表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傾いた樽と真珠 ~転生先は酒場兼娼館だった。武器は、前世の知識だけ~  作者: 華雪β
第5章 始動と亀裂

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/31

第22話 カルロが来る夜

準備は昼のうちに終えていた。


席の配置は変えてある。蝋燭の数も、位置も。昼間に光の具合を確かめて、壁際をもう少し足した。あとは——人が来るだけだ。


(来るかどうか、は)


来る。返事は受け取っている。でも、返事と実際の間には、いつも距離がある。


---


カルロが現れたのは、夕刻を少し過ぎたころだった。


荷物が多かった。でも歩き方は軽い。見覚えのある顔が、扉のところで店の中を一度眺めた。


蝋燭の光が、卓ごとに落ちていた。どこかで誰かが笑った。声が、広間の中に溶けた。


少し、目を細めた。


「お待ちしていました」


迎えたときの言葉は、それだけにした。


「この店、聞いていたより、いい空気だ」カルロが言った。「あなたも、前に通りで会ったときとは、だいぶ印象が違う」


「少しだけ、変えました」


「少しじゃないですよ。前に向いた顔をしている」カルロが小さく笑った。


荷物を下ろして、用意した席に着いた。


フィナが近くを通りかかったとき、カルロが顔を上げた。「フィナさん、ご無沙汰しています」


「お久しぶりです、カルロさん」フィナが小さく会釈した。「いらっしゃいませ」

そのまま、通り過ぎた。


---


演奏が始まったのは、客がある程度入ってからだった。


弦の音が、広間に流れた。


最初の数音で、話し声が変わった。ざわついた空気の底が、少し落ち着いた。音があることで、かえって声を潜める人間が出てくる。隣の卓を気にしなくなる。


カルロが歌ったのは、旅の話だった。英雄ではない。有名な戦でもない。どこかの街を出た、名前もない女の話。行くあてがあったわけではない。ただ、そこではないどこかへ——という気持ちだけがあった。


商人たちが、静かに聞いていた。笑う場面では笑い、黙る場面では黙った。


フィナが、卓に酒を運ぶ途中で、少し立ち止まった。

たれた耳が、ほんのわずかに、音のほうへ向いた。

どれくらい、そうしていたか。

目を向けると、フィナはまた動いていた。丁寧に、静かに。

フィナの顔を、読もうとした。読めなかった。

でも——一度だけ、視線がどこかへ流れた気がした。

目で、追った。


赤毛の女中が、卓の間を動いていた。

商人の一人に、声をかけた。男が顔を上げた。少し、間があった。

赤毛の女中は、また別の卓へ移った。

探っているのか——それとも、ただ動いているだけか。


カルロの歌が終わった後、狙っていた以上のことが、起きた。


商人の一人が、連れの耳に口を近づけた。仕事の話をしているようだった。前に来たときには、そういう座り方をしていなかった人間だ。


腹の底が、少し熱かった。


そういう夜だった。


広間の端に、イルゼが立っていた。腕を組んで、いつもの顔で——でも、どこか違う気がした。目が、カルロの方を向いていた。


---


帰り際、その商人が言った。「いい夜だった」


連れも、うなずいていた。


「またお越しください」


「ああ、また来る。友人も連れてくる」


足音が、遠ざかった。息を、一つ吐いた。


---


広間が静かになってから、カルロが荷物をまとめていた。


「いい店になりましたよ」


「これから、です」


「そうですね」立ち上がりながら、カルロが言った。「次はいつ来ていいですか」


「いつでも」


少し、間があった。


「——一つだけ」


「なんでしょう」


「旅の方に、声をかけていただけますか。こういう場所がある、と」


カルロが少し目を細めた。「わかりました」


「では、また」


扉が閉まった。


---


椅子を元の位置に戻した。フィナが手伝った。いつものように。何も言わなかった。


片付けが終わって、イルゼが厨房に戻りかけた。


「今日はよかった」


振り返らずに、言った。


「そうですね」


最初の夜が、終わった。


気づいたときには、フィナはもういなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ