第45話 コメンダ
地元の商人と、旅装の男が隣り合わせで話していた。
私はそのやり取りを、少し離れた席から聞いていた。地元の男は、たまに夜に来る顔だった。
「昼、あそこに寄ってきたんですよ」旅の男が言った。「薬草茶を飲みながら話したら——思いがけず荷の段取りがついて」
「傾いた樽亭か。最近よく聞く」地元の男が頷いた。
傾いた樽亭が昼に開いている。そこで取引が動いた。うちの客が昼間に別の場所に行っている。
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以前、一度訪れたことがある。あのときは——今すぐうちと張り合うような力はないと見た。だが将来はわからない。未来の自分への投資として、傘下に取り込もうとした。断られた。だったら、と思い、女中や弦弾きにも声をかけた——相手の勢いをそぐ、それも手の一つだった。
次の手を打つなら早い方がいい。
——それに、あの女中。たしかマーケタとか言ったか。なかなかいい目と頭をしている子だった。彼女は今ごろ何を考えているか。
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翌日、自分で確かめに行くことにした。
昼前に通りを歩いた。扉が開いていた。旅荷を持った男が中に入っていった。見たところ、中はかなり流行っていそうだ。
薬草の匂いが通りに出ていた。
入り口近くに、濃い茶色の髪の女中が立っていた。——あの子だ。以前、引き抜こうとした子だった。やっぱり華がある。引き抜けなかったのは失敗だな。
店の外に人が数人、陶器のカップを手に立っていた。飲み終えた男が女中にカップを返して、通りへ消えた。
思わず、足が止まった。一杯買って口に含んだ。舌の奥が緩んだ——旅の疲れに効く配合なのだろう。よく考えられている。
昼はわかった。夜はどうなっているか。
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夕方を過ぎたころ、改めて傾いた樽亭に入った。
まず、値段が変わっていた。前に来たときよりも値上げしている。それにメニューも質のいいものに変えている。それでも席は七割方埋まっていた。まだ夜は始まったばかりだというのに、と思った。客の顔を見た。旅商人が多い。以前は冒険者や飲んでいるだけの客が混じっていたが、今夜は違う。みんな誰かと静かに話している。
弦の音がしなかった。今日は吟遊詩人はいないのか。それでもこの人の入りか。
端の席に座って麦酒を頼んだ。茶髪の女中が持ってきた。一口飲んだ。
しばらく、見ていた。
昼は旅商人が情報を交わす。夜は話せる場がある。同じ店が時間で二つの顔を持っている。うちでは、これはできない。琥珀館は格を売っている。昼に旅商人が気軽に入れる形にすれば、夜の客が離れる。
だが——それだけではなかった。
今夜の客の顔を、改めて見た。旅商人。今は小さい。荷を背負って街から街へ動いている。だが——こういう者の中から、数年後に大きな取引をする者が出てくる。琥珀館の今の上客も、かつてはそういう顔をしていた。
ここが、その「はじまりの場所」になりつつある。
潰すことも難しい。すでに評判がついている。薬草茶の仕入れ先や調合もわからない。おそらく、周りとの協業もしているのだろう。こういうものは金で追いつけるものではない。
気づいたら、指輪を回していた。
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しばらくして、奥からイルゼが出てきた。遅れてマーケタも。
「また来てくれましたか」
「随分と雰囲気が変わりましたね。それに値上げまで。大変だったでしょう」
「えぇまぁ」
「改めて——傘下に入る気はありませんか。今なら以前よりもいい条件が出せますよ」
「それでも、お断りします」
前と同じだった。
仕方ない、と思った。仕入れルートを押さえる。周りとの関係を崩す。女中たちにももう一度引き抜きをかけてみよう。何なら競合店を近くに出してもいい。支店の形式でならマネできる。明日から手を打つ。金と時間をかければ、できないことではない。
立ち上がって財布を出した。
「あの」
振り返った。マーケタだった。
「一つだけ、よろしいですか」
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少し間があった。
「……どうぞ」
マーケタが、微笑んでいた。「戦争でもしそうな顔してますよ」
私は少し、黙った。
「……そうかもしれませんね」
「傘下には入りません」マーケタが続けた。「でも——win-winにしませんか」
win-win。聞いたことのない言葉だった。
「……どういう意味ですか」
「あ、えっと——一方が勝って一方が負ける、じゃなくて。両方が勝つ、みたいな感じで。食材の仕入れとか、人員のこととか——お互い協力できるところは協力していきませんか」
「なるほど」私は少し間を置いた。そして、試すように聞いた。「金を出す、ということもあり得ますか」
「……ありです。ただ、やり方には口を出さないでください」
「利益は」
「出資の割合に応じて、分ける、というのはどうでしょう」マーケタが言った。少し迷いながら。
出資をする。経営には口を出さない。利益を分配する。指輪が、手の中で温かかった。
座り直して、少し麦酒を飲みながら、冷静に考えた。
潰すことはできるだろう。だがそれには時間がかかる。半年、いや少なくとも一年か。その間にも人を動かし、金を使う。取れる収益より、かかる費用の方が大きくなりそうだ。
そして、仮にこの店を潰しても、似たような店は今後出てきうる。一度成立した商いの形だ。他がマネしない保証はない。
それに——出資すれば、この店が本当に伸びたとき、収益の一部がこちらに入る。潰して何も残らないより、育てて分け前をもらう方が筋がいい。
頭の中で天秤にかけてみる。どちらも、未来の自分への投資だ。だが——乗る方が、得だ。
「コメンダか」
マーケタが少し、目を細めた。「……その名前は知りませんでした」
「出資者が経営に口を出さず、利益の一部をもらう。ここより南の国で、昔からある形ですよ」私は少し間を置いた。「条件を先に置いたのは、賢いやり方でしたね」
イルゼを見た。イルゼは黙っていた。少し、意外そうな顔をしていた。この提案は、イルゼが考えたものではない、と思った。
「わかりました。やってみましょう」
少し間があった。マーケタがまだそこにいた。
「一つ、未来の出資者として言わせてください」
「もっと広い場所に移った方がいい。今の席数では、昼の客が増えたときに回らなくなります。それに立地も。もっと市場に近いほうが、あなたたちのビジネスには向いている」
「……そうですね」
「個室があるとさらにいい。商談を個室でしたい客は必ずいます。昼と夜で使い分ければ、席だけの店とは全然違う」
マーケタが少し頷いた。「出資の中に、場所の手配は入りますか」
「入れましょう。ちょうどいい物件はあります」
私はマーケタの顔を見た。笑みは柔らかかった。だが目が、静かすぎた。
こいつは、ただの女中じゃない。
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帰り際、イルゼと目が合った。
何も言わなかった。この店主は、今夜何かを見た顔をしていた。
私も、見た。
扉を出た。——win-winか。久しぶりに、面白いことを聞いた。




