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傾いた樽と真珠 ~転生先は酒場兼娼館だった。武器は、前世の知識だけ~  作者: 華雪β
第2章 仮説・検証・フィナ

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第9話 見えていなかった

翌朝、ノックがなかった。


目が覚めて、少し待った。もう少し待った。


(遅いだけかもしれない)


いつもなら「行きましょうか」という声が来る時間を、すでに過ぎていた。もう少し待った。


来なかった。


立ち上がって、廊下に出た。フィナの部屋の前で止まった。


「……フィナ」


ノックした。少し間があった。布が動くような音がして、扉が少しだけ開いた。


フィナの顔が見えた。


思考が止まった。


顔の右側に傷があった。うつむき加減で扉を開けていたが、隠しきれていない。目の下が腫れていた。昨夜泣いていた痕が、まだ残っていた。目が、少しだけ充血していた。


フィナは俺の顔を見て、一瞬だけ何かをこらえるような表情をして——すぐに、いつもの顔に戻した。


「……おはようございます」


いつもの声で、言った。


何も言えなかった。


「……待ってて」


それだけ言って、階段を降りた。店主を呼んだ。


---


店主はすぐに来た。俺には何も言わず、フィナの部屋へ上がった。


しばらくして、降りてきた。俺に向かって、短く言った。


「フィナは今日休みにした。あんたはいつも通りね」


それだけ言って、帳場の方へ戻った。


「わかりました」


俺は答えた。しばらく、店主の背中を見ていた。


(店主は見えていた。自分は見えていなかった)


店主の言葉が頭に残った。「フィナは今日休みにした」——たったそれだけだった。でも、その言葉の裏に何が必要だったか——顔の傷だけじゃなかったはずだ。この数日のフィナの様子を、店主はちゃんと見ていたんだろう。どこかで何かが変わったことに、気づいていた。


自分は、その間、何を見ていたのか。


---


その日、フィナのいない仕込みをした。


一緒に野菜を刻む。一緒に桶を運ぶ。一緒に席を拭く。それがいつの間にか二人のリズムになっていたことに、いなくなって初めて気づいた。それだけのことに、気づくのが遅かった。


夜が始まって、客が来て、いつもの仕事をした。旅の商人に声をかけて、笑って、話を聞いた。手応えはあった。でも頭のどこかで、別のことを考え続けていた。


乱暴な冒険者をかわした夜のことを、思い返した。


「今夜はこちらのお客様のご相手をしておりますので」——そう言ったら、男は引いた。体が震えていたが、うまくいったと思っていた。


(あの男は、別の相手を探しただけだった)


それだけのことだった。矛先が変わっただけで、何も消えていなかった。俺が守ったのは、自分だけだった。


なぜ考えなかったのか。「暫定の戦略だ」「今は安全が最優先だ」と自分でもわかって選んでいた。でも「自分をかわした後で誰が狙われるか」まで、なぜ考えなかったのか。


(バカだ)


本当に。


---


夜が終わった。


最後の客を見送った。扉を閉めた。廊下に出た。


フィナの部屋の扉の前で——止まった。ノックした。少し間があって、扉が開いた。昼間より顔色が少しだけよかった。でも目が、まだ腫れていた。


「……話、聞いてもいい?」


フィナは少し考えてから、扉を広げた。


部屋は暗かった。鎧戸の隙間から月の光が少し入っていた。空気が冷えていた。下の階からはもう声がしなかった。フィナは寝台の端に腰を下ろした。俺は床の端に座った。しばらく、二人とも何も言わなかった。


「昼間は、ありがとうございました」


フィナが先に口を開いた。


「……私こそ」


何が「私こそ」なのかわからなかった。でも他に言葉が出なかった。


フィナはしばらく手元を見ていた。それから、ゆっくり話した。昨夜のことは、多くは語らなかった。でも——しばらくして、こう言った。


「優しくしてもらっても、怖いんです」


「……うん」


「それが、ずっと怖かった。怖いって言ったら——贅沢みたいで」


俺は聞いていた。


分析しなかった。次にどう返すかを考えなかった。ただ、聞いていた。


「言ってよかった」


しばらくして、フィナが小さな声で言った。


「……そっか」


今度は、ちゃんとそう思って言った。


---


部屋に戻った。


棚のぬいぐるみたちが、暗がりの中で並んでいた。


「怖いって言ったら、贅沢みたいで」——フィナの言葉が、頭に残っていた。


あの朝、フィナが言いかけてやめたのは——これだったのかもしれない。怖いと言えなかった。言ったら、弱い人間だと思われると思って。あるいは、言っても何も変わらないと思って。


自分は「危ない客をかわす」ことを考えていた。でもフィナの怖さは、そこじゃなかった。危ない客がいなくても、この仕事そのものが怖い——それを一人で、ずっと抱えていた。


悔しかった。


分析しても、仮説を立てても——一番近くにいた人の「怖い」が聞けなかった。「大丈夫です」と言われたら、それで止まった。


自分への怒りが、遅れてやってきた。静かな怒りだった。でも、消えない怒りだった。


(この場所ごと変えなければ——どうしようもない)


この場所にいる限り、誰にでも同じ夜が来る。自分を守ることはできた。でもそれだけでは——足りない。


問いが変わった。「自分だけを守る」から——「この場所を変える」へ。


やり方はまだわからない。でも——変えられると思った。根拠はないが、確信だけがあった。


ぬいぐるみたちが、暗がりの中でぼんやりと並んでいた。


この子が帰ってくる場所を作る——誓ったことを思った。帰ってくる場所を作るとは、こういうことだ。「怖い」を感じなくていい場所を作ることだ。


(では、何から変える)


頭が、動き始めていた。


---


> "The aim of marketing is to know and understand the customer so well the product or service fits him and sells itself."

> 「マーケティングの目的は、顧客をこれほど深く知り理解することで、製品やサービスが顧客に合わさって自然と売れるようにすることだ。」

> ――ピーター・F・ドラッカー


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