第10話 外に出る(前)
翌朝、店主が帳場から声をかけてきた。
「フィナがしばらく休みになったから、あんたの休みは明日にずらしてな」
それだけだった。振り返りもしない。書き付けに何かを書きながら、ついでのように言った。
「わかりました」
店主が廊下へ向かいかけて、立ち止まった。振り返らずに、帳場の端に何かを置いた。
「今月の分」
それだけ言って、歩いていった。
帳場を見ると、銭袋が置いてあった。持ち上げると、思ったより重かった。
(フィナを休ませると判断したのは、店主だ)
昨日のことには触れなかった。フィナが仕事に出られない状態だと判断して、そこだけを動かした。感情も説明もない。それがこの人のやり方なのかもしれない。
今日、俺は初めて外に出られる。
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傾いた樽亭の扉を押し開けたとき、光が飛び込んできた。
転生してから、初めて建物の外に出た。そのことに、扉を開けるまで気づいていなかった。ずっと店の中にいた。仕込み、接客、片付け、眠って、また仕込み——その繰り返しの中で、一度も外に出ることがなかった。
石畳が続いていた。
市場の声が聞こえた。荷車の車輪が石を打つ音。遠くで誰かが値を張り上げている。食べ物のにおいがした。揚げた肉の脂と、何か香辛料のようなもの。子供が走っていく。
荷車が一台、俺の横を通り過ぎた。御者は前だけを見ていた。
石畳の感触が、足の裏から伝わってきた。
(この街のことを、何も知らなかった)
仕事が始まった頃から「外に出よう」と思っていた。でも一度もできなかった。夜が終わるたびに、次の機会に、と後回しにしてきた。
今日、ようやく出てきた。
どこか遠くから、歌が聞こえた。広場の方だろうか。男の声だった。聞いたことのない旋律だった。言葉もわからない。でも——声だけで、遠い国の景色が浮かぶような声だった。
少し、足を止めた。
それから、歩き始めた。
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まず、市場を歩いた。
目的は観察だった。どんな人が何を買っているか。どんな商いが成り立っているか。どこに人が集まって、どこは少ないか。
屋台が並んでいた。野菜、干し肉、革細工、陶器。旅の商人らしき男が荷を広げて声を出していた。隣では地元らしい女性が籠を下げて、ひとつひとつ確かめながら見ている。二人の客の目の動き方が、まったく違った。屋台の主人はそれを自然に使い分けていた。
宿の前に立った。古い建物だが、壁の目地が整っていた。看板には宿帳の絵が描かれていた——識字できない旅人にも伝わるように。客の入りを外から確かめようとしたが、扉が閉まっていて中は見えなかった。
食堂の前を通った。昼前の時間帯、客の入りは半分ほど。職人風の男が多い。地元の顔だ。常連の動き方をしている——荷物を置く場所、席の選び方、店の者への声のかけ方が違う。
(地元向けだ)
旅の商人らしき男が二人、通りの端に立って何か話していた。
近づこうとして——足が止まった。
何を話すつもりだったのか、言葉が出てこなかった。「この辺の宿はどこが良いですか」なら自然に聞けるか。でも——声をかけた瞬間に、相手がどんな顔をするか。
(……後でいい)
通り過ぎた。うまくいかなかった。
市場の角で少し立ち止まった。情報を集めようとしているのに、近づけない相手がいる。なぜか——
そのとき、気づいた。
振り返って、自分が歩いてきた道を見た。隣にいた女性が少し距離を置いていた。屋台の主人がこちらを一瞥して、視線を外していた。子供を連れた女性が、俺の横を通るとき子供の肩を引き寄せた。少しだけ、足を速めた。さっきの商人が向き直った瞬間の表情の変化——あれも。
(服を見ていた)
この服が何を示すか——みんな知っている。
差別されているわけじゃない。悪意があるわけでもない。ただ——そういう場所にいる人間として区別されている。それだけのことだ。
(この服のままでは、話しかけられる人間が限られる)
観察をしに来たのに、観察される側だった。今日はまず、これをどうにかしなければ。
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服を扱う店を探した。市場の中ほどに、古着を棚に並べた小さな店があった。仕立て屋の隣で、きちんと畳まれて値がついていた。
「屋台」ではない。ちゃんとした店だった。
俺は棚を手に取り始めた。
目立たないもの。地味だが、縫い目がきれいなもの。この体に合うサイズを探した——華奢で、肩が狭い。
何枚か手に取って、戻した。
ふと思った。
(そういえば——あの部屋に、仕事着以外の服はなかった)
ぬいぐるみはあった。たくさん、あった。でも——外に出るための服が、一枚もなかった。
「着ていく服がなかったのか」
声に出てしまった。店の者がこちらを一瞥した。俺は黙って棚に目を戻した。
それとも、着ていく場所がなかったのか。
どちらかはわからない。でも——どちらにしても、同じことだ。
選んだのは麻の服だった。ワンピースのような形で、くるぶしまで届く丈。色は干し草のような茶色で、あちこち色褪せているが、縫い目が丁寧だった。値を払った。
裏の路地で着替えた。仕事着から帯だけ外して締め直した。仕事着を畳んで腕にかけた。
通りに戻ると、人の視線が変わった。屋台の前を通っても、誰も距離を置かなかった。主人が一瞥して、また別の客に目を移した。普通の扱いだった。
(これで、動ける)
まだ昼前だった。腹が減っていることに、そのとき気づいた。
市場の端に食堂があった。さっき外から見ていた店だ。入ってみることにした。
「何にする」と、中年の男が聞いた。
「肉のシチューと、鶏の腿と、パンを二つ」
男がこちらをちらりと見た。「……二つ?」
「一つで」
(しまった。前のノリで頼んだ)
男は何も言わずに引っ込んだ。
シチューが来た。熱かった。鶏の腿は思ったより大きかった。パンは硬めで、シチューに浸して食べるとちょうどよかった。
半分ほど食べたところで、男が横を通りながら言った。
「姉ちゃん、ずいぶんがっつり食べるんだね」
「……よく言われます」
嘘だった。初めて言われた。




