第33話 その夜の客
イルゼの部屋を出てから、数日が過ぎた。
王都へは、行かなかった。手紙を、もう一度読み返した。それから、仕事に戻った。
客のことは、わかっていたつもりだった。何を出せば通うか、どこを直せば増えるか。
だが、名前は知らなかった。すぐ隣にいる人間の名前すら。
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夜の広間は、半年前とは違っていた。
隅で、旅の吟遊詩人が弦を爪弾いていた。客はそれを、邪魔そうにはしなかった。耳を傾ける者もいた。
評判は、少しずつ出てきている。「あの店、変わったらしい」——そういう声が、商人の口から漏れるようになった。吟遊詩人が、足を止めるようになった。
それでも。
卓のいくつかには、昔ながらの客がいた。声が大きい。酒の飲み方が荒い。女中の腰に手を伸ばしかけて、舌打ちして引っ込める。
まだ、変わりきってはいない。
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値を上げれば、こういう客は自然に来なくなる。来なくなれば、店は次の段へ進む。
そのトリガーを、俺が作る——イルゼには、そう言った。
だが、まだ作れていない。きっかけが、足りない。
杯を運びながら、そんなことを考えていた。
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扉が開いた。
一人の男が入ってきた。
旅装ではなかった。荒くれでもなかった。仕立てのいい上着を、着崩さずに着ていた。歳は、三十代の後半か。
男は広間を、ゆっくりと見回した。
その目を見て、手が止まった。
客の目では、なかった。酒を探す目でも、女を探す目でもない。卓の並びを、客の数を、女中の動きを——順に、確かめている。
数えている。
こういう目を、俺は知っている。客の目じゃない。店を値踏みする目だ。前の人生で、俺も同じ目で、よその店を見ていた。
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男は、隅の卓に腰を下ろした。
酒を頼んだ。だが、すぐには飲まなかった。杯を手の中で回しながら、また店を見ていた。
弦の音のほうに、目を向けた。少しだけ、何かを考える顔をした。
(何を、見ている)
近くの卓に酒を運ぶふりをして、そばを通った。
杯を持つ手に、琥珀の指輪が一つ。蜜の色をした石が、灯りを鈍く返していた。
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隣の卓には、近ごろ通うようになった商人が座っていた。来るたびに弦弾きを褒めていく、機嫌のいい男だった。その商人に、男が何か声をかけた。
「いい弦弾きですね。こういう店で聞けるとは、思いませんでした」
商人が機嫌よく応じた。「でしょう。最近この店、評判でね」
「ええ」男は杯を傾けた。「弦の一つで、客が変わるものです。荒い手合いは、ああいう静かな音を嫌いますから。——居心地が悪くなって、自然と足が遠のく。そういう狙いでしょう」
商人は、半分も聞いていなかった。「さあ、どうですかねえ」
だが。
杯を片づけていたイルゼの手が、止まった。
そして、俺の手も止まっていた。
それは、俺が考えたことだった。誰にも言っていない、店の中だけの設計だった。
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イルゼが、卓のほうへ動きかけた。
それより先に、俺が動いていた。
男の前に立った。
「お客さん。どちらから、いらしたんですか」
広間の音が、少しだけ遠のいた気がした。
男は、慌てなかった。杯を置いた。こちらを見上げて、薄く笑った。
「ご挨拶が遅れました」
ゆっくりと立ち上がった。親指で、琥珀の指輪を回した。
「琥珀館の、クレメントと申します」
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琥珀館。
聞いたことのない名だった。だが、イルゼの顔を見て、わかった。
名を聞いても、表情は動かなかった。動かさないように、こらえている顔だった。
これは——知っている名だ。
ただの客じゃない。そして、ただの店でもない。イルゼが、あの顔をするほどの店だ。
クレメントと名乗った男は、こちらを見た。それから、イルゼを見た。
「少し、お話をさせていただけませんか」




