第28話 まだ見えていないもの
久しぶりに、休みをもらった。
少し寝すぎたようだった。下ではもう仕込みの音がしている。
棚を見た。ぬいぐるみが、並んでいた。
(俺は——この子の居場所を、作れただろうか)
この子の親が来る日は、きっとまた訪れる。そのとき「ここがいい」と言い切れるか。安全か、ではない。誇れるか、という問いだ。まだ答えが出ない。
部屋を出た。広間ではイルゼが仕込みをしていた。「少し出てくる」と声をかけると、「ああ」とだけ返ってきた。
扉を押し開けると、石畳が続いていた。
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広場の前を通った。
露天の前を通ると、揚げた肉の脂のにおいが来た。
そういえば、今日はまだ何も食べていない。
揚げたパイを一つ買った。熱かった。石段の端に腰かけて、少しずつ食べた。
休みの日に、外で食べるのは久しぶりだった。
(ここで——歌を聞いた)
転生して初めて外に出た日、広場の方から男の声が流れてきた。言葉もわからない旋律だった。
カルロが来た夜のことを、思った。商人たちが声を潜めて笑っていた。弦の音が広間の底を落ち着かせていた。「いい夜だった」と男が言った。
あれが、作りたかったものだ。
あの夜は作れた。だが——果たして、続けられるか。今やっていることは、いずれ真似されるかもしれない。そのとき、この店にしか残らないものが、まだ言葉になっていない。
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城門をくぐった。
風が来た。草のにおいがした。土の道が、空の下をまっすぐ伸びていた。
フィナと——ここに来たことがある。二人で並んで、この道の先を見ていた。フィナはただ、遠くを見ていた。
あの時と同じ道が、今も続いていた。
フィナは今頃、どこにいるだろう。少し、立ち止まった。胸の奥のほうが、少し痛かった。
怖くない場所を、作ろうとしていた。形になってきた——と思っていた。でも、肝心のフィナがいない。誓いは、まだ果たせていない。
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街に戻って、彫刻のある一角に入った。通りが、急に静かになった。香料のようなにおいが、かすかに漂っていた。
格の高い店の前を通った。入り口に立っている男が、こちらを一目見て、首を振った。
前と、同じだった。
少し離れたところから、通りを見た。店に入っていく人間の靴の質が違う。荷物の持ち方が違う。商人か、ギルドの役員か——傾いた樽亭の客とは、また違う層だ。
(あの店のことを、まだ何も知らない)
顧客がかぶっているかもしれない。かぶっていないかもしれない。知らないまま動いている。
一歩、引いた。
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城の方へ、少し向かってみた。路地が狭くなった。石造りの建物が大きくなっていった。
城壁の前で止まった。衛兵が立っていた。中には入れない。
城の中では、今頃誰が何をしているだろう。料理人が仕込みをしているか。侍女が廊下を歩いているか。騎士が訓練をしているか。
彼らは、どんな夜を過ごすのだろう。どんな酒を飲むのだろう。
見上げると、城壁の上から街が見渡せそうだった。でもここからでは見えない。
(この街の全体を——まだ知らない)
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黒熊亭の前を通ったとき、笑い声と酒のにおいが漏れてきた。見覚えのある後ろ姿が目に入った。
赤い髪だった。
卓の間を動いていた。客に何かを言って、男が笑った。また別の卓へ向かった。
ブリッタだった。
少し立ち止まって、見ていた。引き留めなかった。声もかけなかった。ただ——よかった、と思った。
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傾いた樽亭の扉を、押し開けた。
広間は静かだった。仕込みの時間だった。若い女中が棚を確認していた。厨房からイルゼの声がした。
仕込みの食材のにおいがした。いつもの場所に、いつもの空気があった。二人がけの卓が、隣の声を気にしなくていい間隔で並んでいた。
(やり残したことが、ある)
売り上げは上がった。客足も伸びた。だが利益は、以前より落ちている。上の部屋をやめた分が、まだ埋まっていない。
だから、値を上げる必要がある。だが、単に上げるだけではだめだ。この店が何者か、何を目指すか、イルゼとじっくり話し合う必要がある。
(腕の見せ所だ)
この街に何を残したか——まだ観察が足りない。この世界を、まだ知らない。
でも——今日は、少し見えた。
扉を閉めた。




