第55話 王都の朝
光が差し込んできて、朝だった。
外から声がして、荷車の音がして、王都の朝が動いていて、それはわかったけれど、何をすればいいかが来なかった。
体が動いた。毛布を退けて起き上がって、床が冷たくて、壁の色を確かめて、窓の布が揺れているのを見て、でも次が来なかった。
昨日はあった。あの門をくぐって、フィナが「行きましょう」と言って、石の冷たさが肌に来て——でも今朝は、どこから始めればいいかが出てこなかった。
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フィナが動いていた。椀の音がして、パンの音がして——フィナが出していた音で、テーブルにはいつのまにか朝食が並んでいた。
「マーケタさん、召し上がれますか」
少し間があいてから、「はい」と答えた。よかった、とフィナが言って微笑んで、それだけのことで朝の空気が動いた。
椀の中は薬草茶で、クレメントさんが手配してくれた、とフィナが言って——クレメントさん、と思ったとき、胸の中に温かいものが来て、ただ温かかった。
パンをちぎったら少し温かくて、口に入れたら、ああ、こういうものだった、とだけ思った。
誰かと向かい合って座って食べることも、湯気の立つものを手で持つことも、いつぶりかはわからなかったけれど、体はちゃんと覚えていた。
フィナが今日の段取りを話してくれた。宿の人が親切だったこと、通りがどのくらい混んでいるか、明日の天気のこと——フィナが先に知っていて、それを聞きながら食べていたら、少しだけ朝らしくなってきた。
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マーケタさん、とフィナがまた呼んで——ああ、私のことだ。今度は少しだけ早かった。
クレメントさんから文が届いていました、とフィナが言って、折り畳まれた紙を差し出して、受け取って開いたら、商人通りに傾いた樽亭に似た店がある——そう書いてあって、半年は経つか経たないかというところだろうと。
似た店、という言葉が、少しの間、胸の底にあった。傾いた樽亭のことは知っていた。どんなふうだったか、体が知っていた。似た店が、ここにある。
「行ってみましょうか」とフィナが言った。
行こう、という言葉が自分からは出てこなくて、フィナが先を決めた。
「……行きましょう」と、声に出てから、それが自分のものだとわかった。
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荷物を手にして、外套を羽織って、フィナが扉を開けてくれた。
廊下に出たとき、宿の朝の匂いがして——パンの焼ける匂いと、誰かが話している声と、木の階段の軋む音と。
階段を下りて、宿の扉を押したら、光と声と荷車の音が、一度に来た。
昨日くぐった門から続いている、王都の朝が、ここにもあった。
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商人通りに入ったとき、光が変わって、露店の声がして、荷車が通って、人が行き交って——にぎやかな通りだった。知っているような気もしたけれど、はっきりしなかった。体はわかっていて、でも「前に来た」という記憶の形が出てこなかった。
フィナが隣を歩いていた。少し前のときもあって、少し後のときもあって、ずっとそこにいた。
どこかで、焼いた肉の匂いがした。覚えのある匂いだった。
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看板は樽の絵で、まっすぐな樽の絵だったけれど、見た瞬間に何かが引っかかって、造りが似ていた——扉の位置、窓の高さ、壁の材質、全部が「知っている」感じで、でも、何かが違っていた。似せてあるのに、どこか、空っぽだった。
「……これ、似ていますね」
フィナが、言った。
入り口の前で立ち止まって、こちらを向かずに店を見ながら、「客の配置が、違います」「テーブルの距離も——傾いた樽亭より、少し広い」とフィナが言って、フィナが差を拾っていた。フィナが分析していた。
——フィナが、こんなことができる。
以前は、こういうことをする誰かが別にいた。今は、フィナがそこにいた。
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フィナが隣の店に入っていって、少し待ったら、世間話をするような顔をして出てきた。
「女性が一人でやっているそうです。半年前に開いたと」
それだけだったけれど——店をもう一度見たとき、傾いた樽亭と同じ温かさがあって、でも何かが違った。壁に何も飾られていなくて、傾いた樽亭には客が残していった小物があったのに、ここにはまだ何もなくて、誰かが来てから飾るつもりのような、特定の誰かを待っているような作りだった。うまく言えなかったけれど、ただそう感じた。
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宿に戻る途中、「知っている」という感覚が来た。どこかで見た、ではなかった。誰かを知っている——でも、出てこなかった。
「大丈夫ですか」とフィナが聞いた。「……はい」と答えた。
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夜、クレメントさんから文が届いて、経営者の名前が書いてあって——知っている名前だった。
——あぁ。
あの日、傾いた樽亭で向かい合った。「私の真珠」と呼んだ人の名前だった。
——母だ。




