第35話 琥珀館へ
あの夜から、何日か経っていた。
戸を下ろしたあと、イルゼのところへ行った。
「明日、琥珀館に行こうと思います」
イルゼは、すぐには答えなかった。手を止め、こちらを見た。それから奥へ引っ込み、たたんだ服を手に戻ってきた。
「だったら、これを着ていきな」
受け取ると、思っていたより軽かった。女物の服だった。派手ではないが、安くもない。装飾は、何もついていない。堅実な家の娘が、よそ行きに着るような服だ。折り目が、古い。長くしまわれていたものなのだろう。
(これは)
王都で教師をしていた女がいて、娘が一人いた。十五で家を出て、この店で死んだ。残ったのは、布の人形が一つ。——イルゼの口から、聞いていた。
その娘の服を、今、俺は手にしている。
止めすぎて娘を失った女が、その服を、俺に着せて送り出そうとしている。今度は、止めずに。
口にはしなかった。イルゼも、何も言わなかった。
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袖を通した。
丈は、ほとんど直す必要がなかった。
銅板に映してみる。きつそうな目をした、銀髪の娘が、こちらを見返していた。けれど、服のせいか、いつもより少しだけ、角が取れて見えた。
派手な娼婦の着付けでも、貴族のひけらかしでもない。
これでいい、と思った。
向こうで、足元を見られたくはない。売り物でも、雇われ女でもなく、格のある、よその店の人間——そう見えればいい。金では張り合えないが、これなら、張り合わなくていい。
最後に、装飾品はつけないことにした。
つけるほど、安く見える。この体に、いちばん利くのは、服でも飾りでもない。
背を伸ばしてみる。手を、軽く前で重ねる。——その置きどころを、この体が、勝手に知っていた。俺が覚えたものじゃない。この子が、貴族の娘だった頃に、嫌というほど叩き込まれた所作だ。
家が傾いて、売られて、ここまで来た。それでも、体に染みついた躾だけは、抜けていなかった。
「——行ってきます」
イルゼは、うなずいた。それだけだった。
借りた服と、借りものの所作だけ持って、出た。
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通りを、いくつも抜けた。日が、傾きはじめていた。
近づくにつれ、街の顔が変わっていった。ぬかるんだ地面が、いつのまにか石畳に変わる。路肩の溝から、饐えた臭いが消える。物乞いの姿が、なくなる。すれ違う人間の、靴の質が上がっていく。
その一角に、琥珀館はあった。
門からして、違った。うちの看板は、傾いた樽が一つ、板に塗ってあるだけ。色も褪せて、輪郭も甘い。絵師に頼んだものじゃない。こちらは、蜜色の石を抱いた女が、金の縁取りの中で微笑んでいた。絵師に、相応の銭を払っている。
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ここまでは、前にも来たことがあった。
店のことを考えるうち、何度か足が向いた。けれど、いつも門の手前までだった。戸口の脇に、門番が立っている。近づくと、こちらを見た。値踏みする目だった。お前の来る場所ではない、と。声をかけられるより先に、踵を返していた。
今日は、違った。門番は、俺の服を一瞥すると、すっと視線を外した。通っていい客だと、判じた。それだけだった。
服一枚で、門が開いた。
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中へ入った。
広間を見た瞬間、息が、わずかに詰まった。
灯りの量が、違う。外はもう暮れかけているのに、蝋が、惜しみなく灯されている。昼かと、見まがうほどだ。壁の高いところには、窓があった。布張りでも、鎧戸でもない。透き通った硝子が嵌まっている。揺れる蝋の灯を、内に閉じこめて、ほのかに光っていた。天井が高い。磨かれた床の木が、その明るさを深く沈めていた。
脂と饐えた汗の臭いも、しない。花か、香草か——焚きしめたものが、低く漂っている。
話し声まで、まろやかだった。誰も、がなり立てていない。笑い声さえ、角が取れている。その底に、楽の音が流れていた。
驚いた。この世界に来て、ちゃんとした音楽を聴いたのは、初めてだった。ハープと、ヴァイオリン。弾き手は三人、互いの音を聴き合って、調子も拍も、きれいに揃っている。流れの吟遊詩人ではない。この店に抱えられた、専属の楽士だ。
うちに来るのは、流れの弾き手が一人。ここは、楽団を抱えていた。
格が、違った。五感で、それを浴びた。
——飲まれそうになった。
そこで、息を整えた。
いつか、こういう目で見られたことがあった。うちの店の、あの夜。卓の数を、客の数を、女中の動きを、順に数えていく男の目。あのとき、俺は数えられる側だった。
なら今度は、数える側だ。
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給仕の女が、寄ってきた。一人で来た女を、咎める色は、なかった。卓へ、流れるように案内される。腰を下ろすと、葡萄酒を一杯だけ頼んだ。
運ばれてきた杯は、透き通った硝子だった。うちの木の杯でも、錫の器でもない。中で、酒の色が、揺れて見える。
それに口をつけるふりをしながら、卓に着いたまま、一つずつ、分解していった。
まず、数えた。卓の数。埋まっている卓。広間に控える女の数。給仕の数。——目につくものから、順に頭の中へ置いていく。
外はもう暮れかけているのに、卓は、半分ほどしか埋まっていない。うちなら、まずい入りだ。卓が空けば、間が抜ける。場が、白ける。
なのに、ここは、寂れて見えなかった。
卓と卓の間が、広い。詰めればもっと客を入れられる。入れない。その空きが、ゆとりに見える。ゆとりが、格に見える。
酒の出し方が、芝居がかっていた。栓を抜く前に、瓶の腹を客に見せる。銘柄を、読ませる。注ぐ音を、わざと聞かせる。料理も、同じだった。白く焼かれた陶の皿に、肉が扇のように切り分けられ、彩りの草が添えてある。盛りは、多くない。腹を満たすためではなく、見せるための皿だ。
ここの客は、酒にも料理にも、金を払ってなどいない。喉の渇きや、腹の足しに来てなどいない。
ここに居られる、ということに払っている。隣の卓の男より、いい席に、いい女に、いい酒に囲まれている——その眺めに、払っている。
見栄だ。見栄を、張り合う場所だ。
そこまで読んで、背筋が、少し寒くなった。うまい。恐ろしく、うまい。
ふと、どこからか視線を感じた気がして顔を上げたが、こちらを見ている者は、いなかった。
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女たちのことも、その目で見た。
壁際に、何人も控えている。呼ばれるまで、動かない。指させば、寄る。目は伏せ、声は低い。自分から、口を開かない。
これも、同じだった。客は「いい女を侍らせている自分」を買いに来る。なら女は、美しく、静かに、そこに在ればいい。下手に動けば、眺めが崩れる。卓や酒と、扱いは変わらない。この店なら、こうするのが正しい。——頭では、よくできている、と思う。
だが——うちの女中は、こうじゃない。
自分から客に話しかける。客と客を、繋ぐ。動き回る。ここの物差しでいけば、ただの無作法だ。
なら、うちも、女中を黙らせて、壁際に並べたほうがいいのか。
そこだけは、すぐに頷けなかった。理由は、まだ言葉にできない。
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そのときだった。
「こんばんは、お嬢さん」
背後から、声がした。振り返らなくても、わかった。あの夜、隅の卓から店を数えていた男だ。
ゆっくりと、振り返る。仕立てのいい上着。三十代の後半。その手の親指が、琥珀の指輪を、ゆっくりと回していた。蜜の色をした石が、惜しみない灯りを、たっぷりと返している。
クレメントだった。
「お見えになるとは、思っていました。お声がけしたのは、私ですから」
そこで、薄く笑った。
「ただ——お一人とは。てっきり、店主の方とご一緒かと思っていました」
親指が、また指輪を回す。
「随分と、信頼されているんですね。驚きです」
それから、こちらの装いを、上から下へ、ひと撫でするように見た。
「いいお召し物だ。よく、お似合いです」
数えに来たはずだった。
なのに——先に、数えられていた。




