第38話 強みとは何か
翌朝、イルゼに話した。
カルロが琥珀館で弾くこと。テクラにも声がかかっていたこと。おそらく他にも、まだ気づいていないだけで声をかけられている人がいること。
イルゼは手を止めずに聞いていた。
「カルロは、しょうがないね」
少し間があった。
「テクラは」
「いったん断ったと言っていました。ただ——揺れてはいる」
「そうか」
また間があった。
それから、こちらを向いた。「どうにかしないといけないね」
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考えてきたことを、話した。
客のことを記録に残したい。どんな商売をしているか、何を探しているか、どこへ向かうか。それを手がかりに、話せそうな客に声をかけていく——
「だが、読み書きできるのは私とお前くらいだぞ」
「そうです、だから私が書き留めます」
イルゼの顔を見た。
何か言いたそうだった。口元が、少し動いた。
だが、声にはしなかった。少し間を置いて、「やってみな」と言った。
それだけだった。
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その夜から始めた。
閉店後、女中たちを集めた。今日来た客のこと——商売、行き先、話していたこと——を聞いて、書き付けにまとめた。
それぞれが答えた。テクラはよく覚えていた。
書き付けが、少しずつ埋まっていった。
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三日ほどで、書き付けはそれなりに埋まっていた。
ある夜、片づけが終わる頃にテクラが言った。
「なんか最近……ぎこちなくない、なんか」
「そう、かな」
「うーん」布巾を折り畳む手が動いた。「前はもっと、なんか、自然だった気がして。私だけかな」
「……いや」
テクラが少し手を止めた。「じゃあ、何が変わったんだろ」
答えが、なかった。
テクラは布巾を畳み直して、作業に戻った。
テクラの言葉が、頭から離れなかった。
部屋に戻って、書き付けを読み返した。
「仕入れ商、東の街道へ、小麦」「旅の商人、北へ向かう、毛皮」情報は、ある。
情報を集めることはできた。だが、これを元に、何ができる。客に声をかけることが、本当にできるのか。
まず、誰の情報か、わからない。テクラたちが改まって客の名前を聞くことなんて、ほとんどない。それとなく確かめる方法を考えてみたが——この店で客に名前を聞く自然な口実が、思いつかなかった。仮に名前を知って、客を特定できても、その人の周りのことを俺たちは知らない。だから、せっかく情報を集めても、これを元に声を掛けることができない——
しばらく、書き付けを見つめた。
やめよう。そう決めた。
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次の手が、浮かばなかった。
一度、宿の近くに出向いてみた。旅装の男に声をかけてみようとした。だが——女中が一人で宿まで行って、知らない商人に話しかけるのは、思いのほか難しかった。一言も声をかけずに戻った。
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ある夜、年かさの女中が言いに来た。
「すみません——明日から来られなくなりました」
「どうして急に」
「……家庭の事情で……」
答えを濁された、と感じた。目が、少し横を向いた。
——向こうか。
引き止める言葉が、出てこなかった。
まずい。そう思った。でも、もう、出ていく背中だった。
翌日から、人が一人足りなかった。
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客は、来てくれている。
だが、給仕が回らなかった。杯が空になっても、次が出るまでに間が空く。
自分も動いた。でも、足りなかった。
イルゼが厨房と広間を往復した。何も言わなかった。
売上が落ちた。入りは悪くない。人が足りなかった。
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自分の部屋に戻った。ぬいぐるみたちが、いつも通りに並んでいた。
「やってみな」
イルゼの声が、頭に戻ってきた。
記録は、やめた。次の手が、ない。その間に、人が抜けた。
「何が変わったんだろ」
テクラの言葉が、また浮かんだ。前は、話していた。あの三日は、集めていた。それだけのことが、何かを変えていた。
この店を、何にしようとしていたのか。俺たちの強みは、何だったか。
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> "The greatest danger in times of turbulence is not the turbulence; it is to act with yesterday's logic."
> 「激動の時代に最大の危険は、激動そのものではない。昨日の論理で行動することだ。」
> ― Peter Drucker




