第3話 前回も良かったぞ
仕事には、少しずつ慣れてきた。
数日が経っていた。床の掃き方、テーブルの拭き順、エールの注ぎ方のコツ——体が手順を覚え始めると、頭が別のことを考える余裕が生まれた。
給仕しながら、俺は客を観察していた。
どのテーブルの客が今夜騒ぎたいのか。どの客が情報を求めているのか。どの客が常連で、どの客が旅の途中の一見なのか。見分ける目が、少しずつついてきた気がした。
(この店に来る客は、それぞれ理由がある。その理由が見えれば——何かできるはずだ)
まだ漠然としていた。でも仮説の卵のようなものが、頭の隅に積み上がり始めていた。
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問題は、夜だった。
日が落ちると、店の空気が変わる。女中たちが一人また一人と客と奥へ消えていく。最初の数日は、指名の声がかからなかった。
(美人すぎて逆に声をかけにくいのかもしれない)
楽観的な解釈だとは自分でもわかっていた。
五日目の夜、赤毛の女中が横を通りながら小さく言った。
「マーケタ。あのテーブル」
振り向くと、奥の席に一人の男が座っていた。
がたいがいい。三十代か、四十代か。冒険者の装備を外した格好だが、体の傷の多さがその仕事を示していた。エールを半分飲んだ杯を持ったまま、こちらを見ていた。
目が合った。
(……指名、か)
足が一瞬止まった。恐怖ではなく——準備、だったと思う。
深呼吸を一つ。それだけして、歩き出した。
「お呼びですか」
男は俺の顔をじろじろと見てから、口の端を上げた。
「前回も良かったぞ」
(前回?)
笑顔を保ったまま、俺の頭の中だけが止まった。
(……前回。この体に、何があった)
「……ありがとうございます」
声は、平静だった。
自分でも驚くくらい、平静だった。
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扉が、閉まった。
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物音がして、目が覚めた。
扉が開き、閉まる音がした。足音が廊下の向こうへ消えていく。
体が重かった。
口の中に、鉄の味がした。いつ切れたのかも、わからなかった。
(起きろ)
自分に言い聞かせた。
(考えるな。今は起きることだけ考えろ)
ゆっくりと体を起こした。体のいくつかの場所が、じわりと痛んだ。それでも動いた。鎧戸の隙間はまだ暗かった。夜明け前だった。
ふと、視線が動いた。
ぬいぐるみたちが目に入った。
棚に並んでいる。床に置かれている。ベッドの足元に積まれている。薄明かりの中で、全員がこちらを見ていた。
何かが——緩んだ。
壁ではなく、自分の中の何かが。
機械的に、棚から一つを手に取った。熊の形をしたやつ。毛並みがすり減っている。長い時間、誰かに抱かれていた跡があった。
(何年、ここにいたんだろう)
払い切れなかった疑問が、今、全部戻ってきた。
給金をもらっていたはずだ。在籍が長い分、それなりの額になる。なのにこの部屋に残っていたのは、ぬいぐるみだけだった。
(逃げなかったのか)
(逃げようとも、しなかったのか)
ただ——これだけを買い続けていたのだろう。
一つずつ。少しずつ。給金が入るたびに。
(壊れそうな心を、これで繋ぎとめていたのか)
熊のぬいぐるみを、胸に引き寄せた。動かすたびに体のどこかが痛んだ。構わなかった。
泣いていた。
声も出なかった。ただ涙だけが出た。三十五年間、ほとんど泣いたことのなかった男が、異世界の朝に、ぬいぐるみを抱えて泣いていた。
(ごめんな)
声には出さなかった。
(俺が来る前に、ここにいた子に)
(ここで何年も、これだけで持ちこたえていた子に)
どれくらいそうしていたか、わからない。
窓の外が少しずつ明るくなっていた。今日も仕込みが始まる。
ぬいぐるみを膝に置いたまま、俺は壁にもたれた。背中がきつく痛んだ。それでも動く気になれなかった。
眠れなかった。




