③ 人との関わり方の変化
振り返ると、私は人との関わり方について多くのことを考えるようになった。
十五歳の頃の私は、別れについて深く考えたこともなかった。
しかし二十八歳になろうとしている今の私は、人との関係には始まりがあり、終わりがあることを知っている。
どれほど大切な人であっても、別れが訪れることがある。
私はそのことを、この十一年間で知った。
また私は、人との関係は続いた長さだけで決まるものではないということにも気づいた。
一年間でも人生を変える出会いはある。
三年間でも忘れられない人はいる。
八年間続いた関係もある。
時間の長さではなく、その人との間に何が残ったのかが大切なのだと思うようになった。
そして振り返ると、私自身の人との関わり方も少しずつ変化してきたように思う。
思春期に出会った「彼」との関係は、手紙を通じた非対面の関係だった。
当時の私は、人と直接関わることに強い緊張を抱いていた。
特に異性に対しては意識してしまう部分もあった。
もし実際に会うことになったらどうなるのだろう。
何を話せばよいのだろう。
緊張してしまうのではないだろうか。
そんなことを考えていた。
だからこそ当時の私にとって、手紙という距離感は安心できるものだったのかもしれない。
一方で、成人期に出会った「彼女」との関係は対面だった。
同じ場所で顔を合わせ、言葉を交わし、日常の出来事について話をする。
思春期の頃の私には難しかった関わり方だったように思う。
もちろん今でも人と話すことが得意なわけではない。
人間関係に悩むこともある。
しかし振り返れば、私は少しずつ人との距離の取り方を学んできたのだと思う。
非対面の関係から対面の関係へ。
思春期から成人期へ。
その変化の中で私は、人との関わり方そのものを学んできたのかもしれない。
また私は、人との関わりには必ずしも自分の思い通りにならないことがあるということも知った。
思春期に出会った「彼」の時には、別れの前に郵便局を通して折り鶴を渡すことができた。
だからこそ私は、成人期に出会った「彼女」の時も、同じように折り鶴を渡せるものだと思っていた。
彼同様に、きっと喜んでくれるだろう。
彼同様に、彼女もお守りとして次の転勤先へ持っていってくれるかもしれない。
そんなことを考えていた。
しかし現実には、彼の時と同じようにはならなかった。
彼女はすでに転勤しており、直接折り鶴を彼女本人に渡すことも、その感想を本人から聞くこともできなかった。
私は他の美容部員を通して折り鶴を託すことになったのである。
そのため彼の時のように、自分の思いが届いたのかどうかを知ることはできなかった。
私はその経験を通して、人との関係には「できたこと」だけではなく、「できなかったこと」や「確かめられなかったこと」も残るのだと知った。
昔の私は、人を信頼することにも慎重だった。
また、自分一人で頑張らなければならないと思うことも多かった。
しかし今振り返ると、自分一人の力だけでここまで来たわけではなかった。
誰かの言葉に励まされ、誰かの存在に支えられ、誰かとの出会いによって前へ進んできたのである。
だからこそ今の私は、支えられることを恥ずかしいことだとは思わない。
人は誰かに支えられながら生きていくものなのだと思う。
そして、人との出会いによって人生が変わることもあるのだと知った。
だからこそ以前よりも、人との関係を大切に考えるようになったのである。
いつか自分も、誰かを支えられる人間になれたらと思う。
それが十五歳の頃にはなかった、人との関わり方の変化なのかもしれない。
また私は、人との出来事を長く記憶に留める傾向があるようにも思う。
別れの出来事を何年経っても覚えていることがある。
折り鶴のような小さな出来事に強い意味を見出してしまうこともある。
相手に自分の思いが届いたのだろうかと何度も考えてしまうこともある。
彼や彼女に関連する場所や景色や物を見るだけで、当時の記憶が鮮明に蘇るフラッシュバックが起きることもあった。
それが発達障害の特性によるものなのか、それとも私自身の性格によるものなのかは分からない。
しかし少なくとも私は、人との出会いや別れを簡単には忘れられない人間なのだと思う。
だからこそ十一年経った今でも、私は家庭教師や彼や彼女との出来事を書き続けているのかもしれない。




