第34話 傘下提案
イルゼは、すぐには答えなかった。
それから、こちらを見た。目で、合図した。残れ、という意味だと、わかった。
近くの卓に酒を出してから、戻った。クレメントの卓の、少し後ろに立った。
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「狭いところですが」
イルゼが、向かいに腰を下ろした。
「手短に願います。営業中なので」
「ええ、もちろん」
クレメントは、杯を脇へ寄せた。両手を、卓の上で軽く組んだ。
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「良い変え方をされましたね」
クレメントが言った。
「この街で、酒場に弦弾きを置く店は、そうない。荒い客を追い出すのではなく、自分から出ていくように仕向ける。——面白い判断です」
イルゼは、短く返した。「客が、喜ぶようにしただけです」
「ご謙遜を」
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クレメントの目が、広間を一度なでた。
「これから、どう広げていくおつもりで」
「さあ」イルゼは、表情を変えなかった。「そこまで、考えちゃいません」
「そうですか」
クレメントは、薄く笑った。信じていない笑い方だった。
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クレメントが、少し声を落とした。
「単刀直入に申します」
間を、置いた。
「うちの傘下に、入っていただけませんか」
イルゼは、答えなかった。
「後ろ盾も、つけられます。腕のいい弦弾きも、回せる。この店は、今のままでも伸びるでしょう。だが、うちと組めば——もっと早い」
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イルゼは、しばらく卓の木目を見ていた。
それから、顔を上げた。
「ありがたい話です」
「ですが、お断りします」
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クレメントは、驚かなかった。
むしろ、楽しそうだった。親指で、琥珀の指輪を回した。
「即答ですか」
「うちは、うちのやり方でやります」イルゼの声は、低かった。「誰かの下では、この店は変わらない」
「——なるほど」
クレメントは、ゆっくりと立ち上がった。
「今日は、いいものを見せてもらいました」
それから、イルゼに向き直った。
「次は、ぜひうちへ。歓迎しますよ」
扉のほうへ歩きかけて、足を止めた。隅で弦を爪弾く男の、前だった。
しばらく、聞いていた。それから、何か短く声をかけた。聞き取れなかった。
弦弾きが、顔を上げた。手は止めなかったが、目だけが、クレメントの背を追っていた。
扉が閉まった。広間の音が、戻ってきた。
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その夜、客がはけて、戸を下ろした。
イルゼが、卓を一つずつ布巾で拭いていた。
「さっきの、琥珀館、というのは」
声に出していた。
イルゼは、手を止めずに言った。
「——この街で、一番上の店だよ。客も、格も」
「うちみたいな店に、あの店の人間が来ること自体、本当ならありえない」
それだけ言って、また手を動かした。
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杯を片づけながら、さっきの男のことを考えた。
俺の設計を、一目で見抜いた。隠していたつもりの手の内を、初対面で言い当てた。
後ろ盾。腕のいい弦弾き。——こちらが、まだ持っていないもの。
怖いか、と自分に聞いた。
少し。
だが、それより——見たかった。
あの男が「うち」と呼んだ店を。そして、その店の人間がわざわざ足を運ぶほどに変えたこの店が、どこまで行けるのかを。
向こうは、この店を値踏みしに来た。なら、こっちが値踏みし返す番だ。
きっかけが足りない、と思っていた。
きっかけは、向こうから歩いてきた。今、扉を開けて、出ていった。
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イルゼは、まだ卓を拭いていた。
その背中に、声をかけた。
「イルゼさん」
「ん」
手は、止まらなかった。
「琥珀館、見に行ってみませんか」
手が、止まった。
イルゼは、振り返らなかった。少し間を置いて、また布巾を動かしはじめた。
「行って見てきな。私はいい」
「そういう目利きは、あんたのほうが得意だろ」
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灯りを落とした広間は、静かだった。
拭き上げられた卓が、鈍く艶を返していた。
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> ― Jack Trout




