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傾いた樽と真珠 ~おっさんマーケターが美少女に転生、気がついたらそこは場末の酒場兼娼館だった~  作者: 華雪β
第8章 差を知る、核が抜ける、強みを問う

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第36話 元手

「本日は、お招きいただき、ありがとうございます」


こちらから、口を開いた。これ以上、数えられてやる気はなかった。


「マーケタと申します」


クレメントの眉が、わずかに動いた。こちらから名乗るとは、思っていなかったのかもしれない。


立ったまま、こちらを見下ろしている。——その位置を、譲ってやる気もなかった。


「立ったままでは、なんですから」向かいの椅子を、手で示した。「よろしければ、おかけになりませんか」


招かれた側が、招く。場の主みたいな顔で。我ながら、図々しい。


クレメントは、一瞬、間を置いた。それから、声を立てずに笑って、向かいに腰を下ろした。親指が、琥珀の指輪を回しはじめる。


「——面白いお嬢さんだ」


先手は、取れた。一手だけは。


---


「ところで」


クレメントが、こちらを見た。


「数えていらしたでしょう」


「卓の数。埋まっている卓。壁際の女の数。給仕の数。——順に、目で追っておられた」


あの視線だ。気のせいでは、なかった。


数えているところを、数えられていた。背に、薄く汗がにじむ。顔には出さなかった——つもりだった。


「いい目だ」クレメントは、咎める色もなく言った。「それで、何が見えました」


試されている。だが、ここで黙るのは、また数えられる側に戻ることだ。


「卓は、半分ほどしか埋まっておりません」私は言った。「それでも、寂れては見えない。詰めれば、もっとお客を入れられるはずです。けれど、入れない。——その空きを、ゆとりに見せている」


「ほう」


「お酒も、お料理も、見せるための出し方。お客様は、喉や空腹のためにいらしているのではありません。ここに居られること——それに、払っている」


クレメントの親指が、指輪の上を、ひとつ撫でた。


それから、笑った。心底、楽しそうだった。


「お見事」


---


「全部、当たっています」クレメントは杯を、ゆっくりと回した。「一度来ただけで、そこまで読む。たいしたものだ」


褒められている。なのに、嫌な予感がした。


「だからね、お嬢さん。——その仕掛けは、全部、真似できるんですよ」


意味が、すぐには入ってこなかった。


「卓を空ける。酒を見せる。女を黙らせて、壁際に並べる。やろうと思えば、明日からでも、お宅でできる。何も、難しくない」


その通りだった。見抜いたものは、どれも、手順だ。手順なら、なぞれる。


「では、なぜ、お宅にはできないか」


クレメントは、こちらへ、指輪を向けた。蜜色の石が、惜しみない灯りを、たっぷりと返した。


「これですよ」


「この石も、この館も、あの楽団も。——昨日今日で、揃うものじゃない。何十年とかけて、金を積んで、客を選んで、ようやくここにある。仕掛けは真似できても、これは、真似できない」


「お宅が同じように卓を空けても、ここにはならない。」


……うちがマネをしても、ただ、客の入らない、寂れた店になるだけだろう。


返す言葉が、なかった。


数えに来た。読み切った。当たっていた。——なのに、当たっていたことが、そのまま、勝てない理由になった。


---


「だから、お嬢さん」クレメントは、声を、少しやわらげた。「お宅も、こちら側へ来ればいい。傘下に入れば、後ろ盾も、楽団も、回せる。——あの話は、まだ、生きていますよ」


傘下。あの夜、イルゼが断った話だ。やわらかい誘いの顔をして、断れば、どうなるのか。


——うちの弦弾きに声をかけていたのは、クレメントだ。


そこで、ひとつ、引っかかった。問うてみることにした。先手の、二手目だ。


「ひとつ、わからないことがございます」


「そちらと、私どもとでは、客層が違いすぎます。今いらっしゃるお客様は、ほとんど重なりません。——それなのに、なぜ、そこまで、私どものことを、気にかけていらっしゃるのですか」


クレメントは、すぐには答えなかった。


「わかりませんか」


すぐには、わからなかった。客は、かぶらない。今の損得では、説明がつかない。


「……今ではなく、この先の話、ということですか」


クレメントの親指が、止まった。


「——半分は、当たっています」


指輪を、ゆっくりと回した。


「まあ、考えてみてください。今日は楽しかったですよ、マーケタさん」


「……ありがとうございます。本日は、勉強になりました」


私は、立ち上がった。


クレメントは、引き止めなかった。満足そうに、指輪を回した。最後まで、余裕を崩さなかった。


「それは、何より。——お宅の店主にも、よろしく」


---


門を出ると、日は、とっぷり暮れていた。


来たときと、同じ道を、戻った。石畳が、ぬかるみに変わる。すれ違う人間の、靴の質が、下がっていく。消えていた臭いが、また、戻ってくる。


数える側に回ったつもりだった。


最初から最後まで、数えられていたのは、こっちだった。


前の人生の上司みたいだ、と思った。——分厚い壁だ。だが、越えなければ、先がない。


---


店に戻ると、イルゼが、まだ起きていた。


借りた服を脱いで、たたんで、返した。イルゼは、黙って受け取った。何も、聞かなかった。


それでも、こちらを見ていた。


「……勝てません」私は言った。「今のままじゃ」


イルゼは、うなずきもしなかった。たたんだ服を、棚の奥へ、そっとしまった。


「そうかい」


それだけだった。


灯りを落とした部屋に戻る。ぬいぐるみたちが、いつも通りに並んでいた。


勝てない。あの仕掛けを真似ても、琥珀館にはなれない、ともわかった。


だが——真似たい、とも思わなかった。うちには、向こうにないものがある。——何かが。


「半分は当たっています」という言葉が、耳に残っていた。残り半分が、何なのか。——答えは、まだ出てこない。それでも、頭の奥で、何かが回りはじめていた。久しぶりの感覚だった。


その夜は、なかなか寝つけなかった。——悪い気分では、なかった。

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