のない搬入口。積まれたパレット。風で鳴る薄い鉄板。

 描線眼鏡を掛けると、黒い揺らぎが建物の奥に滲んでいた。


「一体。反応は安定」


 サキの声が飛ぶ。

 ランとマナセが左右へ散る。

 サチハもペンを構えた。


 アツはキズナの位置を確かめてから、白い線を引く。

 刃の輪郭が空中に立ち上がった。


 少なくとも、その時点では。

 いつもの仕事だった。


*


 黒い揺らぎが、搬入口の奥でゆっくり形を変えた。

 サチハが右肩を押さえる。


「……右、重い」


「右?」


 キズナが振り返った。

「はい。こっちが、なんか」


 けれどサチハには、黒い像が左側に滲んでいるように見えた。


「でも……左に見えます」


「見えるのは左。重いのは右ですね」


 キズナはそれ以上決めつけなかった。

 サキが端末を見る。


「サチハ側の定位は左です」


 少し離れた場所で、ランが弓を構えたまま眉を寄せた。


「でも、動き変じゃない? 右を避けてる」


「軌道の推測より、観測位置を優先してください」


「推測じゃなくて見てるんだけど」


「両方伝えてください」


 キズナの声で会話が切れた。


 サチハは黙ったまま眼鏡の位置を直す。

 アツなら、まだ分からないと言ってもいいのだろう。


 でも、自分は違う。


「……ちゃんと見ないと」


 小さく呟く。


「訂正します。左です」


「右の重さは?」


「……気のせいだと思います。左です」


 キズナが一拍置いた。


「了解。左を優先します」


 ランの矢が走る。

 サチハもペンを振った。


 白い線は左の像をすり抜けた。

 ほぼ同時に、右から衝撃。パレットが滑る



 金属音。


「あ」

 

 積まれていた荷が傾く。

 同時に右側の空気が弾けた。


「アツ!」


 サチハが叫ぶより早く、アツが身をひねる。

 滑ったパレットを避けた身体が、ラックの角へぶつかった。


「っ……!」


 袖が裂ける。

 前腕に赤い線が浮かび、すぐに血が滲んだ。


「アツ!」


「平気!」


 声は返った。

 でも、血は見えた。

 サチハの手が止まる。


「……サチが」


 ペンを握った指が震えた。


「サチが、左って……」


 右側で、また何かが軋んだ。


「サチハ!」


 キズナの声が飛ぶ。

 サチハが顔を上げる。


「後です。いま、どこが重いですか」


「……」


「サチハ」


 息を吸う。

 肩の奥を探る。


「……右」


 もう一度。


「右です。まだ、右が重いです」


*


「分かりました」


 キズナは前を向いた。


「見えた場所も、重い場所も、そのまま言ってください」


「でも、また間違えたら……」


「間違いかどうかも、まだ分かってません」


 サチハが唇を噛む。


「だから、勝手に消さないで」


 少し強い声だった。


「……はい」


 サキは端末へ視線を落とす。


「入力はまだ左側です」


「でも、右を避けてる」


 ランが即座に返した。


「位置情報では左です」


「だから、その位置がおかしいんじゃない?」


「感覚じゃなくて座標を――」


「二人とも」


 キズナが切った。


「両方使います」


 一瞬だけ静かになる。

 マナセが床際を見る。


「右側、荷物の間だけ空気が動いてる」


 アツも裂けた袖を気にしながら、白い刃を構え直した。


「右です」


「腕、大丈夫?」


「動きます」


「そういう聞き方じゃないんだけど」


「あとで痛がります」


 ランが呆れたように息を吐く。

 それでも弓は下ろさない。

 アツは床と柱を見る。

 押した力がどこへ逃げるか。


「右の方が合います。奥へ抜けてる」


「……サチハ?」


 キズナが呼ぶ。

 サチハは血の滲んだアツの袖を一度見た。


「右……まだ重いです」


「了解」


 右側のパレットの陰で影が跳ねた。


「来る!」


「右、下!」


 マナセとアツの声が重なる。


「そこ!」


 サチハがペンを振った。

 一瞬、口が動く。

 けれど今度は言い直さなかった。


 白い線が走る。

 ランの矢が逃げ道を削り、アツの刃がその先を切った。

 黒い揺らぎが大きく沈む。


「……合ってます」


 サキが画面を見る。

 続けて眉を寄せた。


「でも固定できません。まだ揺れてます」


「十分です。押します」


 キズナが一歩出た。


「……っ」


 像が一瞬、二つにずれる。

 眼鏡の位置を指で直す。


「キズナさん?」


 サキが顔を上げた。


「少しずれました。まだ続けられます


 答えてから、キズナは一度だけ瞬きをした。

 黒い像は戻った。

 たぶん。


「続けます」


 誰も何も言わなかった。

 ただ、さっきより少しだけ声が増えた。


*



 黒い揺らぎは、搬入口の奥へ押し込まれていた。


「あと少しです」


 サキの声に、キズナが頷く。


「そのまま詰めます。近づきすぎないで」


 ランの矢が逃げ道を切る。

 マナセが右側の荷物を見張り、アツは傷ついた腕をかばいながら刃を構えた。

 サチハもペンを下ろしていない。

 右。

 まだ重い。

 言葉にしてから、今度は消さなかった。


「右、続いてます」


「了解」


 キズナが答えた、その直後だった。

 頭上で、金属が嫌な音を立てた。


「上!」


 マナセが叫ぶ。

 古いシャッター脇の金具が外れ、梁へぶつかる。

 跳ねた部材が、予想と違う角度で飛んだ。


 キズナが身を引く。


 避けた――はずだった。


 ぱき、と乾いた音。


「……っ」


 右の視界に、一本の白い亀裂が走った。

 眼鏡へ触れる。

 レンズの端が割れている。

 黒い像が二つにずれた。


「……まずい」


「キズナさん?」


 キズナは一度だけ目を閉じた。

 開く。

 戻らない。


「ワタシの視界、落ちます」


 一瞬だけ空気が止まった。


「位置、こっちで出します」


 サキがすぐ端末へ戻る。


「距離はワタシ!」


 ランが前へ出る。


「右側、まだ動いてる」


 マナセが続けた。


「奥です。少し下がってます」


 アツが白い刃を向ける。

 サチハは喉を鳴らした。

 アツの裂けた袖を見る。

 それでも口を開く。


「……右」


 一拍。


「右、まだ重いです」


「了解」


 キズナは眼鏡を押さえたまま頷いた。


「ラン、逃げ道。サキ、位置を更新。マナセ、右を見て」


「了解!」


「はい」


「分かった」


「アツ、いけます?」


「いけます」


「サチハ、そのまま右を」


「はい」


 ランの矢が左を削る。

 黒い揺らぎが右へ逃げる。


「今!」


 アツが踏み込んだ。

 白い刃が、力の抜ける場所を切る。


「そこです!」


 サチハの線が逃げ道を塞いだ。

 マナセが声を上げる。


「止まる!」


 サキの指が端末を走る。


「位置、収束!」


 キズナは、ずれた視界のまま声を重ねた。


「そこで止めます」


 白い線が交差する。

 黒い影が大きく震え、ほどけた。


 あとに残ったのは、床を転がる金属片の音だけだった。


 キズナはそこでようやく眼鏡を外し、割れた眼鏡へ触れる。


「……帰ったら、怒られるかな」


「誰にです?」


 アツが聞く。


「眼鏡を作った人に」


 少し笑った。

 けれど、もう掛け直すことはできなかった。


*


 帰りの車内は、いつもより静かだった。

 アツの前腕にはガーゼが巻かれている。

 サチハは、その白い布を何度も見た。


「……ごめん、アツ」


「これくらいなら平気」


「そういうことじゃなくて」


 アツは口を閉じた。


「サチが左って言ったから」


「そこまでです」


 助手席からキズナの声がした。

 眼鏡はもう掛けていない。


「何が起きたかは、ログを見てから」


 サチハは膝の上で手を握る。

 しばらくして、アツが口を開いた。


「最初、右って言ってたよな」


「……うん」


「でも、眼鏡では左に見えた」


「うん」


「それで、自分で左に直した」


 サチハが俯く。


「じゃあ、最初の右は何だったんだろうな」


 答えは出なかった。

 前の席で、キズナは窓の外を見ていた。

 夜の道路と、店の灯り。

 それだけだった。


*


 A stationへ戻ると、サキがすぐ端末を開いた。


「せめて着替えてからにしない?」


 ランが覗き込む。


「気になるので」


 何度か画面を切り替える。


「……サチハの眼鏡ログ、切れてません」


「じゃあ、左に見えてたってこと?」


「そこまでは分かりません」


 サキは首を振る。


「入力は残っています。でも、それだけです」


 サチハは自分の眼鏡を外した。

 傷ひとつない。

 それなのに、掛け直す手が止まる。

 その隣で、キズナがケースを開いた。

 ひびの入った眼鏡を中へ戻す。


「……こっちも、明日ですね」


「ですね」


 サキが端末を閉じた。

 サチハはまだ眼鏡を手に持っていた。

 キズナはケースの蓋を閉じる。

 ぱちん、と小さな音がした。


いつも新編『描線眼鏡』をお読みいただき、ありがとうございます。


ここ数日、Xへのログインができず、更新告知を十分に行えない状態が続いていましたが、Xでの告知も再開しています。


改めて、新編『描線眼鏡』は現在、木曜・日曜更新で連載中です。


新しいサブタイトルは、


――漫画スタジオの仲間たちは、見えない世界に線を引く――


今回は、A stationにひとつ明るい報せが届きます。

漫画を描く仕事は、そこで終わらず、この先へ続いていくことになります。


一方で、現場では別の問題が起こります。


眼鏡越しに見えている位置。

身体が感じている重さ。

仲間の観測。

そして、自分の中で「これは気のせいだ」と消してしまいそうになる感覚。


見えているものと、感じているものが食い違ったとき、どちらを信じるのか。

ひとつの視界では足りないからこそ、消してはいけない情報がある。


また、タイトル通り、「視界」そのものにも変化が起きます。

それが次回以降、A stationと描線眼鏡の扱いにどうつながっていくのかも、見ていただければと思います。


第1話「羽田の白い線」から第17話「割れた視界」まで公開中です。

しばらく告知面でご不便をおかけしましたが、今後も更新とあわせて、Xでのお知らせも再開していく予定です。


引き続き、新編『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。

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