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傾いた樽と真珠 ~おっさんマーケターが美少女に転生、気がついたらそこは場末の酒場兼娼館だった~  作者: 華雪β
第7章 手紙と過去と、やってくる男

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第34話 傘下提案

イルゼは、すぐには答えなかった。


それから、こちらを見た。目で、合図した。残れ、という意味だと、わかった。


近くの卓に酒を出してから、戻った。クレメントの卓の、少し後ろに立った。


---


「狭いところですが」


イルゼが、向かいに腰を下ろした。


「手短に願います。営業中なので」


「ええ、もちろん」


クレメントは、杯を脇へ寄せた。両手を、卓の上で軽く組んだ。


---


「良い変え方をされましたね」


クレメントが言った。


「この街で、酒場に弦弾きを置く店は、そうない。荒い客を追い出すのではなく、自分から出ていくように仕向ける。——面白い判断です」


イルゼは、短く返した。「客が、喜ぶようにしただけです」


「ご謙遜を」


---


クレメントの目が、広間を一度なでた。


「これから、どう広げていくおつもりで」


「さあ」イルゼは、表情を変えなかった。「そこまで、考えちゃいません」


「そうですか」


クレメントは、薄く笑った。信じていない笑い方だった。


---


クレメントが、少し声を落とした。


「単刀直入に申します」


間を、置いた。


「うちの傘下に、入っていただけませんか」


イルゼは、答えなかった。


「後ろ盾も、つけられます。腕のいい弦弾きも、回せる。この店は、今のままでも伸びるでしょう。だが、うちと組めば——もっと早い」


---


イルゼは、しばらく卓の木目を見ていた。


それから、顔を上げた。


「ありがたい話です」


「ですが、お断りします」


---


クレメントは、驚かなかった。


むしろ、楽しそうだった。親指で、琥珀の指輪を回した。


「即答ですか」


「うちは、うちのやり方でやります」イルゼの声は、低かった。「誰かの下では、この店は変わらない」


「——なるほど」


クレメントは、ゆっくりと立ち上がった。


「今日は、いいものを見せてもらいました」


それから、イルゼに向き直った。


「次は、ぜひうちへ。歓迎しますよ」


扉のほうへ歩きかけて、足を止めた。隅で弦を爪弾く男の、前だった。


しばらく、聞いていた。それから、何か短く声をかけた。聞き取れなかった。


弦弾きが、顔を上げた。手は止めなかったが、目だけが、クレメントの背を追っていた。


扉が閉まった。広間の音が、戻ってきた。


---


その夜、客がはけて、戸を下ろした。


イルゼが、卓を一つずつ布巾で拭いていた。


「さっきの、琥珀館、というのは」


声に出していた。


イルゼは、手を止めずに言った。


「——この街で、一番上の店だよ。客も、格も」


「うちみたいな店に、あの店の人間が来ること自体、本当ならありえない」


それだけ言って、また手を動かした。


---


杯を片づけながら、さっきの男のことを考えた。


俺の設計を、一目で見抜いた。隠していたつもりの手の内を、初対面で言い当てた。


後ろ盾。腕のいい弦弾き。——こちらが、まだ持っていないもの。


怖いか、と自分に聞いた。


少し。


だが、それより——見たかった。


あの男が「うち」と呼んだ店を。そして、その店の人間がわざわざ足を運ぶほどに変えたこの店が、どこまで行けるのかを。


向こうは、この店を値踏みしに来た。なら、こっちが値踏みし返す番だ。


きっかけが足りない、と思っていた。


きっかけは、向こうから歩いてきた。今、扉を開けて、出ていった。


---


イルゼは、まだ卓を拭いていた。


その背中に、声をかけた。


「イルゼさん」


「ん」


手は、止まらなかった。


「琥珀館、見に行ってみませんか」


手が、止まった。


イルゼは、振り返らなかった。少し間を置いて、また布巾を動かしはじめた。


「行って見てきな。私はいい」


「そういう目利きは、あんたのほうが得意だろ」


---


灯りを落とした広間は、静かだった。


拭き上げられた卓が、鈍く艶を返していた。


---


> "Differentiate or die."

> 「差別化せよ。さもなくば、死ぬ。」

> ― Jack Trout


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