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傾いた樽と真珠 ~おっさんマーケターが美少女に転生、気がついたらそこは場末の酒場兼娼館だった~  作者: 華雪β
第13章 あなたの場所

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第58話 私たち

——遠くで、誰かが、何かを決めた。


俺は、底にいた。ずっと、底にいた。


体は動かない。声も出ない。何度か試して、無駄だと分かって、やめた。できるのは、見ていることだけだった。


だから、見ていた。この子がフィナと歩くのを。母親と向き合うのを。眠れない夜を。観察だけは、昔から得意だ。手が出せないのだけが、こたえた。


(——手を、貸してやれない)


その底に、声が降りてきた。


「本物の店を出す。」


——ああ、それだ、と思った。


俺が言いそうなことだ。似た店に似た店で返しても、削り合いにしかならない。相手が模倣なら、本物で差す。それしか勝ち筋はない。理屈で言えば、そうだ。


でも、今のは俺の理屈じゃなかった。


この子が、自分で言った。俺の組み立てを借りたわけでもなく、この子の悔しさで、そこまで来ていた。


そうか。


なら、俺のやることはひとつだ。


初めて、こっちから返そうとした。


(——届け)


声になったかは、わからなかった。


---


朝の光が入ってきて、フィナの動く音がして、目が覚めて——ひとりじゃない気がした。


何が、とは言えなかった。ただ、昨日までと違って、暗い部屋の隅のあたりに、あの人の気配が、少しだけ近いところにあった。近くて、あたたかかった。


「今日、行きます」と、声に出た。


フィナが「はい」と言った。どこへ、とは聞かなかった。わかっていた。


母の店へ。もう一度。エストハルトに戻る前に。


---


店はまだ開いていなかった。看板の樽の絵が、朝の光の中にあって、扉を叩くと、間があって、母が出てきた。


私を見て、顔が動いて、「来てくれたのね」と、母が言った。うれしそうだった。嘘じゃなかった。


中に入ると、朝の匂いがして、まだ薄暗くて——半年経つのに、壁には何も飾られていなかった。傾いた樽亭には、客が置いていった小物があった。欠けた木彫り、色のあせた布、誰かの忘れもの。ここには、何もなかった。


毎日、客は来ているはずだった。繁盛している、とフィナが言っていた。それなのに、この店は、来た人の顔を、ひとつも残していなかった。


誰か一人を、待っている店だった。


——私を。


「あなたのための店なの」と、母が言った。「あなたが来てくれたら、あとは好きにしていいのよ。ここを、あなたの場所にして。」


愛情だった。嘘じゃないのも、わかった。


でも、この店は、毎日来てくれる人のほうを、向いていなかった。来るかどうかもわからない一人を、半年、待っていた。


声が出た。今度は、いつからか、じゃなかった。自分で、口を開いた。


「……私のことを、見てから、そう言ってください。」


母が、私を見た。


見ているようで、見ていなかった。前のときと、同じだった。母の目に映っているのは、私じゃなかった。この店が傾いた樽亭に似ているだけなのと、同じ——私に似た、母の思う「娘」だった。


うまく言えない。でも、体が、そう受け取った。


だから、言った。


「私、本物のお店を出します。」


母の顔が、止まった。


傾いた樽亭は、来た人の顔を、覚えていた。ここには、それがない。


「この街に。——ここじゃない、本物を。」


母はしばらく黙って、それから、ぱっと顔を明るくした。「だったら、お母さんが用意してあげる。もっといい場所を、もっといいお店を。あなたは、なにも心配しなくていいから——」


「いいえ。」


自分の声が、こんなに静かなのが、不思議だった。


「お母さんの見ている『娘』は、私じゃない。だから、こことは違う、私たちのお店です。」


母が、何か言おうとして、言わなかった。


「……そうね」と、最後に言った。


わかった、という「そうね」じゃなかった。娘がまた、聞き分けのないことを言っている——そういう「そうね」だった。母は、引かなかった。私も、引かなかった。


「もう、来ません。」


店を出た。今度は、私が、扉を閉めた。


---


フィナが隣にいて、石畳の上を歩いていたら——あの人の気配が、さっきよりも近かった。


——言ったな。


声じゃなかった。でも、そういう感じのものが、届いた。初めて、返ってきた。


俺の声だったのか、自分の声だったのか、わからなかった。どちらでもよかった。二人で、言った。


---


エストハルトに、戻る。準備をして、本物の店を出す。


この街は、もう似ているだけの店を「いいもの」だと思いはじめている。後から本物を出して、越えられるかは、わからなかった。


でも、やる。


「戻りましょう」とフィナが言う前に、「戻ります」と、私から言った。


石畳の音が、二人分、続いていた。


---


> "It is only with the heart that one can see rightly; what is essential is invisible to the eye."

> 「心で見なければ、ものはよく見えない。大切なことは、目には見えないんだ。」

> ― Antoine de Saint-Exupéry


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