第2話 傾いた樽亭の夜
仕事は、夜明けとともに始まった。
フィナが扉を叩いてきたのは、まだ鎧戸の外が薄暗い頃だった。
「おはようございます。準備、手伝いますね」
声を聞いて起き上がろうとした瞬間、体のあちこちが軋んだ。七日間ほとんど横になっていたことを思い出す。
「ありがとう」と答えながら、内心ではすでに動いていた。
(仕事の内容を把握する。まずそれだ)
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酒場の仕込みは、思っていたより遥かに多岐にわたっていた。
床を掃く。テーブルを拭く。エールの樽を確認する。食材の仕込み——パンを切り分けて、肉を煮込みの鍋に入れる。蝋燭を補充する。
どれも、やったことがない。
「マーケタさん、箒はこっちを持って」
「こう?」
「もう少し下。そう、そんな感じです」
フィナが横に立って教えてくれた。
(箒は下を持つのか)
三十五年で初めて知った。
他の女中たちは、俺たちに関心を払わなかった。三人いる。それぞれが自分のペースで仕込みをこなしていて、俺が何もできないことを見ても特に何も言わない。
(この距離感——「新人が使えない」という呆れではなく、最初から関わるつもりがないような)
外見が原因の一部であることはわかっていた。きつそうに見える顔は、近づきにくい。それに、何もできない自分の不甲斐なさ。両方が重なっている。
それはそれで、観察する時間ができる。悪くなかった。
三人の女中たちを、仕込みの合間にそれとなく見ていた。
一番年上に見えるのは三十代前半くらいの赤毛の女性。他の女中たちに短く指示を出している。店主の右腕だろう。隣で黙々と肉を切っているのは、二十代半ばくらいの地味な印象の女性。手際がいい。常連がいそうな雰囲気がある。もう一人は二十代前半か——こちらは俺たちをほとんど見ていなかった。
「マーケタさん」フィナが小声で言った。「テーブル、こっちから拭くとやりやすいですよ」
「ありがとう」
「慣れたら簡単ですから」
とりあえずフィナの言う通りにした。
しばらくして、赤毛の女中が横を通りながら小さく言った。
「……まったく。お嬢様育ちってのは」
誰かに言ったわけでもなく、ただそれだけ言って、自分の仕事に戻った。
(お嬢様育ち——この子は、そういう育ちだったのか)
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店の入口の脇に、看板があった。
傾いた樽が描かれている。それだけの絵だった。字が読めなくても、この看板を見れば何の店かわかる。よくできている。
酒場が開いたのは、日が傾き始めた頃だった。
店の中では、壁の燭台に蝋燭が灯された。天井の梁から吊るされた鉄製の燭台にも火が入る。昼間の薄暗い仕込み場が、黄色い揺れる光の中に変わった。
重い木の扉が開くと同時に、外の空気が流れ込んできた。土と汗と、どこかで焼いている肉のにおい。最初の客は地元の職人たちだった。馴染みらしく、カウンターに向かって「いつものを」と声をかける。赤毛の女中がすぐに動いてエールの入った杯を運んだ。
次第に人が増えた。
冒険者らしい男たちが二組入ってきた。一組は四人、がたいがよく声が大きい。もう一組は二人で、少し落ち着いた雰囲気がある。テーブルに着いた後、静かに周囲を見回している。
(この二組、同じ冒険者でも違う)
俺は給仕をしながら、自然にそれを考えていた。
四人組は声が高く、笑いが多い。今夜はとにかく騒ぎたい。今日稼いだか、明日が危険な仕事の前夜か——どちらにしても、今は発散したい人間の顔だ。
二人組の方は違う。目が動いている。情報を拾っている。服の質が少しいい。旅の商人か、ギルドの人間か。どちらにしても騒ぎより話が目的で、静かな席と耳に入る情報を求めている。
(面白い)
気づくと、俺はそういう目で店全体を見ていた。誰が今夜、何を求めてここに来たのか。ただ飲みたい人間、情報が欲しい人間、荒れたい人間、落ち着きたい人間——全員が違う。
(この店に来る客は、それぞれ別の理由がある)
それを見分けることができたら。何かに使えそうな気がした。まだ言葉にならなかったが。
他の女中たちは、それぞれ決まった客のそばにいた。声をかけ、笑い、顔を寄せる。長い付き合いのある客なのだろう、自然な距離感だった。
(全員に担当の常連がいる。俺の入れる隙間は——どこだ)
店主が店の奥からカウンターの向こうに立って、全体を見渡している。新しい客が入るたびに目で追い、どこのテーブルに案内するかを女中に短く指示していた。
(経営者だな。きちんとやっている)
「マーケタ、あのテーブルにパンを」
赤毛の女中が通りがけに言った。
「わかりました」
体はまだぎこちない。一度、杯を危うく落としかけた。向けられた視線の意味はわかった。でも今日は、それでいい。
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日が完全に落ちた頃、店の空気が変わった。
蝋燭の数が減り、燭台の光が絞られていた。昼間の仕込みの明るさとも、開店直後の賑わいとも違う、ぬるい暗さが店を包んでいた。温度でも音でもない。ただ——何かが変わった。
気づいたのは、赤毛の女中が席を立った瞬間だった。彼女は客のいるテーブルに向かい、椅子を引いて隣に腰を下ろした。給仕のためではなかった。
しばらく観察した。
別の女中が、別のテーブルで同じことをしていた。また別の女中は、客と何か話して、二人で席を立ち、店の奥へと歩いていった。
奥には廊下がある。女中たちが寝起きしている部屋がある。俺が七日間、ぬいぐるみに囲まれて寝ていたのと、同じ部屋が。
「指名ってあり?」という声が別のテーブルから聞こえた。
若い女中が「はい」と答えた。
(指名)
その言葉が頭の中で展開した。
(……そういうことか)
給仕の動きを止めずに、淡々と考えた。
この店は酒場だが、それだけじゃない。夜になると商売の内容が変わる。女中は給仕だが、それだけじゃない。
(だから個室があった。だから女中が全員個室持ちだった)
ぬいぐるみだらけの部屋が、頭に浮かんだ。
一瞬だけ、胃の底が冷えた。
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閉店間際、店主がカウンターの端に立っていた。後片付けをしていると、視線を向けてきた。
「今日は見ているだけでよかった」
静かな声だった。
「でも明日からは」
少し間を置いた。
「うちの商売は、わかってるでしょ」
手を止めずに、答えた。
「……はい」
店主はそれ以上何も言わなかった。背を向けて、書き付けを閉じた。
部屋に戻る廊下を歩きながら、自分の中を確認した。
怒り、ではなかった。絶望でも、ない。
ただ——整理がついていなかった。
この体がここに来た理由。あのぬいぐるみたちの意味。その輪郭が、少しだけ見えてきた気がした。
扉を開けると、ぬいぐるみたちが並んでいた。
一つも手に取らずに、ベッドに腰を下ろした。
(明日から、どうするか)
答えはまだなかった。




