① 障害者雇用
二十八歳になろうとしている今、私は社会人として働いている。
しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
大学卒業後、私は障害者生活訓練と就労移行支援を利用しながら社会へ出る準備を続けてきた。
そして二〇二四年、初めて就職した。
葬儀用の花を扱う会社だった。
しかし、社会人として働くことは簡単ではなかった。
その会社は障害者雇用を募集していたものの、これまで発達障害者や障害者雇用の実績がほとんどない職場だった。
一次面接の時のことは今でも覚えている。
人事担当者は私にこう尋ねた。
「ADHDとかASDって、僕よく分からないんだけど。」
悪気があったわけではなかったのかもしれない。
しかし私は、その言葉を聞いた時に小さな不安を覚えた。
発達障害について十分な理解がないまま、私は働くことになるのではないか。
そんな予感があったのである。
そしてその予感は、残念ながら少しずつ現実になっていった。
障害者雇用として働いていたにもかかわらず、最後の数か月は厳しい状況に置かれていた。
健常者と同じ基準で七つの業務すべてに満点を求められ、それが契約更新の条件として示されたのである。
私には得意な業務もあれば苦手な業務もあった。
しかし障害特性による得意不得意が十分に考慮されることは全くなかった。
どの業務も健常者と同じ水準でできることが求められていた。
結果として私は契約を更新されなかった
さらに言えば、仮にその七つの業務すべてで求められた評価を達成し、契約が更新されていたとしても、私は働き続けることに迷いを感じていたかもしれない。
当時の私は、その評価基準そのものに終わりが見えなくなっていた。
本来、職場には十四種類の業務があった。
しかし私が求められていたのは、そのうち七つの業務だった。
私は当時、もしその七つすべてで高い評価を得られたとしても、今度は残りの七つの業務が新たな目標として求められるのではないかと感じていた。
そして、その先にはさらに別の課題や目標が現れるのではないかとも考えていた。
もちろん実際にどうなっていたかは分からない。
しかし当時の私には、どこまで努力すれば認められるのか、その終わりが見えなくなっていたのである。
障害者雇用として入社したはずだった。
けれど私には、障害特性による得意不得意よりも、健常者と同じ基準で結果を求められていた。
だから苦しかったのは契約更新の問題だけではなかった。
自分がどこを目指して働けばよいのか分からなくなっていたことも、大きな理由だったのである。
しかし今振り返ると、私にとって本当に苦しかったのは契約終了そのものだけではなかったように思う。
当時の私は、心にも身体にも大きな負担を抱えていた。
七つの業務に対する評価へのプレッシャーは想像以上に大きかった。
障害特性上、得意なこともあれば苦手なこともある。
しかし私は、その違いを十分に考慮されないまま結果を求められていなかった。
そのため常に緊張しながら働いていた。
職場の人間関係も少しずつ悪化していた。
思うようにいかない仕事への焦り。
評価への不安。
周囲との距離感への悩み。
様々なことが重なり、私は次第に追い詰められていった。
身体にも変化が現れ始めていた。
疲労が抜けなくなり、体調も崩れかけていた。
心も身体も限界に近づいていたのかもしれない。
人間関係も少しずつ悪化していた。
特に前職で印象に残っている出来事がある。
更衣室のロッカーだった。
当時、一人の同僚が私のロッカーに私の許可なく勝手に業務上の注意事項を書いた付箋を貼るようになったのである。
最初は一枚や二枚だった。
しかし次第に枚数は増えていった。
多い時には一日に十枚近く貼られていたこともあった。
中には「剥がさないでください」と書かれた付箋まであった。
私は毎日自分のロッカーを見るたびに気持ちが重くなり、更衣室に行くことが嫌になっていった。
私には、それが学校で机に落書きをされているような感覚に思えたのである。
人事担当者も「やり過ぎだ」と話していた。
しかし、それがすぐになくなることはなかった。
そして、そのような時期に『九年差の同じ別れ』第二章に登場する彼女の転勤があった。
彼女の転勤を知ったのは二〇二五年一月十八日だった。
その知らせは、ただの転勤の報告ではなかった。
当時の私には、自分の居場所が少しずつ失われていくように感じられていた。
仕事の先行きも見えない。人間関係も変わろうとしている。
仕事への不安だけではない。職場の中で自分がどのように見られているのかも分からなくなっていた。
そして何より苦しかったのは、先が見えなくなっていたことだった。
私は自分の次の居場所がまだ決まっていなかった。これからどうなるのか分からなかった。先の見えない不安の中にいたのである。
そんな不安のただ中で、私は彼女との別れを受け入れなければならなかったのである。
しかし今振り返ると、それは九年前にも経験していたことだった。
それは『九年差の同じ別れ』第一章に登場する思春期に出会った「彼」との別れである。
彼が転勤したのは、私が高校三年へ進級する直前だった。
高校卒業後の進路も決まっていなかった。大学へ進学するのか。将来どうなるのか。
まだ何も見えていなかった。
そんな不安の中で私は彼との別れを経験したのである。
そして彼女が転勤した時も、私は次の職場が決まっていなかった。
これからどこで働くのか。どのような社会人になっていくのか。
やはり何も見えていなかった。
九年の時を隔てて起きた二つの同じ別れ。
振り返ると、その共通点は転勤だけではなかった。
どちらも私が人生の分岐点に立っていた時期に起きていたのである。
今振り返ると、そこには私自身の発達障害の特性も関係していたのかもしれない。
私は昔から人との関係を深く記憶する傾向があった。
環境の変化にも強い不安を感じやすく、一つの出来事を長く引きずることも少なくなかった。
彼との別れの後、私は受験勉強に集中できなくなり、成績も思うように伸びなかった。
そして彼女の転勤を知った時も、その出来事を職場や家にまで持ち帰ってしまっていた。
気持ちの整理がつかず、業務にも影響が出ていた。
体調もさらに悪化していった。
もちろん、それだけが理由ではない。
彼も彼女も私にとって大切な存在だった。
しかし今になって思う。
転勤という環境の変化と、大切な人との別れが同時に起きたことで、私は二つの出来事をより強く受け止めてしまったのかもしれない。
だからこそ私は、その二つの別れを今でも強く覚えているのだと思う。
そして今の私は、その二つの別れを経験した先に立っている。
当時は見えなかった未来も、今では少しずつ形になっている。
もちろん人生の不安がなくなったわけではない。
しかし少なくとも私は、先の見えない不安の中でも歩き続けることを、この九年間で学んできたのである。
二〇二五年十月、私は再び花の仕事に就いた。 前の会社の上司が紹介してくれた就労継続支援A型事業所だった。
再び働き始めたことで、私は少しずつ前を向けるようになった。
もちろん人生は思い通りにはいかない。 悩みも不安も今なおある。
それでも十五歳の頃の私と比べれば、一つだけ分かることがある。
先が見えない状況の中でも生き続けること。 すぐに答えが出なくても前へ進むこと。
それを私は、この十一年間で少しずつ覚えてきたのである。
二十八歳になろうとしている今、私は自分の人生の現在地を見つめている。
何が変わったのだろうか。 何が変わらなかったのだろうか。 そして私は、どのような大人になったのだろうか。
私は発達障害を抱えている。
社会へ出てからは、そのことで苦しむ場面も少なくなかった。 障害者雇用だからといって、必ずしも十分な理解や配慮が得られるわけではないことも知った。 社会は思っていた以上に厳しい場所だった。
そして私は、その度に考えなければならなかった。
自分にできることは何なのか。 できないことと、どのように付き合っていけばよいのか。 社会の中で自分らしく働くためには何が必要なのか。
その答えを探しながら歩いてきたように思う。
もちろん今でも答えが見つかったわけではない。 悩むこともある。 迷うこともある。
しかし以前の私と違うのは、自分の特性から目を背けなくなったことかもしれない。
発達障害があるから何もできないのではない。 発達障害があっても、自分なりの方法で生きていくしかないのである。
それは簡単なことではない。
けれど私は働くことを諦めなかった。 何度立ち止まっても、もう一度前へ進もうとしてきた。
それは十五歳の頃には持っていなかった力なのかもしれない。
振り返れば、この十一年間で私は多くの人と出会った。
前職では別部署の湯灌職の方と親しくなり、出勤前に話をする時間が私の支えになっていた。
現在の職場にも、気軽に話せる先輩がいる。
振り返ると私は昔から同年代よりも年上の人と親しくなることが多かった。
家庭教師もそうだった。
『九年差の同じ別れ』に登場する彼も彼女も、私より年上だった。
だからこそ私は、人生の節目で出会った年上の人たちから多くのことを学び、支えられてきたのかもしれない。
その一つ一つの出会いが、今の私を形作っている。
私は成功だけでここまで来た人間ではない。 失敗も、挫折も、別れも経験してきた。
それでも歩くことをやめなかった。
もし二十八歳になろうとしている今の私を一言で表すなら、それは「答えを探しながら歩き続ける人間」なのかもしれない。




