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傾いた樽と真珠 ~転生先は酒場兼娼館だった。武器は、前世の知識だけ~  作者: 華雪β
第3章 設計図を描く

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第13話 棄却と逆転

閉店の作業が終わった。


フィナと二人で、最後のテーブルを拭いた。椅子を上げ、床を掃き、残った食器を厨房へ運んだ。ランプを絞って、店の中がぐっと暗くなった。


廊下を歩いて、フィナを部屋に招いた。


フィナを手で示した。「座って」


床に座布団を出した。自分も壁に背をもたせた。


(街を歩いた日から、ずっと引っかかっていることがあった。四軒のどこにも、女性客がいなかった。そこに——何かある)


「一つ、仮説がある。新しいお客さまとして——女性のお客さまを呼ぶ、というのはどう思う?」


フィナは少し間を置いた。


「……難しいと思います」


「どうして?」


「財布を持って出られる女性が、そもそも少ないんです。夫がいれば夫が、父親がいれば父親がお金を持っている」フィナが少し止まった。「それに——酒場に単独で来る女性は……そういう人だと思われます。この街に限らず、どこでも」


これはフィナ自身が知っている現実だ。頭の話じゃない。


(——思い出した。街に出たとき、『柱の店』の前で声をかけた男の顔を。「もうすぐ開きますか」と聞いた瞬間の、あの怪訝な表情を。あれは——女が一人で酒場の前に来て声をかけた、それだけで出た顔だったのか。)


「……そう」


「違いましたか?」


「いえ——正しいと思います」


棄却。一拍で、終わった。


---


少し間があった。でも——頭に何かが引っかかっていた。棄却した仮説の、端の方に。


(市場の端で、旅の商人が話しているのを聞いた。評判が、人より先に歩いている——あのとき気づいたことだ。ならば——どんな評判が先に歩けばいいか、設計できる)


「女性が来られる評判だけは——使えないか」


独り言のように言った。フィナが顔を上げた。


「……どういうことですか」


「女性が来ても大丈夫だという評判の店には、どんな人が来ると思う?」


フィナは少し首をかしげた。「……怖くない人、ということですか」


「ええ。乱暴な客が来にくい店は——乱暴な場では話せないことを、話せる場所でもある」


フィナは黙って聞いていた。


「大事な話をしたい人。誰に聞かれるかわからない場所では話せないことを、話したい人」


しばらく間があって、フィナが言った。「……旅の方、ということですか」


止まった。


「……なぜ旅の方を?」


「商いをしている方は——話を聞かれたくないことが、たくさんあると思うから。どこへ行くか。何を売り買いするか。誰と会うか」フィナは少し間を置いた。「黒熊亭では、話せないですよね。ああいう場所では」


(そうだ)


街を歩いたとき、気になっていたことがあった。黒熊亭は騒がしすぎて、大事な話ができない。『柱の店』は地元の顔が中心で、旅の人間には入りにくい。『格の高い店』は別の世界だ。——どの店も、旅の人間が信頼して話せる場所として、設計されていない。


「フィナ、旅の方と話したことはある?」


「……はい、少し」


「どんな話を?」


「その方が行ってきた街のことを。市場の話、川の話、聞いたことのない食べものの話——」少し間があって、「私は、遠くへ行ったことがないから」


静かだった。


「そういう話をしてくれる人が、また来てくれたら——うれしいと思う?」


「……来てくれたら、うれしいと思います」


(そこに、空白がある)


旅の人が来れば——フィナのように、遠くの話を聞きたい人間がいる。そういう場所には、また旅の人が来る。黒熊亭・『柱の店』と同じ客を奪い合わない。今ここにいない客を——作り出す。


(見えた)


「わかった」と、声に出た。


フィナが顔を上げた。耳が、少し前を向いた。「何がですか?」


「どんな店にするか」


---


翌朝、イルゼが帳場を出るところを見かけた。


「少し——よろしいですか」


イルゼは一瞬だけこちらを見て、何も言わずに廊下を歩き始めた。「ついておいで」


---


狭い部屋だった。


でも乱雑ではない。年季の入った棚に書き付けが几帳面に重ねてある。使い込まれた椅子。蝋燭の跡のついた卓。布張りの窓の向こうに、裏通りの気配。


棚の端に、小さな布の人形があった。手縫いで、古かった。部屋の他のものとは、少しだけ雰囲気が違った。


(この部屋には、この人が長く生きてきた時間がある)


イルゼは椅子に腰を下ろした。「さあ、言いな」


話した。


旅の商人や冒険者が信頼して話せる場所にしたい。静かで品があると思われている店には、大事な話をしたい客が来る。そういう評判が先に歩けば——今ここにいない客が、来るようになる。


イルゼは黙って聞いていた。


「なるほどね」


間があった。


「それが儲かるという根拠は?」


「——まだ、小さくて」


「具体的な数字は? 評判を聞いて来た客は何人?」


「…………一人です。でも——」


「そう」


イルゼは書き付けに目を移した。


「やってみたいことはわかった。でも、あたしは気分でこの店を動かさない」


「もっと見せてみな。話はそれからだ」


それだけ言って、書き付けに戻った。


---


廊下に出た。


扉が閉まった。


(準備せずに来た)


それだけのことだった。でも——じわりと、熱いものが残った。


根拠。数字。証拠——それが要る。


「もっと見せてみな」という言葉を、頭の中に残していた。


完全な拒絶ではない。それだけは、わかった。


「次は、それを持っていく」


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