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傾いた樽と真珠 ~転生先は酒場兼娼館だった。武器は、前世の知識だけ~  作者: 華雪β
第7章 手紙と過去と、やってくる男

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第30話 手紙

フィナが出て行ってから、もう何日たつだろうか。


一ヶ月半は、過ぎた気がする。


店は動いていた。客が来て、吟遊詩人が歌い、イルゼが仕切る。その繰り返しが、続いた。


考えないようにしていた。仕事は、手がおぼえていた。


---


昼を過ぎた頃、男が入ってきた。


旅の荷を担いでいた。腰に小さな弦楽器を吊るしていた。吟遊詩人らしい、くたびれた上着だった。


店の中を見回して、イルゼに目を止めた。「傾いた樽亭、という店で合っておりますか」


「ええ」


「フィナという娘に頼まれまして、預かってきたものがあります」


---


広間が、静かになった。


イルゼが手を止めた。男をもう一度見た。


「二通ございます。マーケタさん、という方へ。それから——イルゼさん、という方へ」


男は懐から封を二つ取り出した。旅の垢がついていた。遠くから来たのがわかった。


「フィナとは、どこで」


「王都で。エストハルトに向かう途中でしたので」男は少し笑った。「ずいぶん一生懸命に頼まれましたので、断れませんでした」


イルゼが自分の封を受け取った。そのまま立っていた。


男が踵を返した。


「あの」


声が出ていた。男が振り返った。


「フィナは——元気でしたか」


男は少し間を置いた。「元気そうでしたよ。よく笑っていました」それから軽く頭を下げた。「それでは私は」


扉が閉まった。


---


卓の端に座った。


封を解いた。丁寧に折り畳まれた紙が入っていた。何度か折り直したのか、折り目が二重になっていた。


広げた。


文字が並んでいた。行が少し傾いていた。くねくねとした字だった。一文字一文字に、力がこもっていた。


---


*マーケタさんへ*


*突然いなくなってしまって、ごめんなさい。*


*店を出てしばらくしてから、カルロさんにばったりお会いしました。今は、カルロさんと一緒に旅をしています。カルロさんに文字の読み書きを教えてもらいながら、この手紙を書きました。何度も書き直しました。カルロさんにも直してもらいました。まだうまく書けませんが、どうかご容赦ください。*


*今は、王都にいます。カルロさんと一緒にたどり着きました。エストハルトよりずっと大きくて、最初は目が回りそうでした。今は宿で洗い物の仕事をさせてもらっています。ちゃんと食べています。*


*なぜ出てしまったのか、うまく説明できるかわかりません。でも、書いておきたいことがあります。*


*ブリッタさんのことが、ずっと頭から離れません。*


*あの夜のことを、今でも考えます。マーケタさんが、ブリッタさんの名前を知らなかったこと。あの瞬間に、私は何かを決めてしまったのだと思います。マーケタさんには、見えていないものがあると、ずっと思っていました。言えませんでしたけれど。*


*マーケタさんは、ずっと私のために、と言ってくれていました。でも——どこかで一度だけでも、フィナはどうしたい、と聞いてもらえたら、違ったかもしれません。*


*マーケタさんが悪いわけじゃない、ということはわかっています。店は変わっていっていました。きっと、いい方向に。それでも——変わっていく中で、私はどこにいたらいいのかが、だんだんわからなくなってしまいました。*


*以前のお客さんたちの顔を、知っていました。名前は知らなくても、どんな顔で来て、どんな顔で帰るかを。でも、新しいお客さんたちのことは、まだよくわからなくて。私が見えているものが、役に立っているのかどうか、わからなくなってしまいました。*


*マーケタさんのことは、信じています。ただ、私がついていけるかどうかが、わからなかっただけです。*


*今すぐ帰れません。自分がどこにいたらいいのか、もう少しだけ考えさせてください。*


*店のことが心配です。イルゼさんのことも。*


*マーケタさんは、ちゃんと食べていますか。*


*フィナ*


---


紙を、卓に置いた。


窓の布が揺れた。外から、荷車の音がした。厨房の奥で、何かが煮える音がしていた。


(カルロが、一緒にいてくれているのか。……よかった)


あの夜、カルロが弦を鳴らした。商人たちが声を潜めて笑っていた。いい夜だった。フィナは隅で、水を運んでいた。


その場にいた。カルロも、フィナも、ずっとそこにいた。


*マーケタさんが、ブリッタさんの名前を知らなかったこと。*


知らなかった。名前を、知らなかった。フィナは知っていた。フィナは、あの夜ずっとそこにいて、俺が見ていなかったものを、全部見ていた。


*どこかで一度だけでも、フィナはどうしたい、と聞いてもらえたら、違ったかもしれません。*


俺は——フィナのために動いていると思っていた。フィナが何を怖いと思っているか、フィナがどこにいたいと思っているか。それを、聞いたことが、あっただろうか。


*マーケタさんは、ちゃんと食べていますか。*


最後の一行が、目の奥に残り続けた。


---


紙から、目を上げた。


手紙を、折り畳んだ。丁寧に、元の折り目に沿って。


(行かなければ)


立ち上がった。


イルゼが立っていた。手に、封が握られたままだった。


「私、王都に行かなければいけない」


イルゼが、こちらを見た。何も言わなかった。


間があった。そして——


「ちょっと来な」


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