第22話 レンズの記憶
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。
少女の名は、戸隠キズナ。
十代の新人にして、自ら漫画スタジオ「A station」を構える天才少女漫画家。
原稿を描き、締切を追い、仲間と働く。
そして眼鏡越しに現れる“魔”へ線を引く。
漫画と科学、想像力と観測。
異なる“見え方”を持つ仲間たちが、それぞれの線を重ねながら、世界の見えない側へ踏み込んでいくSF群像劇。
北陸道を南へ走って二時間ほど。窓の外に眼鏡の看板が増え始めると、キズナは眼鏡のフレームを押し上げた。
「キズニャ、また直してる」
後ろからランが笑う。
「癖になってるだけ」
「昨日、五郎さんにも言われてたじゃん」
「……それも癖よ」
鯖江に着くころには、陽が高くなっていた。住宅街の奥、古い日本家屋の隣に小さな工房がある。その向こうには、ガラス張りのYAHOの建物。ずいぶん趣の違う建物が、同じ敷地に並んでいた。
「おーい、キズナ」
工房の戸が開き、白髪の男が顔を出す。
「三郎さん。お久しぶりです」
「その眼鏡じゃ、さぞ落ち着かんだろう」
「使えますよ。ちゃんと」
「使えるのと、合ってるのは別だ」
言い返す前に、三郎はケンのデリカに目をやった。
「で、今日は大所帯だな」
「スタジオのメンバーです。このあと勝山へ。恐竜博物館に行くんです」
「仕事は?」
「書類の確認だけ。発掘現場で調査があるんですが、それは明日です」
キズナが答えると、ケンが胸を張った。
「車と連中はオレが見とく」
「協会への連絡はボクが」とマナセ。
「提出書類も確認済みです」とサキ。
「……何だか、頼もしいわね」
「恐竜目当てなのは内緒だよー」
ランの声に、アツが「言ってますよ」と返し、サチハも笑った。
デリカが角を曲がると、庭が急に静かになった。
自分だけ置いていかれるのは、少し妙な気分だった。
「さて」
三郎が工房の戸を開ける。木の机に工具が並び、陽の光を細いレンズが返していた。
「神岡じゃでっかいものを見たそうだな」
「三キロの腕に、五万トンの水です」
「こっちは指先ほどだ」
三郎は作業台の奥から、小さな包みを取り出した。
「最後は、お前さんの目で合わせないとな」
*
布がほどかれると、見慣れた細いフレームが現れた。
キズナは手を伸ばしかけ、引っ込めた。
「まだ触るな。最後の調整が残っとる」
「三郎さん、ワタシより過保護ですね」
「眼鏡に対してはな」
検眼用の椅子に座る。三郎はキズナの掛けていた協会標準型を受け取り、光にかざした。
「悪い眼鏡じゃない。誰にでも使えるよう、よくできとる」
「でも、ワタシの目には少し忙しいんです」
「電子表示は親切すぎることもある」
三郎は標準型をしまい、特注眼鏡を掛けさせた。
鼻当てが収まる。見慣れた重さが耳に掛かった。
「どうだ」
「……右の端が、ちょっと浮きます」
「何ミリ?」
「そんなの分かりませんよ」
「なら、そのまま言えばいい」
三郎は小さな器具でレンズの位置を調整した。何度も掛け直すうち、窓枠の縁が少しずつ落ち着いていく。
「今度は?」
「さっきより近い。けど、左が少し……」
「よし。そこだな」
「今ので分かるんですか?」
「分からんから、何度も聞いとる」
キズナは笑ってしまった。
机には、透明な石が置かれていた。
「これ、水晶ですか?」
「古い見本だ。透明なものを通すと、景色が変わる」
三郎は石を窓にかざした。庭の枝が、わずかに歪む。
「滝の裏から景色を見たことはあるか」
「ありません。びしょ濡れになりそう」
「まあな。だが、水を一枚挟むだけで、向こうが違って見える。昔の人間も不思議に思ったんだろうさ」
水晶や石英を磨き、ガラスを作り、レンズに仕立てる。三郎はそう話しながら、眼鏡のつるをわずかに曲げた。
「小さな文字や遠くの星を見るために、人は道具を作ってきた」
「それで、魔まで見ようと?」
「そこは、手塚先生や湯川先生が余計なことを考えた」
「余計、ですか?」
「親父も普通の眼鏡を作ってりゃ、夜中に叩き起こされずに済んだろうにな」
口ではぼやきながら、指先は止まらない。
電子表示を切り、検査用の細い線を見せられる。焦点を変えるたび、輪郭の重なり方が微かに違った。
「……まだ、形が決まらない感じです」
キズナは昨日のサチハの声を思い出した。
『線は、あります。でも……形にならないんです』
「変な言い方でしたね」
「見るのは私じゃない。お前さんだ。変かどうかは後で考えりゃいい」
三郎がもう一度レンズに触れる。
今度は、窓枠の端が静かに重なった。
「……あ。戻った」
「ようやくだな」
キズナが顔を上げると、三郎は満足そうに笑った。
「電子回路は隣で診てもらわんとな。だが、こいつの話はまだ終わらん」
「レンズの話も、もう十分長いですよ」
「まだ始めてもおらん。親父の二郎が最初に作った頃はな……」
キズナは思わず天井を見た。五郎の忠告が、今になってよく分かった。
*
三郎は引き出しから古い木箱を取り出した。中には、黄ばんだ紙に包まれた小さなレンズが並んでいる。
「これ、全部描線眼鏡用ですか?」
「いや、ただの眼鏡のも混じっとる。うちの祖父、一郎の頃のものだ」
一郎は大阪から福井へ移り、眼鏡作りを始めた職人の一人だったという。
「当時は眼鏡を作るだけで大仕事だ。まさか、自分の息子が見えん化け物を見る道具を作るとは思わんかっただろうな」
「三郎さんも、その仕事を?」
「親父の手伝いだよ。研究者は難しい注文ばかり持ってくるし、漫画家はすぐ壊すし」
「……耳が痛いです」
「お前さんの祖母も昔から、よく壊してたな」
三郎は笑い、古いレンズを光にかざした。
「親父は湯川先生たちの研究に首を突っ込んどった。見えんものを見ようって連中は、昔から無茶を言う」
特殊なレンズが形になり始めた頃、三郎は父に連れられて東京へ出た。
「トキワ荘にも行ったぞ。若い漫画家が集まっとってな」
「手塚先生の?」
「ああ。私がよく出入りした頃には、石森章太郎さんたちがおった」
三郎は懐かしそうに目を細めた。
「一度、石森さんに眼鏡を届けたら、原稿を描く手を止めんのだ。掛けてみなきゃ調整できんと言っても、あと一枚、あと一枚って」
「……気持ちは分かります」
「最後はこっちが原稿を押さえてやったよ。眼鏡より先に漫画が出来上がるところだった」
キズナは吹き出した。
「清香さんも、あの頃は似たようなもんだったな」
「おばあちゃんも?」
「ああ。漫画を描きたい一心で、よく東京へ来とった。親父とも長い付き合いだ」
キズナの知る祖母とは、少し違う姿だった。
三郎は木箱を閉じた。
「ところで、今夜はどうするつもりだ?」
「福井から電車で勝山へ行こうかと。みんなも向こうに泊まる予定ですから」
「前にも言ったろう。うちに泊まっていけと」
「……本気だったんですね」
「部屋も空けとる。カナと六郎も今夜来るしな。明日は一緒に勝山へ行けばいい」
「三郎さんが運転するんですか?」
「まさか。カナに任せる」
「そこは任せるんですね」
「職人にも得手不得手はある」
三郎は何食わぬ顔で、眼鏡を手に取った。
「さて、昔話はここまで。何十年も眼鏡を直してきた話でもするか」
「……五郎さんの忠告、まだ続くんですね」
「孫の話は短すぎるんだ」
*
三郎の指が、フレームの裏側をなぞった。
「清香さんの眼鏡も、よくここが傷んだものだ」
「同じところなんですか」
「眼鏡は持ち主に似る。無茶する場所も決まっとるのかもしれんな」
「そんなところまで似なくても」
三郎は笑って、作業灯にフレームをかざした。
「清香さんのも、よく持ち込まれたね。レンズが欠けた、つるが曲がった。たまには何も壊れとらんのに、見え方が違うとな」
「おばあちゃんらしい」
「うちの親父も頭を抱えとったよ。だが、一度作って終わりじゃない。使う人間が変われば、道具も変えんとな」
キズナは、机に並ぶ古い工具を眺めた。刃先のすり減ったものまで、きれいに磨かれている。
「三郎さんは、魔が見えるんですよね」
「ああ。だが、見えるからって何でも分かるわけじゃない」
「それは、そうですね」
「現場で何をするかは、お前さんたちが決める。私には眼鏡を合わせるくらいしかできんよ」
その口ぶりは、少しも卑屈ではなかった。
「息子の四郎も、孫の五郎も、魔は見えん。四郎は電子機器を作り、五郎は地下で数字を追いかけとる。見えんものを追いかけるのは、昔からうちの家系でな」
「三郎さんも似てますよ」
「……余計なところばかり似る家系だな」
キズナが笑うと、三郎はフレームを机に置いた。
「それで。壊したときは何があった?」
キズナは一度、言葉を選んだ。
「新メンバーのサチハの視認がうまくいかなくて、アツが怪我をしました。ワタシも、止めきれなくて」
「そうか」
「マイスターなのに、って思うんです」
三郎は返事を急がず、レンズの端を布で拭いた。
「見えるようにするのが、私らの仕事だ。その先で何を描くかは、あんたたちの仕事だよ」
「……厳しいですね」
「現場のことは、私には代わってやれんからな」
「じゃあ、せめて眼鏡は完璧にお願いします」
「そこは任せろ。代金は別だが」
「そこも任せてほしかったです」
三郎が笑った。
「壊れたら、また持ってこい。直せるものなら、何度でも直す」
キズナは机の上のフレームを見た。
直ったから、終わりではない。
「さて。あとは隣で電子系の点検だな」
三郎がケースの蓋を閉じる音が、工房に小さく響いた。
*
隣のYAHOの建物に入ると、工房とは違う白い照明がキズナを迎えた。
「光学系は三郎会長のお墨付きですね。では、こちらを」
技術者が端末を操作する。レンズの端に見慣れた表示が浮かび、視界の隅で小さな枠が開いた。
《HUD:正常》
《通信・リンク系:正常》
《記録機能:正常》
「……帰ってきた」
「眼鏡が、ですか?」
「ワタシの視界が」
技術者は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「それは何よりです」
*
工房へ戻る頃には日が傾いていた。
「キズナさん!」
玄関から飛び出してきた少年が、ノートを掲げる。
「六郎、久しぶり。背、伸びた?」
「三センチ!」
「細かいわね」
「測ったもん!」
奥からカナが顔を出した。
「いらっしゃい。今夜はにぎやかになりますね」
「お世話になります」
「三郎じいちゃん、さっきから夕飯の時間ばかり聞くんですよ」
「聞いとらん!」
工房から声が飛んできた。
夕食の席で、六郎は恐竜の漫画を広げた。大きな口に、小さな腕。勢いのある線だった。
「明日、本物を見に行くんだ」
「楽しみね。でも、これ、ずいぶん足が速そう」
「速いほうが格好いいでしょ!」
「そこは作者の自由だな」
三郎の返事に、キズナは思わず笑った。
*
食後、端末が震えた。マナセからだった。
《博物館は満喫したよ。ただ、明日の発掘現場の立入書類が現地に届いていないみたい。協会に確認しておくね》
《ありがとう。調査区域には入らず、今日は休んで》
さっきまで恐竜の写真を送り続けていたのに。キズナは小さく吹き出した。
客間に戻り、眼鏡を外す。
昼間は何度も掛け直したのに、今はもう、その必要がなかった。
ケースの蓋が、かちりと鳴る。
明日は、みんなと勝山へ。
キズナは明かりを消した。
いつも新編『描線眼鏡』をお読みいただき、ありがとうございます。
第22話を公開しました。
前回は、神岡の観測所で見えないものを観測すること、そして観測したものをどう受け止めるのかについて描きました。
今回、旅は神岡から次の目的地――鯖江へ進みます。
目的のひとつは、キズナの眼鏡の修理。
けれど、壊れた眼鏡を元に戻すことだけではありません。
レンズを作る技術。
それを受け継いできた人。
現在につながる過去の工夫。
そして、今とは違う形で「見えないもの」を見ようとしていた人間の歩み。
現実の科学や歴史と、想像力の世界をどうつなげるか?『描線眼鏡』そのものの歴史を少しだけたどる回です。現実の観測所に続き、現実の眼鏡の町を舞台に選びました。
神岡で「観測すること」を見て、鯖江で「見るための道具」と向き合った七人が次に向かうのは太古の地層が眠る勝山。
現在、新編『描線眼鏡』は第1話「羽田の白い線」から第22話「レンズの記憶」まで公開中です。
引き続き、木曜・日曜更新で進めていきます。
遠征編「見えないものをたどって」、引き続きよろしくお願いいたします。




