第21話 準備
カルロが泊まっている宿を、三軒目で見つけた。
古い宿だった。入口だけが、きれいに保たれていた。旅の人間が慣れた感じで出入りする、そういう場所。宿の主人は「ああ、吟遊詩人の旦那なら」と顔を知っていた。
伝言を頼んだ。「傾いた樽亭からです。席を用意してお待ちしています」
宿の主人が少し値踏みするような目をした。どういう用件かを測っている。「吟遊詩人を大切にする店なんです」と一言添えると、表情が変わった。
(評判は、こういうところからも始まる)
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店に戻ると、イルゼがもう女中たちを集めていた。
数人が、広間の中ほどに立っていた。
説明はイルゼが仕切った。客席の空気を変えること。接客の丁寧さを上げること。荒い客には、今後は丁寧に断っていくこと。
女中たちの顔が、少しずつ変わった。
赤毛の女中は、腕を組んだまま動かなかった。何かを測るように、イルゼを見ていた。納得しているのか、していないのか。表情からは読めなかった。
地味な印象の女中は、静かにうなずいた。感情を表に出さない人間だと思っていたが、どこかで思うところがあったのかもしれない。
若い女中は、視線を落としていた。
上の部屋の話は、出なかった。今日はここまで、という判断だろう。
(順番がある、ということなんだろう。イルゼに任せたところだ)
女中たちが散っていく中、フィナはその場に少し残っていた。赤毛の女中の後ろ姿を、見ていた。
見えなくなるまで、動かなかった。
フィナが何か言いかけた気がした。でも声はなかった。
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午後から、座席の配置を変えた。
フィナが手伝った。テーブルを二人がかりで引きずると、石畳に重い音が響いた。
「こっちに動かしますか」
「そう。もう少し奥に」
テーブルを動かすたびに、入口から見える景色が変わった。向かいに座った相手の顔が見えて、でも隣の卓の声は気にならない。そういう距離感を作りたかった。
「なんでそんなに細かく動かすんですか」
フィナが聞いた。不満ではなく、本当に知りたそうな顔だった。
「座る場所で、話の中身が変わるから」
「場所で?」
「隣の声が聞こえると、人は声を潜める。声を潜めると、本音が出にくくなる。商人が仕事の話をしたい夜には、そこまで考える」
フィナがしばらく考えるような顔をした。それから、テーブルのもう片方を持った。「もう少しこっちですか」
「そう」
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蝋燭の位置を決めるのに、時間がかかった。
フィナが台を運んできた。「ここでいいですか」と毎回確認した。「もう少し右」「そこでいい」「いや、戻して」——細かいやりとりが続いた。
作業の途中で、フィナが手を止めた。目が合った。
「そこ、もう少し奥」
「……はい」
それだけだった。
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夕方近くになって、一度広間の入口から眺めた。
変わった気がする。変わったと思いたいだけかもしれない。でも——
フィナが隣に来た。
「変わりましたね」と、静かに言った。
「そう思う?」
「はい」
でも、フィナの目は広間を見ていなかった。どこか別のものを見ていた。
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夕暮れ時、宿から使いが来た。
カルロからの返事だった。「喜んで。三日後の夜にお伺いします」
(来る)
小さいことだ。でも——最初の一手だ。
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「今夜——少し話さない?」
作業道具を片付けているフィナの背中に、声をかけた。フィナが振り返った。少し、間があった。
「……はい」
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仕事が終わって、部屋に来てもらった。向かいに座った。
「このところ、ちゃんと話せていないと思って。最近どう。何か気になることある?」
フィナが少し間を置いた。「何もないですよ」
「そう?でも——」
「それより、カルロさん、見つかりましたか?」
(……話を、そらされた)
だが、話し始めると、止まらなかった。
カルロが来れば、空気が変わる。空気が変われば、来る客が変わる。来る客が変われば、値段を変えられる。そこまで持っていければ、次の一手が打てる。イルゼも動ける。この店が、本当に変わる。
フィナは、聞いていた。ように見えた。一度だけ、視線が手元に落ちた。追いついていない目だった。
「……どれくらいかかりますか」
「半年、いや、もう少しかかるかもしれない。でも方向は間違っていない。絶対に変わる」
少し、間があった。
「そうですか」
「変わるよ、この店。本当に」
フィナが、少し遅れて、うなずいた。
ふと、フィナの顔を見た。
口元が、少し笑っていた。目は、合わなかった。
「……明日も早いので、今日はそろそろ」
フィナが立ち上がった。思ったより、早かった。
「……マーケタさん」
「うん」
「——おやすみなさい」
扉が閉まった。しばらく、部屋に一人だった。
何かが、あったのかもしれない。フィナの、夕方の——どこを見ていたんだろう。
(ちゃんと話せていないと思って、呼んだのに)
立ち上がりかけた。やめた。行って、何を聞くんだ。
——もう少しだけ、扉の方を見ていた。




