第56話 真珠
眠れなかったわけじゃなかった。ただ、朝になった。
「母だ」という言葉が、昨夜からずっと頭にあった。答えが出るとか出ないとかじゃなくて、ただ、離れなかった。フィナは何も聞いてこなかった。同じ部屋の中で、フィナの息の音がして、窓の外で誰かが話す声がして、荷車の音がして、それで夜が過ぎた。
「ふざけんな」と声を出したことがあった——あの日、傾いた樽亭で母親と向かい合ったとき。あれは私だった。でも今は、「ふざけんな」じゃなかった。怒りというより、何か別のものがあった。名前がつかなかった。
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朝の光が入ってきて、フィナが起き上がる音がして、椀の音がして——でも今日は動けなかった。フィナも何も言わなかった。
しばらくして、「どうしますか」とフィナが聞いた。静かな聞き方だった。
行くかどうか、ということだった。フィナはわかっていた。
少しの間があって、「……行きます」と声に出た。
フィナが、「一緒に行きます」と言った。当然のように言って、外套を手に取った。
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商人通りの手前の路地で、足が遅くなった。止まったわけじゃなかったけれど、歩けなくなった。
フィナが隣に来て、何も言わなかった。しばらく、そのままだった。
それから、また歩いた。
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店はまだ開いていなかった。看板の樽の絵が、朝の光の中にあった。昨日と同じ看板で、同じ造りで、知っている温かさがあった。
扉を叩いた。
間があって、扉が開いた。
母親だった。驚いた顔をしなかった——来ると思っていた、という顔だった。
「……私の真珠」
その名前は、以前にも呼ばれた。傾いた樽亭で向かい合ったあの日にも呼ばれた。でも、あのときは別の誰かが受け取っていた。今は、私が受け取った。同じ名前が、違う場所に届いた感じがした。
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店の中は、まだ誰もいなかった。向かい合って座って、母親が話した。
「この店を作ったら——あなたは来てくれると思ってた。」
「あなたの居場所を——私が、作ったから。」
壁に何も飾っていない理由が、わかった。誰かが来てから飾るつもりだった——私が来てから、ということなんだろう。
「あの店は、あなたが変えたんでしょう」と母親が言って、「だったら——」と続けた。
愛情があるということは、伝わった。嘘を言っていないことも、伝わった。
でも、何かが合わなかった。「あなたの場所」と言いながら、この店の何一つ私の知っているものじゃなかった。私が何を好きかを見て作ったというより、「娘のための場所」という形を先に作って、そこに私をはめようとしている感じがした。体がそう受け取っていた。
声が出なかった。
あの店は、私が変えたわけじゃなかった。でも——私の体が知っていた。石畳の感触も、煙草の匂いも、フィナの声も。あの場所で起きたことが全部、この体にある。
だから「私じゃない」とも言えなかった。「私だった」とも言いきれなかった。息が詰まった。
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「また来てくれるわよね?」と、母親が言った。
——フィナが、私を見た。何か、出てくるかと思った。出てこなかった。
「……考えます」と、フィナが言った。
扉が閉まった。




