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傾いた樽と真珠 ~転生先は酒場兼娼館だった。武器は、前世の知識だけ~  作者: 華雪β
第3章 設計図を描く

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第12話 何を変えるか

二日後、フィナが仕事に戻ってきた。


朝、階段を降りてくる音がした。一段ずつ、いつもより少しゆっくりした足音だった。ドアが開く前に、わかった。


「おはようございます」


「……おはよう」


傷はまだあった。口元から顎のあたりに、うっすらと色が残っていた。目が合うと、フィナはいつものように少し頭を下げた。エプロンを結んで、仕込みの棚の前に立った。


何事もなかったように——でも、ここに戻ってきた。


(そうか)


二人のリズムが、また始まった。


---


店主はフィナに何も言わなかった。


帳場でいつも通り書き付けをしていた。フィナが挨拶をすると、「そこの補充もやっといてな」と棚を指さしただけだった。


なのに——フィナの肩が、少しだけ落ちたのが見えた。


(安心したのかもしれない)


大丈夫か、と聞かれることより。補充を頼む、と言われることの方が——この人にとっては一番いいのかもしれない。いつも通りに扱われることが、戻ってきたことの証明になる。


店主のやり方は、こういうものだ。


仕込みをしながら、フィナを見ていた。傷のことを、何も言わなかった。フィナも何も言わなかった。それでよかった。午前中、フィナはいつも通り動いた。火の番、素材の下処理、棚の確認。手が馴れた動きをしている。もともとここにいた人間のように、この場所を知っている。


仕込みの途中、フィナが言った。


「イルゼさんが——今日は魚を多めに使ってほしいって」


マーケタは一拍、止まった。


「……イルゼさん」


「はい?」


「いや——」


「何ですか?」


「……何でもない。わかった」


フィナは気にしていなかった。普通のことのように、仕込みを続けた。


(店主の名前を、今まで知ろうともしなかった)


頭の中では、ずっと「店主」のままだった。名前があるのに——なぜ今まで気にしなかったのか。


イルゼという名前の人間が、この店を長く動かしてきている。


(この人のことを、ほとんど知らない)


それが少し、引っかかった。


---


開店前の時間、少し人が減った。仕込みが落ち着いて、フィナが棚の整理をしていた。今なら——と思った。


「少し、聞いていい?」


フィナが振り向いた。「はい」


「外に出た日から、ずっと考えていたことがあって」


「この場所を——変えたいと思っている」


「……変える」


フィナの手が止まった。


「今みたいな仕事じゃない店にしたい。もっと品のある——ちゃんとした店に」


間があった。


「……そんなこと、できるんですか」


「わからないけど——考えてみたい」


続けた。「フィナに聞きたかったの。どんな店だったら——ここに来やすいと思う?」


フィナは少し考えた。「……私に聞くんですか」


「あなたが一番、この場所のことを知ってると思う」


それだけ言って、待った。


フィナは黙っていた。少し長い沈黙だった。外の通りで荷車が通る音がして、また静かになった。フィナの耳が、ゆっくりと動いた。


ぽつりと、言った。


「……静かだったら、いいな、と思います」


声が少し低くなっていた。「お酒を飲みながら、ただ話せる——そういう場所」


「怖い人が来ない、ということですか」


フィナが少し止まった。


「怖い人が……来ないというより」


「ええ」


「怖くなくていい場所、というか」


---


(怖くなくていい場所)


黙って、その言葉を転がした。


あの部屋が、浮かんだ。


ぬいぐるみが並んでいた。熊。すり減った毛並み。抱かれ続けた跡。棚に、床に、ベッドの足元に——部屋中に、ぬいぐるみがあった。何かにつかまっていないと、そこにいられなかった子の部屋。


フィナだけじゃない、と思った。この子も——ずっと怖かったはずだ。


「心が戻る日のために、幸せな人生を作る」


誓ったことを思った。渡せるものというのは——こういうことだ。


「そういう場所を——作れると思う?」


声に出して、フィナに聞いた。


「……わかりません」


フィナはすぐには答えなかった。「でも」


「でも?」


少し間があった。「あったら、いいな、とは思います」


---


少しだけ間があって、今度はフィナの方から聞いてきた。


「……今とは違うお客さまに、来てほしい、ということですか」


「そう」


「どんな人ですか」


少し間があった。「……まだ、はっきりとは言えなくて。でも——フィナが話したいと思えるような人、という気がしている」


「私が話したいと思える人、ですか」


「ええ」


フィナは聞いていた。


「そういう人が来たら——フィナはどうしたいと思う?」


「……お話しできたら、と思います」


「どんな話を?」


フィナが少し首をかしげた。「……その方のことを、もっと知りたいと思います。どんなことが好きなのか。今日はどんなことがあったか——そういうことを、聞いてみたいと思います」


「それを話せる場所があれば、また来ると思う?」


「……来ると思います」


少し間があった。「私は、来たいと思います」


(来たいと思います)


フィナ自身の言葉だった。「来てほしい」ではなく、「来たい」。


---


フィナの言葉を頭の中で転がした。


「怖くなくていい場所」「ただ話せる場所」「相手のことを知れる場所」。


「話せる」という言葉が残った。でも——まだ足りない気がした。静かで品があって、話せる——それだけなら、どの方向にでも解釈できる。


『格の高い店』の方向か。『柱の店』の方向か。


でも——どちらでもない気がした。あの二軒と同じことをしても、埋まらない場所は埋まらない。


(もっと違う何かが、ある)


フィナの言葉の先に、何かがある気がした。


まだ言葉になっていなかった。でも、輪郭が少し見えてきた気がした。


この世界にそういう店はあるか——と考えた。


ない、と思った。見て回った四軒のどこも違う。だから難しい。でも——だから、できるかもしれない。


「フィナ、今夜——閉めた後で、少し話せる?」


「はい」と言った。今度は、少し早く返事が来た。


フィナはもう棚に向き直っていた。でも——その耳が、少しだけ動いた。


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