第17話 吟遊詩人
朝、イルゼが短く言った。
「今日、ビールが切れた。仕入れの手配を間違えた。今日は店を開けられない。みんなも休んでいいぞ」
それだけだった。説明も、謝罪もなかった。
でも——思いがけない一日が、空いた。
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部屋に戻ろうとしたところで、フィナが来た。
「……一緒に出ませんか」
フィナから誘ってきたのは、はじめてだった。
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フィナが先に立って歩いた。普段と違う道を選んでいた。目的があるような、ないような歩き方だった。
市場の中を通った。屋台の前で立ち止まって、焼いた何かを一つ買って、半分を渡してきた。
「……落ち込んでいるときは、食べた方がいいです」
前を向いたまま言った。こちらの顔は見ていなかった。
「……そんなに、わかりますか」
「……わかります」
それだけだった。でも——昨日の重さが、少し薄れた気がした。
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城門を抜けると、景色が開けた。フィナが少し立ち止まって、遠くを見た。
「外に出たのは、久しぶりです。遠くに行ったことがないから——この先が、どんな場所か、想像するんです」
「どんな場所だと思う?」
「……たぶん、ここと似た場所だと思います。でも——少しだけ違う何かがある」
しばらく、二人で遠くを見ていた。
風が、草を揺らしていた。
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街に戻りかけたとき、城門の近くに屋台が出ていた。蜂蜜を塗った焼きたてのパンを売っていた。
「……あれ、食べたことありますか」
「ない」
「食べましょう」
断る前に、フィナが先に動いていた。
渡されたものを口にした。甘かった。予想より、ずっと甘かった。
「……甘いね。それもすごく」
「甘いですよ」
当然というように言った。耳が、ぴんとしていた。
「知っていたなら、先に言ってほしかった」
「……顔を見たかったので」
止まった。フィナはもう前を向いていた。
思わず、笑った。久しぶりに、理由のない笑いだった。
詰まっていたものが、少し抜けた気がした。
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広場の端を通りかかったとき、人が少し集まっていた。
歌ではない。話している。
旅の話だった。遠い街の話、誰かが誰かに何かを届けた話——聴衆が笑ったり、黙ったりしていた。
(うまい)
近づいた。
話し手は若くなかった。旅慣れた雰囲気の男だった。荷物が多い。でも——歩き方は軽やかだった。話しながら、聴衆を一人一人見ていた。顔を読んでいる目だった。
話が終わると、人が散っていった。男が荷物を整え始めた。
「……旅をされているんですか」
男が振り向いた。こちらを一目見た。少し表情が動いた。
「そうですよ。あなたは?」少し間があった。「——詰まっている顔をしている」
「そんなに、わかりますか」
「旅をしていると、顔を読む癖がつく」男は荷物を肩にかけ直した。「いい話を聞かせてもらった土地の顔も、いい店で迎えてもらった夜の顔も——みんな覚えていますよ。どちらの顔をしているかで、だいたいわかる」
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自然に、話し込んだ。男はカルロと名乗った。各地を渡り歩いていた。どこへ行っても、最初に立ち寄るのは酒場だという。
「なぜ酒場ですか」
「情報が集まるから。誰が来ていて、何を話しているか——それを聞けば、その街のことがわかる」
「……酒場を選ぶ基準は、ありますか」
少し考えた。「話しやすい場所かどうか、ですね。声が大きすぎると聴けない。地元の顔ばかりだと、旅の話が来ない」
「旅の話、というのは」
「ほかの街の話。ほかの商人の話。どこで何が起きているか——旅の人間が持ち込む話は、ここでしか聞けない。だから、旅の人間が集まる場所には、また旅の人間が来る」
止まった。
(旅の人間が情報を持ち込む。その情報を求めて、また別の人間が来る——)
「……あなたのような方が、ある店に続けて来るようになったら、どうなりますか」
カルロは少し首をかしげた。「評判が立つ、でしょうね。あそこに行けば何かわかる、という」
フィナが横で、黙って聞いていた。
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しばらく話して、別れ際になった。カルロが荷物を肩にかけながら、ふと言った。
「あなたたちは、酒場で働いているんですか」
「……わかりますか」
「言ったでしょ、顔を読むのが得意なんですよ」カルロは少し笑った。「どこの店ですか」
「傾いた樽亭、といいます」
「……今度、立ち寄ってみますよ」
決めていたわけではなさそうだった。口から出た言葉、という感じだった。
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帰り道、フィナと二人で歩いた。
「今日は——ありがとう」
「いいえ」フィナは少し間を置いた。「役に立てたなら、よかったです。……ちょっと楽になった顔をしています」
「そんなに、顔に出るかな」
「出てますよ」
フィナが笑った。耳が、ふわりと揺れた。
(稼ぎ方を変えずに——客層だけを変えようとしていた)
そこが間違いだった。
客層を変えるのではなく、店の性格ごと変える。あの吟遊詩人が来る店になれば——情報を求める商人が来る。商人が来れば、吟遊詩人にとっても来る価値が増す。その循環が、上の部屋への依存を薄めていく。
でも——それだけでは足りない。
移行期間の穴をどう埋めるか。イルゼが抱えている人間たちをどうするか。そもそも——ビジネスの話だけで、イルゼは動くか。
イルゼの部屋を思った。棚の端の、布の人形。長く生きてきた時間。感情を実務で包んできた人間だ。でも——感情がないのではない。
この人を動かすには——もう一つ、要る。
ビジネスの答えは出た。でも——それだけでは足りない。




