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傾いた樽と真珠 ~転生先は酒場兼娼館だった。武器は、前世の知識だけ~  作者: 華雪β
第7章 手紙と過去と、やってくる男

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第31話 知らなかった顔

イルゼの後ろについた。


「ちょっと来な」と言ったきり、先に立って歩いていた。


階段を上がった。扉をイルゼが開けた。


---


机が一つ。使い込まれた椅子。几帳面に積まれた書き付け。蝋燭が机の端に立っていた。棚の端に、布の人形が一つ置いてあった。古くて、小さかった。


イルゼが椅子を引いた。「座りな」


腰を下ろした。


向かいの椅子に、イルゼはすぐには座らなかった。手の中の封に目を止めた。「見ていいか」


封を渡した。イルゼは黙って目を通した。折り畳んで、机の端に置いた。それから、ゆっくり腰を下ろした。


---


しばらく、何も言わなかった。


「追いかけて、どうする」


低い声だった。責めているわけではなかった。ただ、問いだった。


「会いに行きます」


「会って、どうする」


口を開きかけた。続かなかった。


謝りたい。顔を見たい。元気でいるのかを確かめたい。一緒に戻ってきてほしい。


全部そうだった。全部、何か違った。


「……わかりません」


「そうだろ」


イルゼが机の端に手を置いた。指先が、静かにそこに乗っていた。


---


「間を置くことの意味、ってのがある」


普段より、ゆっくりした話し方だった。


「距離が空いているとき、人は考える。急いで埋めようとすると、その時間を奪う」


「でも、フィナが——」


「フィナはまだ帰らないと書いてきた」


返す言葉がなかった。


「フィナにはまだ少し、時間が必要なんだと思う」


「……」


「それに、元気だ。カルロがいる。考えている。それだけわかれば、今すぐ飛び出す必要はない」


(そんな単純な話じゃ——)


喉の奥で言葉が止まった。単純な話じゃない、とは思う。でも、そうじゃないという根拠も、出てこなかった。


---


少し間があった。


「あんたも、わかっているんじゃないか」


イルゼが言った。


「フィナが手紙に書いたこと。何も聞かずに動いていた、ということ」


机の端の封を、見た。


「……ブリッタさんの名前を、知りませんでした」


声が出ていた。


「フィナは知っていた。あの夜ずっとその場にいて、私が見ていなかったものを、全部見ていたんです」


「フィナがどうしたいか、聞けなかったんです。フィナのためにやっているつもりで——」


続かなかった。


少し間があった。イルゼの顔に、何かが過ぎた気がした。何かは、わからなかった。


「わかってるんなら、今追いかけてどうする」


(言葉が、なかった)


イルゼの声は、穏やかだった。責めていなかった。ただ、静かだった。


---


部屋に、しばらく音がなかった。


通りの向こうで、子どもの声が聞こえた。


棚の人形が、また目に入った。古い布でできていた。誰が置いたのか、わからなかった。


---


「以前——私も娼館で働いていたか、聞いたことがあったよな」


イルゼが、静かに言った。


思い出した。


業態転換をイルゼに認めさせようとした夜。どうしても首を縦に振らせたくて——感情に訴えた言葉を使った。


「……はい」


イルゼが、こちらをまっすぐ見た。


「実はそうじゃないんだ」


間があった。


「こんな話をするのは——初めてなんだが」


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