第57話 本物の店
宿に戻る間、フィナは何も言わなかった。
扉が閉まって、路地を抜けて、商人通りを戻って——ずっとフィナが隣にいた。石畳の音だけが続いた。
部屋に入って、椅子に座ったら、何もなかった。何かが来るわけでも、何かが行くわけでもなかった。ただ、そこにいた。
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夜になって、眠れないというより、眠ろうという気が起きなかった。暗い部屋の中で、フィナの息の音がして、窓の外でたまに声がして、それだけだった。
「あなたの居場所を——私が、作ったから。」
その言葉が、暗い部屋の中にまだあった。
あの人だったらなんていうだろう。問いかけても、声は返らなかった。
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三日ほど、宿の部屋にいた。フィナは毎日出かけていって、戻ってきた。客の入りがいいこと、傾いた樽亭に似ているという話が出回っていること、女一人でやっているのに繁盛していること——少しずつ話してくれた。
うまくいっている、という話ばかりだった。
「似ている」というフィナの言葉が、毎日、胸の底に残った。
この街の人たちは、母の店を「いいもの」として受け入れようとしていた。私たちの店に、ただ似ているだけの店を。
私は聞いていた。毎日、聞いていた。
三日目、じっと座っていられなくなった。何か、と思った。何を、まではわからなかった。ただ、聞いているだけでは、いられなくなっていた。
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宿にクレメントさんからの使いだという人が来た。私たちを追って、王都に来たそうだ。その日の夕方、会った。
クレメントさんは、商人通りから少し外れた宿を取っていた。向かい合って座ると、しばらく私の顔を見た。何かを確かめるような見方だった。でも、何も聞かなかった。
「経営者は、マーケタさんのお母さんでした」とフィナが言った。私は聞いていた。
クレメントさんが少し間を置いて、「そうか」と言った。もう一言何かを言おうとして——言わなかった。
それだけで、息が少し楽になった。
フィナが王都でのことをまとめて話して、クレメントさんが聞いていた。「以前お世話になっていた白鹿亭さんの主人に聞いてみたら、似ているお店が結構評判になっているみたいで」。クレメントさんは、そうか、と頷いた。
テーブルの上で、指を組んだ。
毎日、飲み込んできたものが、喉まで来ていた。
私は途中から声が出ていた。いつからかはっきりしなかった。でも、黙っていられなかった。
「本物の店を、出したいと思います」と声に出た。
フィナが、私を見た。
「——王都に」と、続いた。
クレメントさんが頷いた。急かさずに、ちゃんと聞いていた、という頷きだった。
「エストハルトに一度戻る必要があります」。フィナの言葉に、クレメントさんが「そうだな」と言った。「準備ができたら知らせてくれ。王都のことはこちらで動いておく」。フィナが「はい」と応えた。それで決まった。
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宿に戻る道で、フィナが「よかったです」と言った。
何が、とは言わなかった。私も聞かなかった。それでわかった。
——本物の店を出す。それが、母の作った「居場所」を、要らないと言うことなのか。この街がもう「いいもの」だと思いはじめた店を、後から本物で越えられるのか。まだ、どちらも言葉にはしなかった。
石畳の音だけが、続いていた。




