第36話 元手
「本日は、お招きいただき、ありがとうございます」
こちらから、口を開いた。これ以上、数えられてやる気はなかった。
「マーケタと申します」
クレメントの眉が、わずかに動いた。こちらから名乗るとは、思っていなかったのかもしれない。
立ったまま、こちらを見下ろしている。——その位置を、譲ってやる気もなかった。
「立ったままでは、なんですから」向かいの椅子を、手で示した。「よろしければ、おかけになりませんか」
招かれた側が、招く。場の主みたいな顔で。我ながら、図々しい。
クレメントは、一瞬、間を置いた。それから、声を立てずに笑って、向かいに腰を下ろした。親指が、琥珀の指輪を回しはじめる。
「——面白いお嬢さんだ」
先手は、取れた。一手だけは。
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「ところで」
クレメントが、こちらを見た。
「数えていらしたでしょう」
「卓の数。埋まっている卓。壁際の女の数。給仕の数。——順に、目で追っておられた」
あの視線だ。気のせいでは、なかった。
数えているところを、数えられていた。背に、薄く汗がにじむ。顔には出さなかった——つもりだった。
「いい目だ」クレメントは、咎める色もなく言った。「それで、何が見えました」
試されている。だが、ここで黙るのは、また数えられる側に戻ることだ。
「卓は、半分ほどしか埋まっておりません」私は言った。「それでも、寂れては見えない。詰めれば、もっとお客を入れられるはずです。けれど、入れない。——その空きを、ゆとりに見せている」
「ほう」
「お酒も、お料理も、見せるための出し方。お客様は、喉や空腹のためにいらしているのではありません。ここに居られること——それに、払っている」
クレメントの親指が、指輪の上を、ひとつ撫でた。
それから、笑った。心底、楽しそうだった。
「お見事」
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「全部、当たっています」クレメントは杯を、ゆっくりと回した。「一度来ただけで、そこまで読む。たいしたものだ」
褒められている。なのに、嫌な予感がした。
「だからね、お嬢さん。——その仕掛けは、全部、真似できるんですよ」
意味が、すぐには入ってこなかった。
「卓を空ける。酒を見せる。女を黙らせて、壁際に並べる。やろうと思えば、明日からでも、お宅でできる。何も、難しくない」
その通りだった。見抜いたものは、どれも、手順だ。手順なら、なぞれる。
「では、なぜ、お宅にはできないか」
クレメントは、こちらへ、指輪を向けた。蜜色の石が、惜しみない灯りを、たっぷりと返した。
「これですよ」
「この石も、この館も、あの楽団も。——昨日今日で、揃うものじゃない。何十年とかけて、金を積んで、客を選んで、ようやくここにある。仕掛けは真似できても、これは、真似できない」
「お宅が同じように卓を空けても、ここにはならない。」
……うちがマネをしても、ただ、客の入らない、寂れた店になるだけだろう。
返す言葉が、なかった。
数えに来た。読み切った。当たっていた。——なのに、当たっていたことが、そのまま、勝てない理由になった。
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「だから、お嬢さん」クレメントは、声を、少しやわらげた。「お宅も、こちら側へ来ればいい。傘下に入れば、後ろ盾も、楽団も、回せる。——あの話は、まだ、生きていますよ」
傘下。あの夜、イルゼが断った話だ。やわらかい誘いの顔をして、断れば、どうなるのか。
——うちの弦弾きに声をかけていたのは、クレメントだ。
そこで、ひとつ、引っかかった。問うてみることにした。先手の、二手目だ。
「ひとつ、わからないことがございます」
「そちらと、私どもとでは、客層が違いすぎます。今いらっしゃるお客様は、ほとんど重なりません。——それなのに、なぜ、そこまで、私どものことを、気にかけていらっしゃるのですか」
クレメントは、すぐには答えなかった。
「わかりませんか」
すぐには、わからなかった。客は、かぶらない。今の損得では、説明がつかない。
「……今ではなく、この先の話、ということですか」
クレメントの親指が、止まった。
「——半分は、当たっています」
指輪を、ゆっくりと回した。
「まあ、考えてみてください。今日は楽しかったですよ、マーケタさん」
「……ありがとうございます。本日は、勉強になりました」
私は、立ち上がった。
クレメントは、引き止めなかった。満足そうに、指輪を回した。最後まで、余裕を崩さなかった。
「それは、何より。——お宅の店主にも、よろしく」
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門を出ると、日は、とっぷり暮れていた。
来たときと、同じ道を、戻った。石畳が、ぬかるみに変わる。すれ違う人間の、靴の質が、下がっていく。消えていた臭いが、また、戻ってくる。
数える側に回ったつもりだった。
最初から最後まで、数えられていたのは、こっちだった。
前の人生の上司みたいだ、と思った。——分厚い壁だ。だが、越えなければ、先がない。
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店に戻ると、イルゼが、まだ起きていた。
借りた服を脱いで、たたんで、返した。イルゼは、黙って受け取った。何も、聞かなかった。
それでも、こちらを見ていた。
「……勝てません」私は言った。「今のままじゃ」
イルゼは、うなずきもしなかった。たたんだ服を、棚の奥へ、そっとしまった。
「そうかい」
それだけだった。
灯りを落とした部屋に戻る。ぬいぐるみたちが、いつも通りに並んでいた。
勝てない。あの仕掛けを真似ても、琥珀館にはなれない、ともわかった。
だが——真似たい、とも思わなかった。うちには、向こうにないものがある。——何かが。
「半分は当たっています」という言葉が、耳に残っていた。残り半分が、何なのか。——答えは、まだ出てこない。それでも、頭の奥で、何かが回りはじめていた。久しぶりの感覚だった。
その夜は、なかなか寝つけなかった。——悪い気分では、なかった。




