第15話 片付けの日
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。
少女の名は、戸隠キズナ。
十代の新人にして、自ら漫画スタジオ「A station」を構える天才少女漫画家。
原稿を描き、締切を追い、仲間と働く。
そして眼鏡越しに現れる“魔”へ線を引く。
漫画と科学、想像力と観測。
異なる“見え方”を持つ仲間たちが、それぞれの線を重ねながら、世界の見えない側へ踏み込んでいくSF群像劇。
二月の半ばの水曜日。
コンビニの入口には、やたらと赤と茶色の箱が積まれていた。
アツはその横を素通りして、雑誌棚の前で足を止めた。
『週刊コスモス』最新号。
目次の端に、短期連載『眼鏡の女の子』最終回の文字がある。
「……ほんとに載ってる」
入稿したのだから載っていて当然なのだが、画面で見ていた原稿と、棚に並んだ雑誌は別物に見えた。
一冊取ってレジへ向かう。
前には、チョコレートの箱ではなく同じ雑誌を抱えた女の子が立っていた。
「あ」
振り返ったサチハも、同時に声を出す。
「加藤さんも買うんだ」
「村上さんもじゃないですか」
「だって、売ってるの見たかったし」
それはアツも同じだった。
完成原稿なら、とっくに見ている。
それでも二人とも一冊ずつ買った。
A stationへ着くと、キズナはすでに掲載誌を机に広げていた。
「これで正式連載、決まるんですよね」
アツが聞くと、キズナはページをめくったまま答えた。
「決めるのは読者と編集部です。アンケートも、まだこれから」
声はいつも通りだった。
けれど次のページをめくるまで、ほんの少しだけ間があった。
やがてキズナは雑誌を閉じた。
「これで短期連載分は全部、掲載済みです」
そして部屋を見渡す。
原稿。資料。空き箱。使い終えた画材。机の横まで積まれた本。
「正式連載が決まったら、また資料が増えます。その前に、今回使ったものを片付けます」
「決まってからじゃなくて?」
「決まってからだと遅いです」
キズナは立ち上がった。
「なので今日は、片付けます」
アツは雑誌を抱えたまま、もう一度部屋を見渡した。
*
片付けは、最初の十分くらいまでは普通の漫画スタジオと同じだった。
使いかけのトーン。替え芯。背景写真。服の資料。ポーズ集。
「これは残す」
「こっちは捨てます」
「それ、まだ使います」
キズナの指示で山が少しずつ低くなっていく。
問題は、その下からだった。
「……剣?」
アツが引っ張り出したファイルには、刀身の断面と重心位置が細かく書き込まれていた。その隣から甲冑、古銃、工具、気象図。さらに一冊めくると、異常対応の現場写真まで出てくる。
「これ、どこから漫画資料で、どこから仕事用なんです?」
返事がなかった。
ランが衣装資料を三冊まとめて棚へ突っ込む。
「キズニャ、これ全部こっちでいいよね?」
「ランラン、それ後で絶対分からなくなるやつ」
「見れば分かるよ」
「ランランにはね」
呼び止めるでも、言い直させるでもない。
キズナも、ごく普通に「ランラン」と返している。
二人が昨日今日の付き合いではないことくらい、アツにも分かった。
反対側ではサキがラベルを貼り直していた。
「師匠、資料番号が重複しています」
今度はそっちへ顔を上げる。
キズニャ。
師匠。
同じ人を呼んでいるとは思えない。
その横でマナセは斧の資料を開いたまま動かなくなっていた。
「マナセン」
ランが呼ぶ。
「片付け」
「ボクは今、柄の長さを確認してる」
「それを読書って言うんだよ」
ケンはその間に空箱を潰し、使わない機材をまとめ、誰にも言われないまま棚まで動かしていた。
アツが気づいた時には、いちばん面倒そうだった山が半分消えている。
「上迫さん、これ全部?」
「置いといても誰もやらねえだろ」
そしてキズナは、自分でも本を運びながら、
「そのケースは装備棚。気象資料は右。古銃は残してください」
と、部屋中へ指示を飛ばしていた。
漫画も武器も、同じ速さで。
アツは結局どこまでが漫画の仕事なのか、ますます分からなくなっていた。
*
新人の二人に回ってきたのは、棚のいちばん下に押し込まれていた段ボール箱だった。
「これは?」
「昔の取材メモ。残します」
「こっちは?」
「没ネーム。たぶん残す」
「たぶん?」
アツが首をかしげると、サチハも同じように首をかしげた。
五分後には、二人が分けたはずの資料が、互いの手で別の箱へ移されていた。
「加藤さん、それさっきサチがこっち入れた」
「村上さんが入れたから戻したんですけど」
「じゃあ、どっちが正しいの?」
「キズナさんに聞きます?」
「負けた感じするから、やだ」
少し笑ってから、サチハが手を止めた。
「ていうか」
「はい」
「村上さんって呼ばれると、距離感じます」
アツは瞬きをした。
「同期なんだし、サチでいいよ」
「じゃあ……サチ?」
「なんで疑問形なの」
「急なんで」
「加藤さんもアツでいい?」
「オレは別に」
「じゃあ、アツ」
あっさり決まった。
その向こうでは、サキがラベルを貼り、ランが画材を運び、マナセがまた資料を読み、ケンが棚を動かしている。
サチハがその様子を眺めた。
「みんな、何する人か分かりやすいよね」
「オレらは?」
「新人」
「それ役割ですか?」
二人で笑った。
けれどサチハは、箱の中へ視線を戻してから小さく言った。
「サチは、まだ何する人なのかなって」
アツはすぐには答えられなかった。
自分だって、仮のライセンスをもらったばかりだ。
「オレも、まだ分かんないけど」
「そっか」
「だから今は、これじゃないですか」
アツは手にしていた資料を持ち上げた。
「箱分け?」
「箱分け」
サチが吹き出した。
「じゃあアツ、そっち持って」
「はいはい」
今度は同じ箱へ入れた。
*
箱の底から、古びた小さな革のケースが出てきた。
「これも装備か何かですか?」
アツが持ち上げると、少し離れたところにいたキズナがすぐ振り向いた。
「それ、こっちにください」
いつもより返事が早い。
アツは開けかけた手を止め、そのまま渡した。
キズナがケースを受け取る。
そのまま次の指示を出すかと思ったが、指が留め具の上で止まった。
ほんの一瞬だけ。
それから静かに開く。
中に入っていたのは一見ただの眼鏡だった。
キズナはレンズに触れず、フレームの端を指でなぞった。
「昔の眼鏡みたいですね?」
「……これも描線眼鏡。おばあちゃんの」
答えるまでに、少しだけ間があった。
横から覗いたサチが首を傾げる。
「まだ使えるんですか?」
「使えます。今の描線眼鏡とはもちろん違うけど」
「じゃあ、それを掛ければ魔が見えるんですか?」
アツの問いに、キズナは首を振った。
「ワタシには、たぶん合いません。職人さんがおばあちゃんに合わせたものだから」
キズナはそっとケースを閉じながら言う。
「そういうものなんです」
キズナはそれを捨てる箱にも、装備棚にも置かなかった。
自分の机の端へ、そっと移した。
整理のついでに、装備ケースも並べ直すことになった。
アツとサチの眼鏡は同じ型のケースへ。
アツは何も考えず、キズナの眼鏡も隣へ置こうとした。
「それは別です」
サキの声が飛んだ。
「え?」
「専用ケースがあります」
キズナが苦笑する。
「ワタシのは、ちょっと面倒なんです」
「“ちょっと”ではありません」
即座にサキが訂正した。
「だいぶ面倒だよね、それ」
ランまで笑う。
「言い方」
キズナは眼鏡を受け取り、自分のケースへ戻した。
その横には、さっきの古い革のケース。
どちらも簡単には代わりにならないものらしい。
アツは少しだけ気になったが、今度は聞かなかった。
*
昼を少し過ぎたころ、ようやく片付けがひと区切りついた。
「休憩しよ」
ランがそう言って、コンビニ袋を机の真ん中へ置いた。
中から出てきたのは、個包装のチョコレートだった。
「はい。今日バレンタインだから」
「全員に?」
「全員に」
ランは男女関係なく一つずつ配っていく。
マナセが最後に残った箱を取ると、少しだけ包装が豪華だった。
「なんでマナセンがそれ引くの」
「ボクに言われても」
朝のコンビニで見た、赤と茶色の棚をアツは思い出した。
隣ではサチが特に気にした様子もなく、自分の分をもう開けている。
「甘い」
「チョコだからな」
ケンが言った。
誰かが机の端に置いてあった『週刊コスモス』を開く。
「あ、ここ」
アツは思わず身を乗り出した。
自分が仕上げを手伝った背景だった。
「印刷されると、また違うね」
ランが覗き込み、マナセはなぜか作中の武器を見ている。
「この持ち方、ちょっと無理がある」
「そこ?」
サチハが笑った。
キズナは何も言わず、少し離れたところからページを見ていた。
この机の周りで作ったものが、雑誌になって店に並んでいる。
朝見た事実で、実感が広がった。
「アンケ、いいといいね」
誰かが言った。
キズナは一度だけうなずいた。
「うん」
それからチョコを一つ取り、ようやく包装を開けた。
*
午後になっても、警報は鳴らなかった。
サキが協会アプリを確認している横で、アツは整理した資料を棚へ戻していく。
「今日は本当に何もないですね」
「何もない方がいいんです」
キズナはそう言って、自分の机へ戻った。
あっさりした返事だった。
窓の外では、冬の午後がゆっくり傾いている。暖房の音と、紙をめくる音。誰かのキーボード。
それだけだった。
アツも装備棚の前で、自分の描線眼鏡をケースへ戻す。
隣でサチも同じことをしていた。
けれど、蓋を閉じる直前。
その手が少しだけ止まった。
「どうした?」
「ん?」
サチハは顔を上げて、それから首を振る。
「なんでもない」
眼鏡をもう一度見て、今度こそケースを閉じた。
ぱちん、と小さな音がした。
その後も、何も起きなかった。
警報もない。
出動もない。
誰かが慌てて立ち上がることもない。
だからアツも深く考えず、次の資料を棚へ戻した。
*
夕方には、朝より机がずいぶん広くなっていた。
床に積まれていた箱も消え、棚には新しいラベルが並んでいる。
「終わった?」
ランが伸びをする。
「終わってません」
サキが即答した。
「分類の確認が残っています」
「それ終わってない判定なの?」
「終わっていません」
マナセは結局、さっきの斧の資料をまた開いていた。
「それ、片付けたんじゃなかったのか」
ケンが言う。
「参考資料として必要になった」
「十分で?」
「十分で」
アツは笑いながら、自分の席へ戻った。
朝買った『週刊コスモス』が、机の端に置いてある。
ページをめくれば、自分が触った背景がある。
顔を上げれば、その原稿の周りにいた人たちが、もう次の作業を始めていた。
ランは画材。
サキはデータ。
ケンは何かの伝票。
マナセは、まだ斧。
キズナはいつもの席でペンを持っている。
「アツ」
呼ばれて振り向く。
サチが、さっき分けた資料を一冊持ち上げていた。
「これ、どっちの棚だっけ」
今朝までなら、「加藤さん」と呼ばれていた。
アツは棚を見てから答える。
「右。……サチ、それ左の箱に入れてたやつ」
「また?」
「また」
「今日ずっとそれじゃん」
「同期なんで」
「そこ関係ある?」
サチが笑った。
キズナのペン先が、かすかに鳴る。
暖房。キーボード。紙の音。
片付けたはずなのに、部屋はもう少しずつ散らかり始めていた。
アツはそれを見て、なんとなく安心した。
A stationは、今日もいつも通りだった。
いつも新編『描線眼鏡』をお読みいただき、ありがとうございます。
少し更新間隔を空けていましたが、今回より木曜・日曜の定期更新を再開します。
また、先日お知らせした通り、新編『描線眼鏡』はサブタイトルを見直しました。
新しいサブタイトルは、
――漫画スタジオの仲間たちは、見えない世界に線を引く――
第14話までで、羽田での出来事、A stationの日常、見えない異常への対応、協会の存在、そして外側から近づく視線が少しずつつながってきました。
漫画を描くこと。
見えない異常に向き合うこと。
仲間たちと、ひとつでは足りない視界を重ねていくこと。
第15話からの新編『描線眼鏡』も、引き続きお付き合いいただければ嬉しいです。
現在、第1話「羽田の白い線」から第15話まで公開中です。
初めての方は第1話から、追いかけてくださっている方は今回の第15話から、ぜひ読んでいただければと思います。




