第32話 クラーラのこと
「こんな話をするのは——初めてなんだが」
少し間があった。イルゼは机の端を、静かに見ていた。
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王都で、教師をしていた。商人や騎士の家の子どもに、読み書きと計算を教えていた。
クラーラは一人娘で、父親はいなかった。
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娘にも同じことを教えた。読み書きと計算を。でも、生徒に教えるようにはいかなかった。
危ないことをすれば止めた。よくない連中と遊べば止めた。やろうとすることに、反対ばかりした。
止めすぎた——それが今は、わかる。
わかるのが、遅すぎた。
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十五のとき、クラーラは出ていった。扉が閉まった。
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何年かが過ぎた。
教え子の商人が王都に立ち寄って、別れ際に言った。
「もしかしてイルゼ先生の……と思って声をかけたら、イルゼなんて人知りません、と言われました」
男は笑った。「でも似すぎていてびっくりしました。他人の空似というものはあるんですね」
エストハルトだと言っていた。聞いた瞬間には、もう立ち上がっていた。
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荷物をまとめて、馬車に乗った。傾いた樽亭に入ると、イルゼという名前は知らないと言われた。女主人に話を聞いた。
若い女が一人いたが——風邪をこじらせ、栄養状態もよくなかった。持ちこたえられなかった。
女主人は、それだけ言った。
しばらく、立っていた。
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部屋を見せてもらった。何もなかった。
棚の上に、布の人形が一つあった。手に取った。
(これは)
子供の頃に作ってやったものだった。ボタンを目にして縫い合わせた布の人形で、クラーラはどこへ行くにも持っていった。
片方のボタンが、取れかかっていて、布は、抱かれた跡のかたちに、すり切れていた。
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これだけ、持ってきたのか。
娘は最後まで、「イルゼの娘」と名乗らなかった。
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「——もう、十年以上前のことだ。それだけだ」
向かいで、マーケタは黙っていた。
「なぜここを買い取ったのか、自分でも言葉にできない。女主人が店を畳むと言ったとき、気づいたら名乗り出ていた」
少し、間を置いた。
「一つ、聞いてほしいことがある」
マーケタが顔を上げた。
「隣の部屋を、使う気はないか。仕事のパートナーとして、ここに住んでいい」
間があった。
「……ありがとうございます。でも、私は——今の部屋がいいんです。フィナとの思い出が残る今の部屋が——」
「そうか」
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マーケタが立ち上がって、扉の前で止まった。
「イルゼさん」
「うん」
「話してくれて、ありがとうございます」
扉が閉まった。
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部屋に一人になって、棚の人形をもう一度見た。
机の端に、封が置いてあった。フィナからの、自分宛の封。受け取ってから、ずっとそのままにしていた。
手を伸ばして封を開け、広げた。




