第13話 重ねる言葉
漫画家志望の青年・加藤アツは、羽田で起きた事故の中、誰の目にも映らない白い線と、眼鏡の少女を目撃する。その出会いをきっかけに、アツは現実の裏側にある“見えない世界”へ足を踏み入れていく。
旧編三部作として完結した『描線眼鏡』の世界観を引き継ぎつつ、物語の入口から新たに描き直す新編です。
その日のA stationには、紙をめくる音とペン先の擦れる音、それから誰かが忘れたコーヒーの匂いが残っていた。
今日は数えて三回目の締切日。つまり、短期連載の最終回だ。
アツはモニターに表示された背景へ定規ツールを当てながら、通話画面の向こうにいるフクハラを見た。フクハラは原稿を一枚ずつ送りながら、いつもの調子で言う。
「今回までまとめて、次の会議に持っていきます」
「じゃあ、今回が良ければ正式連載ってことですよね?」
思わず口を挟むと、フクハラは苦笑しながら返す。
「そこまで簡単なら編集者なんていらないよ」
「夢がないんだなあ」
「夢を会議に持っていくのが編集って仕事だよ」
隣でペンを動かしていたキズナが、顔も上げずに小さく笑った。
第一回と第二回の反応は悪くないらしい。悪くない、という言い方がどのくらい良いのかは、アツにはまだ分からない。もちろん、次が決まったわけでもない。
「で、今回は物語としてちゃんと終わらせてください」
フクハラが続けた。
「でも、ただ終わってほしくはないです」
「矛盾してません?」
「最終回なので」
「答えになってないですよ」
「編集さんってだいたいそうです」
キズナがさらりと言い、フクハラが画面の向こうで「先生まで」と笑った。
残りは数ページだった。
アツは背景の線を直し、人物の位置を確認して、最後近くのアクション場面で手を止めた。
長い武器を受け止めた人物が、半歩踏ん張っている。
「……なんか、ここ変じゃないですか」
「どこですか?」
キズナが椅子を滑らせてくる。
「いや……足、かな」
絵として崩れているわけではない。武器も腕も、見ればちゃんとつながっている。
それでも、受け止めた力が身体のどこかに残っているように見えた。
アツはしばらく画面を睨み、やがて首を傾げた。
「分かんないです」
「じゃ、保留」
キズナは迷わず言った。
モニターの端には、まだ空白の最終ページが残っていた。
*
保留にした一コマをそのまま脇へ寄せたところで、サキの端末が短く震えた。
音は小さい。けれど、A stationでは全員がその音に反応した。
「来ました」
サキが画面を開く。
【協会アプリ】
《Priority Alert/警戒レベル:R》
《予測地点:大田区南部》
《予測範囲:300m±50m》
《予測時間:+00:40:00±05:00》
《反応:1》
《対処類型:圧魔》
「Rですが……」
危険度はそこまで高くない。
だが机の上には、まだ終わっていない原稿がある。
キズナが画面と原稿を一度ずつ見て、すぐに言った。
「ワタシは残ります」
「え」
アツはキズナが現場に居ないことが想像できず、思わず呟く。
「マナセ、ラン、加藤さん。三人で行ってください」
マナセが立ち上がり、ランはもう眼鏡ケースを取っていた。
「キズナさんがいないとSystem Linkは?」
アツが聞く。
「組めません」
即答だった。
「あと、監督下だけっていう条件は?」
「そこは遠隔での監督が認められています」
端末に表示が浮かぶ。
《SUPERVISOR:TOGAKUSHI KIZUNA》
《REMOTE:CONNECTED》
キズナがアツを見る。
「監督回線が切れたら、武器使用停止です」
「そこは分かりやすいんですね」
「もし通信が切れたら、加藤さんは撤収してください」
全員では行けない。
マナセもランも、もう出発の準備に入っている。アツだけが、サチハと一度目を合わせた。
通話画面の向こうで、フクハラが首を傾げている。
「何かありました?」
ケンがすぐに答えた。
「背景資料の確認です」
「今から?」
「今じゃないと取れない資料で」
「キズナ先生拘り強いですからねぇ……漫画って大変ですよね」
「そうなんですよ」
妙に実感のこもった返事だった。
アツはペンホルダーを腰へ差し込み、マナセとランのあとを追った。
背後では、もう紙をめくる音が戻っていた。
*
現場は旧物流倉庫で、もう使われなくなって久しいらしかった。
錆びたシャッター。色の抜けた注意書き。コンクリートの壁にはところどころ剥落があり、むき出しの鉄骨が薄暗い天井まで伸びている。
人の気配はない。
あるのは、風の音と――。
ミシッ。
三人が同時に足を止めた。
梁のどこかから、細かな粉塵が落ちた。
「嫌な音だな」
ランが眼鏡をかける。
アツも続いた。
すると計ったかのように描線眼鏡が震えた。
【HUD】
《ALERT:状況発生》
《危険度:R》
《RANGE:80m±15m》
視界の奥に、黒い線が浮いた。
「右の柱にいます」
アツが指す。
「右ってどこ?」
ランが即座に返した。
「そこです。ほら、柱」
「私には梁の下に見えるけど」
「え?」
「待って」
マナセが二人から少し離れ、眼鏡越しに天井を見上げた。
「ボクには、その間に見える」
三人で黙る。
「三人とも違うんですけど」
アツが言った。
System Linkがあれば、誰がどこを見ているかは視界に重なる。
今日は何も出ない。
アツは二歩横へ動いた。
黒い線もずれた。
「動いた」
「魔が?」
「いや……」
もう一歩。
今度は柱に沿っていた黒が、梁の方へ伸びて見えた。
ランも場所を変える。
「こっちだと上に行く」
マナセは接合部を見た。
「ボクにはここが一番濃い」
「分裂してる?」
ランが眉を寄せた。
イヤホンからサキの声が入る。
『反応は一です。位置は確定できません』
「一つが三つに見えてる?」
アツは柱を見た。
縦に走る黒。
その先には梁がある。
ランが見ている線は、その梁へ斜めに重なっている。
そしてマナセが見ているのは、二つが合わさる接合部。
また、ミシ、と鳴った。
今度は少し近い。
柱が鳴った直後、ランの見ている梁側の黒が濃くなる。
「とりあえず、ただ“右”は禁止」
マナセが言った。
「賛成」
ランが即答する。
「入口を背中。奥を十二時。柱は手前から一本、二本。いい?」
「最初からそうしてよ」
「今決めたんだよ」
アツは思わず笑った。
マナセが奥を指す。
「十二時側、二本目の柱」
「見えてます」
「その上の梁」
「私も」
「接合部は?」
アツは視線を上げた。
黒い線は、まだ一つには見えない。
けれど三人が言っている場所だけは、少しずつ同じになってきた。
*
現場班が出てしばらくして、フクハラもA stationへやって来ていた。
キズナは片耳にイヤホンを入れたままペンを走らせている。
「先生、この最後のページなんですが」
フクハラがモニターを指す。
「はい。見てます」
返事をしながら、キズナの耳には別の声が入っていた。
『十二時、柱二本目。その上!』
フクハラが顔を上げる。
「何の話です?」
「背景のパースです」
ケンが答えた。
「なるほど」
とりあえず通ったらしい。
サキが隣で監督回線の表示を確認する。サチハは何も聞かなかったような顔で、ベタの抜けを埋めていた。
旧物流倉庫では、その「背景」がまた鳴った。
ミシッ。
「柱の線、上まで続いてます!」
アツが声を上げる。
「上は梁に入ってる!」
ランが数歩下がり、弓を構えた。
マナセは二人とは違う角度から接合部を見る。
「こっちだと、その二つがここで重なってる」
黒い線は三か所にあるように見える。
でも、ばらばらじゃない。
アツは柱を見上げた。
縦の線。梁へ抜ける線。その先にある接合部。
武器を見るときと同じだった。
どこを握って、どちらへ力が入るか。重さはどこへ抜けるか。
「これ、場所じゃない」
『加藤さん?』
イヤホンからキズナの声。
「力が通ってる線です」
一瞬の沈黙。
『なら、三人で同じ線を見つけてください』
答えはそれだけだった。
マナセがすぐに動いた。
「ラン、梁側を止めて。アツは柱」
「了解」
「接合部は?」
「そこはボクがやる」
ランの白い矢が走った。
梁側の黒線へ矢が刺さり、そこから先へ伸びる揺らぎが止まる。
同時にアツは描線ペンを振った。
白い長剣が形を取り、柱に沿う黒だけを断つ。
黒が弾けた。
消えない。
代わりに、接合部へ寄った。
「今、集まってます!」
「こっちも消えた!」
二人の声が重なった。
マナセはもう踏み込んでいた。
白い斧が、柱と梁の境目へ落ちる。
黒い線が一点で潰れた。
倉庫全体が低く鳴る。
ミシ――。
三人とも動きを止めた。
粉塵が、ぱらぱらと落ちる。
それきりだった。
【HUD】
《反応低下》
《反応:0》
《状況:沈静化》
「……終わった?」
ランが弓を下ろす。
「終わったみたいです」
アツも剣を消した。
「状況終了」
マナセが通信へ告げる。
A stationで、キズナが小さく息を吐いた。
けれど手は止めなかった。
「先生」
フクハラが最終ページを開く。
「このラスト一コマ、これでいきませんか」
物語は終わっている。
ただ、主人公の視線だけが、画面の外を向いていた。
キズナは数秒見た。
「うん」
ペン先を置く。
「じゃあ、ここで」
*
帰りの車は、見事に渋滞につかまっていた。
「魔より動かないね」
ランが窓の外を見て言った。
「比較対象がおかしくないですか」
アツの端末が震えた。
A stationから、最終確認用のページが届いている。
『あと一箇所だけ見てください』
開いたのは、出動前に引っかかっていたアクション場面だった。
長い武器を受け止める人物。
アツは画面を拡大した。
「あ」
「何?」
ランが覗き込む。
「この足、逆です」
「足?」
「この向きだと、受けた力が身体の外へ抜けないです。たぶん、こっちに踏ん張る方が自然で」
マナセが前を見たまま笑った。
「今日、重さばっか見てるね」
「今日だから分かったのかも」
アツは指で簡単な線を引き、スタジオへ送り返した。
少しして修正版が届く。
キズナが直したのは、ほんの一本だった。
それだけで、人物がちゃんと立って見えるように変わった。
十九時を回った頃、スタジオのモニターに表示が出た。
《入稿完了》
「よし」
キズナが椅子にもたれる。
フクハラは完成稿を最初から数ページめくり、最後で手を止めた。
「これなら会議に持っていけます」
戻ったばかりのアツが聞く。
「連載、決まりですか?」
「決まってないよ」
即答だった。
「そうですか……」
「でも、会議へ胸張って持っていける原稿だと思うよ」
「それで十分です」
キズナが言った。
フクハラは鞄を閉じ、『資料取り』に行っていた三人を見る。
「それにしても、三人係りで時間もかかりましたね」
「いい資料が取れました」
ランが平然と返した。
アツは自分の席へ戻った。
モニターには完成した最終回。その中に、さっき直した一コマもある。
隣の画面では、まだ名前のついていない新しいファイルが開かれていた。
白いページが一枚。
アツは椅子を引き寄せ、その前に座った。
前回は、現出した嵐魔を、A station全員の観測と判断、そして描線によって追いつめていきました。
今回はA stationの締切日。
短期連載の最終回。
次の会議に持っていくための原稿。
まだ空白の残る最終ページ。
そんな中で、アラートが届きます。
原稿を仕上げるため、A stationに残るキズナ。
現場へ向かうのは、アツと先輩二人。
System Linkが無く、それぞれ魔の見えている位置も、感じているものも少しずつ違う状態で、異常に向き合うことになります。
漫画を描くことと、見えない異変に向き合うことが、また少し重なる話でもあります。
現在、小説版新編『描線眼鏡』は第1話「羽田の白い線」から第13話「重ねる言葉」まで公開中です。
引き続き、新編『描線眼鏡』をよろしくお願いいたします。




