第30話 手紙
フィナが出て行ってから、もう何日たつだろうか。
一ヶ月半は、過ぎた気がする。
店は動いていた。客が来て、吟遊詩人が歌い、イルゼが仕切る。その繰り返しが、続いた。
考えないようにしていた。仕事は、手がおぼえていた。
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昼を過ぎた頃、男が入ってきた。
旅の荷を担いでいた。腰に小さな弦楽器を吊るしていた。吟遊詩人らしい、くたびれた上着だった。
店の中を見回して、イルゼに目を止めた。「傾いた樽亭、という店で合っておりますか」
「ええ」
「フィナという娘に頼まれまして、預かってきたものがあります」
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広間が、静かになった。
イルゼが手を止めた。男をもう一度見た。
「二通ございます。マーケタさん、という方へ。それから——イルゼさん、という方へ」
男は懐から封を二つ取り出した。旅の垢がついていた。遠くから来たのがわかった。
「フィナとは、どこで」
「王都で。エストハルトに向かう途中でしたので」男は少し笑った。「ずいぶん一生懸命に頼まれましたので、断れませんでした」
イルゼが自分の封を受け取った。そのまま立っていた。
男が踵を返した。
「あの」
声が出ていた。男が振り返った。
「フィナは——元気でしたか」
男は少し間を置いた。「元気そうでしたよ。よく笑っていました」それから軽く頭を下げた。「それでは私は」
扉が閉まった。
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卓の端に座った。
封を解いた。丁寧に折り畳まれた紙が入っていた。何度か折り直したのか、折り目が二重になっていた。
広げた。
文字が並んでいた。行が少し傾いていた。くねくねとした字だった。一文字一文字に、力がこもっていた。
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*マーケタさんへ*
*突然いなくなってしまって、ごめんなさい。*
*店を出てしばらくしてから、カルロさんにばったりお会いしました。今は、カルロさんと一緒に旅をしています。カルロさんに文字の読み書きを教えてもらいながら、この手紙を書きました。何度も書き直しました。カルロさんにも直してもらいました。まだうまく書けませんが、どうかご容赦ください。*
*今は、王都にいます。カルロさんと一緒にたどり着きました。エストハルトよりずっと大きくて、最初は目が回りそうでした。今は宿で洗い物の仕事をさせてもらっています。ちゃんと食べています。*
*なぜ出てしまったのか、うまく説明できるかわかりません。でも、書いておきたいことがあります。*
*ブリッタさんのことが、ずっと頭から離れません。*
*あの夜のことを、今でも考えます。マーケタさんが、ブリッタさんの名前を知らなかったこと。あの瞬間に、私は何かを決めてしまったのだと思います。マーケタさんには、見えていないものがあると、ずっと思っていました。言えませんでしたけれど。*
*マーケタさんは、ずっと私のために、と言ってくれていました。でも——どこかで一度だけでも、フィナはどうしたい、と聞いてもらえたら、違ったかもしれません。*
*マーケタさんが悪いわけじゃない、ということはわかっています。店は変わっていっていました。きっと、いい方向に。それでも——変わっていく中で、私はどこにいたらいいのかが、だんだんわからなくなってしまいました。*
*以前のお客さんたちの顔を、知っていました。名前は知らなくても、どんな顔で来て、どんな顔で帰るかを。でも、新しいお客さんたちのことは、まだよくわからなくて。私が見えているものが、役に立っているのかどうか、わからなくなってしまいました。*
*マーケタさんのことは、信じています。ただ、私がついていけるかどうかが、わからなかっただけです。*
*今すぐ帰れません。自分がどこにいたらいいのか、もう少しだけ考えさせてください。*
*店のことが心配です。イルゼさんのことも。*
*マーケタさんは、ちゃんと食べていますか。*
*フィナ*
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紙を、卓に置いた。
窓の布が揺れた。外から、荷車の音がした。厨房の奥で、何かが煮える音がしていた。
(カルロが、一緒にいてくれているのか。……よかった)
あの夜、カルロが弦を鳴らした。商人たちが声を潜めて笑っていた。いい夜だった。フィナは隅で、水を運んでいた。
その場にいた。カルロも、フィナも、ずっとそこにいた。
*マーケタさんが、ブリッタさんの名前を知らなかったこと。*
知らなかった。名前を、知らなかった。フィナは知っていた。フィナは、あの夜ずっとそこにいて、俺が見ていなかったものを、全部見ていた。
*どこかで一度だけでも、フィナはどうしたい、と聞いてもらえたら、違ったかもしれません。*
俺は——フィナのために動いていると思っていた。フィナが何を怖いと思っているか、フィナがどこにいたいと思っているか。それを、聞いたことが、あっただろうか。
*マーケタさんは、ちゃんと食べていますか。*
最後の一行が、目の奥に残り続けた。
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紙から、目を上げた。
手紙を、折り畳んだ。丁寧に、元の折り目に沿って。
(行かなければ)
立ち上がった。
イルゼが立っていた。手に、封が握られたままだった。
「私、王都に行かなければいけない」
イルゼが、こちらを見た。何も言わなかった。
間があった。そして——
「ちょっと来な」




