第37話 人が抜けていく
久しぶりに、カルロが来た。
背負い袋を肩に、楽器を抱えて——いつもの席に落ち着いた。
その夜、一曲弾いてもらった。短い曲だった。でも、広間の空気が変わった。商人たちが少し静かになって、それぞれの話に戻っていった。カルロの弦は、相変わらず、部屋の底をゆっくり落ち着かせるような音を出す。
弾き終わった後、隅の席でフィナの話になった。
「元気にしていますよ。文字も少しずつ書けるようになってきました」
そうか。
「最初は心細そうでしたけど。向こうの空気が合っているみたいで——今は、いい顔をしている」
もう一度、そうか、と思った。
帰り支度をしながら、カルロが背負い袋の紐を結び直した。
「ところで、一つ」
少し、間があった。
「琥珀館から声がかかって。明日、一曲やることになりました」
こちらを、ひと呼吸だけ見た。
「ここだけの話——私だけじゃなく、他の弦弾きにも声をかけているみたいで。あなたには言っておこうと思って」
何も、言えなかった。
カルロは背負い袋を肩にかけて、出ていった。
気を遣ってくれた。わかっている。だが——それで変わるものは、何もない。いい弦弾きほど、いい舞台に流れる。それを止める仕組みが、うちにはない。
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閉店後、片づけをしていると、こちらをちらちら見ている目線に気づいた。
「マーケタ、少しいいかな」
声をかけてきたのはテクラだった。フィナが抜けた穴を埋めるために、イルゼが雇った子で、来てもう三ヵ月ほどになる。年が同じこともあり、今では気軽に声をかける仲になっていた。
「珍しいね、どうしたの」
「ちょっと相談したいことがあって。あとで部屋に来てくれるかな」
「わかった」
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片づけを終えて、テクラの部屋を訪ねた。この部屋に来るのは、フィナが使っていた頃以来だった。
扉を開けると、テクラはベッドの端に腰を下ろして、膝の上で手を組んでいた。
「どうしたの、改まって。何かあった?」
「うーん、ちょっとね……実は——琥珀館から、声がかかってさ」
少し間があった。
「給料、今より一割増しで、って。いったん断ったんだけど——まだちょっと揺れてて」
——驚いた。テクラにそんな話が来るなんて。動揺が声に出ないよう、落ち着いた声で返した。
「どうして断ったの」
テクラは少し考えた。
「友達が、あそこで働いてて」
「どうなの、って聞いたら——なんか、おもしろくない、って言ってて」
「おもしろくない」
「うん。仕事してる感じがしない、みたいな。飾ってるだけ、って」
テクラが膝の上で手を組み直した。
「私、今の仕事おもしろいんだよね。だからなんか……あっちに行ったら同じになるのかなって。でも、何がそんなに違うのか、うまく言えなくて」
「うちと、琥珀館と、何が違うと思う」
「んー」テクラが首をかしげた。「なんか、こっちは……喋っていい感じ、しない?客と。向こうはそういう感じじゃない、って友達が言ってて」
喋っていい感じ。
琥珀館の女たちを、思い出した。壁際に並んで、声をかけられるのを待っていた。客が「所有する」場だから、女が先に動かない。
うちは、違う。テクラは先に声をかける。わざとやっているわけじゃない。それが、この店の空気になっていた。
「——ここでは、あなたが先に声をかけていい。だから客が話す。向こうに行ったら、それができなくなる」
テクラが、ぽかんとした顔をした。それから少し経って、クスッと笑った。「——あ、そっか。向こうに行ったら黙ってなきゃいけないじゃんね。それが嫌なんだ、たぶん」
「……じゃあ、断ったほうがいいのかな、やっぱり」
「テクラが決めることだよ」
「……そうだね」
「なんか、すっきりした。ありがとう」
少し、息をついた。
部屋を出た。
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自分の部屋に戻った。今日は、いろいろあった。
カルロも、テクラも。
カルロが言っていた、他にも声をかけていると。そしてテクラにも声がかかっている。おそらく、他にも声をかけられている人はいるのだろう。まだ俺が気づいていないだけで。
そして中には、一割の差で、動く人も出てくるだろう。一割の差は、確実に、そこにある。
だが——クレメントは、なぜ、ここまで動く。弦弾きに声をかけ、女中を引き抜こうとする。あの余裕の男が、なぜここまで露骨な手を打ってくる。どう考えても、「らしく」ない。——何かに、焦っているような。
——半分は、当たっています。
「この先の話」——そうだった。もしかすると、俺が思っている以上に、クレメントは傾いた樽亭を脅威に思っているのかもしれない。なぜだ。
——うちの客には、あの男が欲しい何かがある。それが何なのか、まだ見えない。




