第22話 カルロが来る夜
準備は昼のうちに終えていた。
席の配置は変えてある。蝋燭の数も、位置も。昼間に光の具合を確かめて、壁際をもう少し足した。あとは——人が来るだけだ。
(来るかどうか、は)
来る。返事は受け取っている。でも、返事と実際の間には、いつも距離がある。
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カルロが現れたのは、夕刻を少し過ぎたころだった。
荷物が多かった。でも歩き方は軽い。見覚えのある顔が、扉のところで店の中を一度眺めた。
蝋燭の光が、卓ごとに落ちていた。どこかで誰かが笑った。声が、広間の中に溶けた。
少し、目を細めた。
「お待ちしていました」
迎えたときの言葉は、それだけにした。
「この店、聞いていたより、いい空気だ」カルロが言った。「あなたも、前に通りで会ったときとは、だいぶ印象が違う」
「少しだけ、変えました」
「少しじゃないですよ。前に向いた顔をしている」カルロが小さく笑った。
荷物を下ろして、用意した席に着いた。
フィナが近くを通りかかったとき、カルロが顔を上げた。「フィナさん、ご無沙汰しています」
「お久しぶりです、カルロさん」フィナが小さく会釈した。「いらっしゃいませ」
そのまま、通り過ぎた。
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演奏が始まったのは、客がある程度入ってからだった。
弦の音が、広間に流れた。
最初の数音で、話し声が変わった。ざわついた空気の底が、少し落ち着いた。音があることで、かえって声を潜める人間が出てくる。隣の卓を気にしなくなる。
カルロが歌ったのは、旅の話だった。英雄ではない。有名な戦でもない。どこかの街を出た、名前もない女の話。行くあてがあったわけではない。ただ、そこではないどこかへ——という気持ちだけがあった。
商人たちが、静かに聞いていた。笑う場面では笑い、黙る場面では黙った。
フィナが、卓に酒を運ぶ途中で、少し立ち止まった。
たれた耳が、ほんのわずかに、音のほうへ向いた。
どれくらい、そうしていたか。
目を向けると、フィナはまた動いていた。丁寧に、静かに。
フィナの顔を、読もうとした。読めなかった。
でも——一度だけ、視線がどこかへ流れた気がした。
目で、追った。
赤毛の女中が、卓の間を動いていた。
商人の一人に、声をかけた。男が顔を上げた。少し、間があった。
赤毛の女中は、また別の卓へ移った。
探っているのか——それとも、ただ動いているだけか。
カルロの歌が終わった後、狙っていた以上のことが、起きた。
商人の一人が、連れの耳に口を近づけた。仕事の話をしているようだった。前に来たときには、そういう座り方をしていなかった人間だ。
腹の底が、少し熱かった。
そういう夜だった。
広間の端に、イルゼが立っていた。腕を組んで、いつもの顔で——でも、どこか違う気がした。目が、カルロの方を向いていた。
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帰り際、その商人が言った。「いい夜だった」
連れも、うなずいていた。
「またお越しください」
「ああ、また来る。友人も連れてくる」
足音が、遠ざかった。息を、一つ吐いた。
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広間が静かになってから、カルロが荷物をまとめていた。
「いい店になりましたよ」
「これから、です」
「そうですね」立ち上がりながら、カルロが言った。「次はいつ来ていいですか」
「いつでも」
少し、間があった。
「——一つだけ」
「なんでしょう」
「旅の方に、声をかけていただけますか。こういう場所がある、と」
カルロが少し目を細めた。「わかりました」
「では、また」
扉が閉まった。
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椅子を元の位置に戻した。フィナが手伝った。いつものように。何も言わなかった。
片付けが終わって、イルゼが厨房に戻りかけた。
「今日はよかった」
振り返らずに、言った。
「そうですね」
最初の夜が、終わった。
気づいたときには、フィナはもういなかった。




