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傾いた樽と真珠 ~転生先は酒場兼娼館だった。武器は、前世の知識だけ~  作者: 華雪β
第5章 始動と亀裂

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第21話 準備

カルロが泊まっている宿を、三軒目で見つけた。


古い宿だった。入口だけが、きれいに保たれていた。旅の人間が慣れた感じで出入りする、そういう場所。宿の主人は「ああ、吟遊詩人の旦那なら」と顔を知っていた。


伝言を頼んだ。「傾いた樽亭からです。席を用意してお待ちしています」


宿の主人が少し値踏みするような目をした。どういう用件かを測っている。「吟遊詩人を大切にする店なんです」と一言添えると、表情が変わった。


(評判は、こういうところからも始まる)


---


店に戻ると、イルゼがもう女中たちを集めていた。


数人が、広間の中ほどに立っていた。


説明はイルゼが仕切った。客席の空気を変えること。接客の丁寧さを上げること。荒い客には、今後は丁寧に断っていくこと。


女中たちの顔が、少しずつ変わった。


赤毛の女中は、腕を組んだまま動かなかった。何かを測るように、イルゼを見ていた。納得しているのか、していないのか。表情からは読めなかった。


地味な印象の女中は、静かにうなずいた。感情を表に出さない人間だと思っていたが、どこかで思うところがあったのかもしれない。


若い女中は、視線を落としていた。


上の部屋の話は、出なかった。今日はここまで、という判断だろう。


(順番がある、ということなんだろう。イルゼに任せたところだ)


女中たちが散っていく中、フィナはその場に少し残っていた。赤毛の女中の後ろ姿を、見ていた。

見えなくなるまで、動かなかった。


フィナが何か言いかけた気がした。でも声はなかった。


---


午後から、座席の配置を変えた。


フィナが手伝った。テーブルを二人がかりで引きずると、石畳に重い音が響いた。


「こっちに動かしますか」


「そう。もう少し奥に」


テーブルを動かすたびに、入口から見える景色が変わった。向かいに座った相手の顔が見えて、でも隣の卓の声は気にならない。そういう距離感を作りたかった。


「なんでそんなに細かく動かすんですか」


フィナが聞いた。不満ではなく、本当に知りたそうな顔だった。


「座る場所で、話の中身が変わるから」


「場所で?」


「隣の声が聞こえると、人は声を潜める。声を潜めると、本音が出にくくなる。商人が仕事の話をしたい夜には、そこまで考える」


フィナがしばらく考えるような顔をした。それから、テーブルのもう片方を持った。「もう少しこっちですか」


「そう」


---


蝋燭の位置を決めるのに、時間がかかった。


フィナが台を運んできた。「ここでいいですか」と毎回確認した。「もう少し右」「そこでいい」「いや、戻して」——細かいやりとりが続いた。


作業の途中で、フィナが手を止めた。目が合った。


「そこ、もう少し奥」


「……はい」


それだけだった。


---


夕方近くになって、一度広間の入口から眺めた。


変わった気がする。変わったと思いたいだけかもしれない。でも——


フィナが隣に来た。


「変わりましたね」と、静かに言った。


「そう思う?」


「はい」


でも、フィナの目は広間を見ていなかった。どこか別のものを見ていた。


---


夕暮れ時、宿から使いが来た。


カルロからの返事だった。「喜んで。三日後の夜にお伺いします」


(来る)


小さいことだ。でも——最初の一手だ。


---


「今夜——少し話さない?」


作業道具を片付けているフィナの背中に、声をかけた。フィナが振り返った。少し、間があった。


「……はい」


---


仕事が終わって、部屋に来てもらった。向かいに座った。


「このところ、ちゃんと話せていないと思って。最近どう。何か気になることある?」


フィナが少し間を置いた。「何もないですよ」


「そう?でも——」


「それより、カルロさん、見つかりましたか?」


(……話を、そらされた)


だが、話し始めると、止まらなかった。


カルロが来れば、空気が変わる。空気が変われば、来る客が変わる。来る客が変われば、値段を変えられる。そこまで持っていければ、次の一手が打てる。イルゼも動ける。この店が、本当に変わる。


フィナは、聞いていた。ように見えた。一度だけ、視線が手元に落ちた。追いついていない目だった。


「……どれくらいかかりますか」


「半年、いや、もう少しかかるかもしれない。でも方向は間違っていない。絶対に変わる」


少し、間があった。


「そうですか」


「変わるよ、この店。本当に」


フィナが、少し遅れて、うなずいた。


ふと、フィナの顔を見た。


口元が、少し笑っていた。目は、合わなかった。


「……明日も早いので、今日はそろそろ」


フィナが立ち上がった。思ったより、早かった。

「……マーケタさん」

「うん」

「——おやすみなさい」

扉が閉まった。しばらく、部屋に一人だった。


何かが、あったのかもしれない。フィナの、夕方の——どこを見ていたんだろう。


(ちゃんと話せていないと思って、呼んだのに)


立ち上がりかけた。やめた。行って、何を聞くんだ。


——もう少しだけ、扉の方を見ていた。

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