第12話 何を変えるか
二日後、フィナが仕事に戻ってきた。
朝、階段を降りてくる音がした。一段ずつ、いつもより少しゆっくりした足音だった。ドアが開く前に、わかった。
「おはようございます」
「……おはよう」
傷はまだあった。口元から顎のあたりに、うっすらと色が残っていた。目が合うと、フィナはいつものように少し頭を下げた。エプロンを結んで、仕込みの棚の前に立った。
何事もなかったように——でも、ここに戻ってきた。
(そうか)
二人のリズムが、また始まった。
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店主はフィナに何も言わなかった。
帳場でいつも通り書き付けをしていた。フィナが挨拶をすると、「そこの補充もやっといてな」と棚を指さしただけだった。
なのに——フィナの肩が、少しだけ落ちたのが見えた。
(安心したのかもしれない)
大丈夫か、と聞かれることより。補充を頼む、と言われることの方が——この人にとっては一番いいのかもしれない。いつも通りに扱われることが、戻ってきたことの証明になる。
店主のやり方は、こういうものだ。
仕込みをしながら、フィナを見ていた。傷のことを、何も言わなかった。フィナも何も言わなかった。それでよかった。午前中、フィナはいつも通り動いた。火の番、素材の下処理、棚の確認。手が馴れた動きをしている。もともとここにいた人間のように、この場所を知っている。
仕込みの途中、フィナが言った。
「イルゼさんが——今日は魚を多めに使ってほしいって」
マーケタは一拍、止まった。
「……イルゼさん」
「はい?」
「いや——」
「何ですか?」
「……何でもない。わかった」
フィナは気にしていなかった。普通のことのように、仕込みを続けた。
(店主の名前を、今まで知ろうともしなかった)
頭の中では、ずっと「店主」のままだった。名前があるのに——なぜ今まで気にしなかったのか。
イルゼという名前の人間が、この店を長く動かしてきている。
(この人のことを、ほとんど知らない)
それが少し、引っかかった。
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開店前の時間、少し人が減った。仕込みが落ち着いて、フィナが棚の整理をしていた。今なら——と思った。
「少し、聞いていい?」
フィナが振り向いた。「はい」
「外に出た日から、ずっと考えていたことがあって」
「この場所を——変えたいと思っている」
「……変える」
フィナの手が止まった。
「今みたいな仕事じゃない店にしたい。もっと品のある——ちゃんとした店に」
間があった。
「……そんなこと、できるんですか」
「わからないけど——考えてみたい」
続けた。「フィナに聞きたかったの。どんな店だったら——ここに来やすいと思う?」
フィナは少し考えた。「……私に聞くんですか」
「あなたが一番、この場所のことを知ってると思う」
それだけ言って、待った。
フィナは黙っていた。少し長い沈黙だった。外の通りで荷車が通る音がして、また静かになった。フィナの耳が、ゆっくりと動いた。
ぽつりと、言った。
「……静かだったら、いいな、と思います」
声が少し低くなっていた。「お酒を飲みながら、ただ話せる——そういう場所」
「怖い人が来ない、ということですか」
フィナが少し止まった。
「怖い人が……来ないというより」
「ええ」
「怖くなくていい場所、というか」
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(怖くなくていい場所)
黙って、その言葉を転がした。
あの部屋が、浮かんだ。
ぬいぐるみが並んでいた。熊。すり減った毛並み。抱かれ続けた跡。棚に、床に、ベッドの足元に——部屋中に、ぬいぐるみがあった。何かにつかまっていないと、そこにいられなかった子の部屋。
フィナだけじゃない、と思った。この子も——ずっと怖かったはずだ。
「心が戻る日のために、幸せな人生を作る」
誓ったことを思った。渡せるものというのは——こういうことだ。
「そういう場所を——作れると思う?」
声に出して、フィナに聞いた。
「……わかりません」
フィナはすぐには答えなかった。「でも」
「でも?」
少し間があった。「あったら、いいな、とは思います」
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少しだけ間があって、今度はフィナの方から聞いてきた。
「……今とは違うお客さまに、来てほしい、ということですか」
「そう」
「どんな人ですか」
少し間があった。「……まだ、はっきりとは言えなくて。でも——フィナが話したいと思えるような人、という気がしている」
「私が話したいと思える人、ですか」
「ええ」
フィナは聞いていた。
「そういう人が来たら——フィナはどうしたいと思う?」
「……お話しできたら、と思います」
「どんな話を?」
フィナが少し首をかしげた。「……その方のことを、もっと知りたいと思います。どんなことが好きなのか。今日はどんなことがあったか——そういうことを、聞いてみたいと思います」
「それを話せる場所があれば、また来ると思う?」
「……来ると思います」
少し間があった。「私は、来たいと思います」
(来たいと思います)
フィナ自身の言葉だった。「来てほしい」ではなく、「来たい」。
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フィナの言葉を頭の中で転がした。
「怖くなくていい場所」「ただ話せる場所」「相手のことを知れる場所」。
「話せる」という言葉が残った。でも——まだ足りない気がした。静かで品があって、話せる——それだけなら、どの方向にでも解釈できる。
『格の高い店』の方向か。『柱の店』の方向か。
でも——どちらでもない気がした。あの二軒と同じことをしても、埋まらない場所は埋まらない。
(もっと違う何かが、ある)
フィナの言葉の先に、何かがある気がした。
まだ言葉になっていなかった。でも、輪郭が少し見えてきた気がした。
この世界にそういう店はあるか——と考えた。
ない、と思った。見て回った四軒のどこも違う。だから難しい。でも——だから、できるかもしれない。
「フィナ、今夜——閉めた後で、少し話せる?」
「はい」と言った。今度は、少し早く返事が来た。
フィナはもう棚に向き直っていた。でも——その耳が、少しだけ動いた。




