第31話 知らなかった顔
イルゼの後ろについた。
「ちょっと来な」と言ったきり、先に立って歩いていた。
階段を上がった。扉をイルゼが開けた。
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机が一つ。使い込まれた椅子。几帳面に積まれた書き付け。蝋燭が机の端に立っていた。棚の端に、布の人形が一つ置いてあった。古くて、小さかった。
イルゼが椅子を引いた。「座りな」
腰を下ろした。
向かいの椅子に、イルゼはすぐには座らなかった。手の中の封に目を止めた。「見ていいか」
封を渡した。イルゼは黙って目を通した。折り畳んで、机の端に置いた。それから、ゆっくり腰を下ろした。
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しばらく、何も言わなかった。
「追いかけて、どうする」
低い声だった。責めているわけではなかった。ただ、問いだった。
「会いに行きます」
「会って、どうする」
口を開きかけた。続かなかった。
謝りたい。顔を見たい。元気でいるのかを確かめたい。一緒に戻ってきてほしい。
全部そうだった。全部、何か違った。
「……わかりません」
「そうだろ」
イルゼが机の端に手を置いた。指先が、静かにそこに乗っていた。
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「間を置くことの意味、ってのがある」
普段より、ゆっくりした話し方だった。
「距離が空いているとき、人は考える。急いで埋めようとすると、その時間を奪う」
「でも、フィナが——」
「フィナはまだ帰らないと書いてきた」
返す言葉がなかった。
「フィナにはまだ少し、時間が必要なんだと思う」
「……」
「それに、元気だ。カルロがいる。考えている。それだけわかれば、今すぐ飛び出す必要はない」
(そんな単純な話じゃ——)
喉の奥で言葉が止まった。単純な話じゃない、とは思う。でも、そうじゃないという根拠も、出てこなかった。
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少し間があった。
「あんたも、わかっているんじゃないか」
イルゼが言った。
「フィナが手紙に書いたこと。何も聞かずに動いていた、ということ」
机の端の封を、見た。
「……ブリッタさんの名前を、知りませんでした」
声が出ていた。
「フィナは知っていた。あの夜ずっとその場にいて、私が見ていなかったものを、全部見ていたんです」
「フィナがどうしたいか、聞けなかったんです。フィナのためにやっているつもりで——」
続かなかった。
少し間があった。イルゼの顔に、何かが過ぎた気がした。何かは、わからなかった。
「わかってるんなら、今追いかけてどうする」
(言葉が、なかった)
イルゼの声は、穏やかだった。責めていなかった。ただ、静かだった。
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部屋に、しばらく音がなかった。
通りの向こうで、子どもの声が聞こえた。
棚の人形が、また目に入った。古い布でできていた。誰が置いたのか、わからなかった。
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「以前——私も娼館で働いていたか、聞いたことがあったよな」
イルゼが、静かに言った。
思い出した。
業態転換をイルゼに認めさせようとした夜。どうしても首を縦に振らせたくて——感情に訴えた言葉を使った。
「……はい」
イルゼが、こちらをまっすぐ見た。
「実はそうじゃないんだ」
間があった。
「こんな話をするのは——初めてなんだが」




