第1話 転生・ぬいぐるみ・犬耳の子
最初に感じたのは、においだった。
藁と、獣脂の蝋燭と、かすかな血の混じった空気。知っているはずのないにおいなのに、この体は記憶していた。
(ここは、どこだ)
天井は木の板張り。梁が二本走っている。暗い。布を張った窓から滲む光が夕方なのか朝なのかもわからない。
体を起こそうとして、できなかった。
指先だけが動く。腕は重くて持ち上がらない。頭を傾けるだけで視界がぐらりと揺れる。
(……死んだのは確かだな)
課長昇格が決まった夜。先輩たちと飲んで、上機嫌で帰る途中。交差点。車のライトが視界いっぱいに広がって——そこで記憶が途切れた。
享年三十五歳。マーケティング部課長代理。独身、バツイチ。特技は仮説を立てることと、昼飯を五分で済ませること。
(それで、転生か)
俺の中の現実的な自分が状況を整理しようとしている。体は動かない。でも頭は動く。
奇妙なことに、パニックにはなっていなかった。
恐怖がないわけじゃない。ただ——この感覚は知っている。新しいプロジェクトを立ち上げたばかりの、あの最初の朝に似ていた。何もわからないが、何かが始まった、という感覚。
(まず観察だ)
視線だけで部屋を見回す。
個室だった。狭いが、一人で使う部屋としては悪くない。簡素な木のベッド。布張りの小さな窓。扉が一枚。床には——
(……なんだ、これ)
ぬいぐるみが、ある。
棚に並んでいる。床に置かれている。ベッドの足元に積まれている。布製の小さな動物や人形が、数えきれないほど。部屋の四分の一を占めている気がした。
(趣味……か? それにしても多くないか)
一つを目で追う。熊のような形をしたそれは、どこかの市で売られていたような素朴な品だった。ただ、毛並みがすり減っている。長い時間、誰かに抱かれていたような跡があった。
よくわからなかった。何かを意味している気もしたが、体が動かない今は確かめようがない。
頭の隅に引っかかりを残したまま、俺は目を閉じた。
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数日が経った。
たぶん。窓の外が明るくなって暗くなって、また明るくなって——それを繰り返した。最初の二日は意識もうろうとしていて、体の世話をしてくれる人がいなければどうなっていたかと思う。
ようやく体が言うことを聞き始めたのは、四日目か五日目だった。
足がついた。ちゃんと立てた。
最初にしたことは、部屋の端に置かれた洗面台に行くことだった。磨いた銅板が壁に掛けてある。
(確認しておかないとな)
のぞき込んで——固まった。
(……え)
銀色の髪。整った鼻筋。目尻がわずかに上がっていて、きついような印象を与えるが、それを差し引いても——
(超美人じゃん)
三秒ほど、反射的に出た言葉を頭の中で反芻した。
三十五年間、冴えない顔で生きてきた男の感想としては正直すぎるが、事実だから仕方ない。
もう少し下に視線を落とした。
(……貧乳だけど!)
いや、でも。
(外見きつそうだけど、これはこれでありかも)
すぐに「でも状況はどう考えてもまずい」と自分に言い聞かせた。
だが不思議なことに——まあ、なんとかなるか、という感覚もあった。
楽観的すぎるとは自分でもわかっている。でも三十五年で学んだことがある。最初に頭が「なんとかなる」と思えた仕事は、たいていなんとかなった。パニックになった仕事の方が、ろくな結果にならなかった。
俺はもう一度、その銅板をのぞいた。銀髪の少女が、少しむすっとした顔でこちらを見ている。
(よろしくな)
声には出さなかった。
それから一つ、実務的なことを考えた。
(俺、じゃなくて——この体では、私だ)
外では。少なくとも声に出すときは。三十五年の癖を急に直すのは難しいが、知られるよりはましだ。
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同じ日の午後、扉をノックする音がした。
「あの……体、大丈夫ですか」
細い声だった。おそるおそる、という感じの声。
「入っていいですよ」と答えると、扉がゆっくり開いた。
犬の耳が、先に見えた。
垂れ耳。茶色い毛並み。頭の上からとぼけたように生えているそれが、扉の隙間からひょこりと現れた。
続いて顔が出てくる。丸い目。可愛らしい顔立ち。年齢は自分より少し下——十四か、五か。うかがうような表情で、でも体はすでに半分部屋の中に入っていた。
「無理しないでくださいね」と彼女は言った。「ここ数日、ずっと熱が続いていたから……ご飯、持ってきました」
木の椀を差し出してくる。湯気が立っていた。
「ありがとう。あなたが運んでくれてたの? ここ数日も」
「他の人たちは……近づきにくいって言ってたので」
「私の顔が怖いから?」
「そういうわけじゃ——あ、違います、そういう意味じゃなくて」
彼女は耳をぺたりと伏せた。わかりやすい子だ、と俺は思った。
「冗談よ」と言うと、耳がゆっくりと持ち上がった。
それから彼女は少しだけ笑った。
名前はフィナ、と教えてくれた。隣の部屋にいるらしい。この店に来てまだ間もないのだという。
(同じ境遇か)
詳しくは聞かなかった。でも彼女が話す様子を見ていると、この店のことが少しずつ輪郭を持ち始めた。
フィナはその後も、二日に一度は様子を見に来た。他の人たちが距離を置いているのを気にしている様子で、ちょっとした世話を焼いてくれた。毛布の替えを持ってきたり、鎧戸の開け方を教えてくれたり。
(可愛いなー。優しいなー。いい子だなー)
毎回そう思いながら、俺は部屋から見える景色や、フィナとの会話から少しずつ情報を集めていった。
フィナとの会話から、少しずつ見えてきたことがある。この世界には魔物がいる。冒険者がいる。そしてここはエストハルトという街で、各地から人が流れ込んでくる場所で——自分はその中の酒場で女中をやっているらしい。
なぜここに来ることになったのか、それはまだわからない。でも輪郭は見えた。
(よし。状況は大体わかった)
わかっていないことの方がずっと多かったが、これはいつものことだ。新しい仕事の最初の一週間なんて、いつもそんなものだ。
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目覚めてから七日目の夕方、扉を開けたのはフィナではなく、中年の女性だった。
鋭い目。意志の強そうな顔。体格はそれほどないが、立っているだけで部屋を占有するような存在感があった。この店の経営者——店主だと、雰囲気でわかった。
「マーケタ。明日から仕事に出てもらいます」
短く、そう言った。
俺は少しの間、その顔を見ていた。
(マーケタ。この子の名前は、マーケタか)
頭の中で一度繰り返して——気づいた。
(……マーケター、じゃないか)
笑えない。いや、笑うしかないのかもしれない。
「わかりました」
女性は小さくうなずいて、扉を閉めた。
部屋に一人残された。
鎧戸を開けると、エストハルトの街が夕暮れに染まっていた。遠くで鐘の音がした。どこかで誰かが笑い声を上げている。
(さて)
俺は部屋を見回した。棚のぬいぐるみたちが、黄昏の中でひっそりと並んでいる。
(明日から始まるな)
何が始まるのか、まだ正確にはわかっていなかった。
でも——始まる。それだけは確かだった。




