第四話 推しじゃなくなる、日
正体がバレてから、何かが変わった。
変わったというより、一枚壁がなくなった感じがした。
るなが私に話しかけるとき、少し前より素に近い。配信の話をするとき、隠す素振りがなくなった。私が古参だと知っているから、全部話せるようになったらしい。
私の方も、以前より少しだけ楽になっていた。
正体を隠す必要がない。ルルナだと知っていることを隠す必要がない。知っている前提で話せる。
それだけで、だいぶ違った。
月曜日の朝、るなが教室に来た。
「こはる、おはよ」
「おはようございます」
「今日の配信見た?」
「昨日の夜のやつですか」
「うん」
「見ました」
「どうだった」
「ゲーム、うまくなってましたよ。二週間前と比べて」
るなが少し目を丸くした。
「二週間前と比べてるの」
「古参なので覚えてます」
「こわいけどうれしい」
「こわいは余計です」
るなが笑った。
以前より自然な笑い方だった。なんか、力が抜けている感じがする。
「昨日の配信、コメント欄に元気そうって書いてる人が多かった」
「そうなんですか」
「うん。最近しんどそうって言われてたから、少し気にしてたんだよね」
「何かいいことがあったんじゃないですか」
「あったよ」
「何があったんですか」
「土曜日、こはると話したから」
さらっと言った。
私は教科書を出す手が止まった。
「私と話したから元気になったんですか」
「そう」
「それは、その」
「うれしくない?」
「うれしいというか、驚いてます」
「なんで驚くの」
「私なんかと話して元気になるのかなって」
るなが少し眉を寄せた。
「なんかって言わないで」
「でも」
「こはるがこはるだから、元気になるの。なんかじゃない」
こういうことをさらっと言う。
私は視線を教科書に落とした。
ホームルームが始まった。
その日の昼休み、いつも通りるなが来た。今日は手に小さな袋を持っていた。
「これ、こはるに」
「何ですか」
「この前のクレーンゲームのやつ、一個しか取れなかったじゃん。それこはるにあげたから、今日はもう一個取ってきた」
袋を開けると、白いクマのぬいぐるみが入っていた。前回の茶色いのとおそろいだ。
「るな、わざわざ行ってきたんですか」
「昨日ちょっと時間があったから」
「私のために?」
「おそろいにしたかったから」
おそろい、という言葉が少し頭に残った。
「ありがとうございます」
「かわいいでしょ」
「かわいいです。大事にします」
るなが満足そうな顔をした。
「るな、一個聞いていいですか」
「なに、なんか丁寧」
「少し真面目な話なので」
るなが少し表情を変えた。聞く顔になった。
「なんでも聞くよ」
「るなって、この先も配信続けるつもりですか」
少し間があった。
「続けるつもり。なんで?」
「最近しんどいって言ってたから、やめたいとか思ってないかなと思って」
「やめたいと思うことはあるよ」
「え」
「たまに。コメントがしんどいときとか、配信がうまくいかないときとか」
「そうなんですね」
「でも続けてる」
「なんで続けるんですか」
るなが少し考えた。
「楽しいから、というのは本当にあって。あと、コメントで助けられることも多くて。それで続けてる」
「コメントで助けられる」
「うん。こはるのコメントもそうだったし」
また私のコメントの話が出た。
「最近もコメントしてくれてるの?」
「してます、毎回ではないですけど」
「こはるのコメント、わかるかも」
「え、わかるんですか」
「なんとなく文体が似てる気がして。あくまで感覚だけど」
これはまずい。
「気のせいじゃないですか」
「そうかもね。でも、もし当たってたら教えてよ」
「考えておきます」
「考えるだけ?」
「教えるかもしれないです、そのうち」
「そのうちね」
るなが笑った。
放課後、今日は図書室に寄ることになった。るなが調べ物があると言い出して、私が案内した。
向かい合って座って、るなが本を読み始めた。
私もそのふりをしながら、横目でるなを観察した。
本に向かっているるなの顔が静かだった。配信のルルナでも、学校のるなでもない、ただ本を読んでいる顔。
こういう顔を見られるのは、今の私だけだろうな、と思った。
「何見てるの」
るなが顔を上げた。
「え、本を」
「私を見てた」
「見てないです」
「見てたよ。どうかした?」
「どうもしてないです。静かな顔してるなと思って」
「静かな顔」
「本を読んでるとき、いつもと違う顔をしますね」
「そう?」
「うん。配信のときとも、学校でみんなといるときとも違って」
るなが少し考えた。
「こはる、私の顔見過ぎでしょ」
「古参だから観察癖がついていて」
「それ言い訳になってないよ」
「すみません」
「謝らなくていい。嫌じゃないから」
るなが本を閉じた。
「こはるさ、好きなものを見るとき、じっと見る感じがするよね」
「そうですかね」
「配信を見るときもそういう感じなの?」
「たぶんそうです。画面に近づいて見ることが多いので」
「画面に近づいて」
「面白いところは特に」
るなが少し笑った。
「それ、リアルで見られてるのと変わらない気がする」
「どういう意味ですか」
「私のこと、画面越しでもリアルでも、同じように見てくれてるんだなって」
「同じかどうかはわかりませんけど」
「同じだよ。こはるはそういう人だから」
るなが私を見た。
「ねえ、こはる。一個聞いていい?」
「なんですか」
「今の私のこと、まだ推しとして好き?」
急な質問だった。
「どういう意味ですか」
「正体バレして、素の部分も見せて、それでもまだ推しって感じがする?」
私は少し考えた。
推しとして好きだった。ルルナとして好きだった。でも今は。
「推しとして、というより」
「うん」
「るなとして好きになってきてる気がします」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
るなが少し目を細めた。
「推しじゃなくなってきた?」
「完全にはまだ、でも、その」
「その?」
「配信のルルナを好きだった気持ちと、今るなを好きだと思う気持ちが、同じじゃなくなってきた感じがします」
るなが黙って聞いていた。
「前は画面の向こうに好きな人がいて、その人の声を聞いて元気になっていた。でも今は、隣にいる人が好きで、その人の顔を見るのが楽しい」
「隣にいる人が好き」
「はい」
「それって、どういう好きなの」
また聞いてくる。
「どういう、というのは」
「推しとして好きとは違うって言ったじゃん。じゃあどういう好きなの」
私は少し下を向いた。
「まだうまく言えないです」
「急がなくていいって言ったじゃん」
「言いましたね」
「こはるのペースでいい。でも、今言ったこと、覚えといてよ」
「何を覚えるんですか」
「隣にいる人が好きで、その人の顔を見るのが楽しいって言ったこと」
るなが少し笑った。
「それ、十分じゃない」
「十分って何が」
「好きだってこと」
また言い返せなかった。
図書室を出て、帰り道を歩いた。
今日は空が少し赤かった。夕方の光が長く伸びて、るなの髪がオレンジに染まっていた。
「こはる、一個だけ言っていい?」
「なんですか」
「土曜日からずっと考えてたんだけど」
「うん」
「こはるが正体隠してたの、責める気は全然なくて」
「え、急に」
「なんか、ちゃんと言っておきたくて。あのまま言えないままでも、一緒にいてくれようとしてたんだなって思うと、それがうれしかったから」
私は少し黙った。
「正体を隠してたのは、言いたくなかったんじゃなくて」
「うん」
「言ったら普通に話せなくなるかもって思ったからで」
「知ってる」
「こはるがるなを好きだったからでしょ」
「そうなります」
るなが少し前を向いた。
「私さ、配信で本当の自分がわからなくなるって言ったじゃん」
「言ってましたね」
「こはると話してると、わかる気がする」
「何がわかるんですか」
「配信のルルナも本物で、学校のるなも本物で、こはるにだけ話せることもあって、全部私なんだって。バラバラじゃなくて、全部同じ私なんだってわかる」
「それは、よかったです」
「こはるがいるから、わかる感じがするんだよね」
るなが横を向いた。
「ありがとう、こはる」
「そんな、私は何もしてないですよ」
「してるって。三週間、そばにいてくれたし、話を聞いてくれたし、見てくれてたし」
「それは、るながそばにいてくれたからで」
「お互いさまじゃん」
るなが笑った。
夕日の中で笑うるなの顔が、今まで見た中で一番素の顔だった。
配信のルルナでも、学校のるなでもない、ただのるなの顔だった。
私はその顔を見て、今まで感じたことのない感覚がした。
推しの顔を見ているときとは違う。推しがきれいだとか、声が好きだとかじゃなくて。
もっと近くにいたい、と思った。
なんで今そういう気持ちになるんだろう。
「こはる、顔が赤い」
「暑いので」
「また暑いって言う。今日涼しいよ」
「るなのせいです」
「え、私のせい?」
「違います、忘れてください」
「忘れない。私のせいなの?」
「違います」
「違わない気がする」
この子は本当に、追いかけてくる。
「るな、少し前を向いて歩いてください」
「なんで」
「顔を見られると困るので」
「困るってことは、やっぱり私のせい?」
「前を向いてください」
「嫌」
「るな」
「こはるの顔が赤いのを見てたい」
言いながら、るなが少し笑っていた。
からかっているのか、本気なのか、この子はたまにわからない。
「るな」
「なに」
「今日の話、配信でしますか」
話を変えた。
「しないよ。こはるのことは配信で話さない」
「なんでですか」
「プライベートだから」
「私のことはプライベートなんですか」
「そう」
るなが少し声のトーンを変えた。
「こはるのことは、リスナーみんなに話すものじゃないから」
それはどういう意味だろう。
「特別扱いしてるということですか」
「そうなるかな」
「なんで私だけ」
「好きだから」
また即答だった。
北口の交差点に着いた。
「また明日ね、こはる」
「また明日です」
「今日、顔赤かったよ」
「知ってます」
「かわいかった」
「早く帰ってください」
るなが笑いながら歩いていった。
私はしばらく立っていた。
推しじゃなくなってきている、と言った。
本当のことだった。
二年半画面の向こうで好きだったルルナのことは、今もちゃんと好きだ。でも今隣にいるるなのことは、それとは違う感じで好きになっている。
隣にいる人が好きで、その人の顔を見るのが楽しい。
自分でそう言った。
図書室で静かに本を読む顔。夕日の中で笑う顔。からかいながら歩く顔。
全部、好きだと思っていた。
これは、どういう好きなんだろう。
家に帰って、るなのチャンネルを開いた。
新しい動画は上がっていなかった。
過去のアーカイブを一つ開いた。二年前の、私が一番最初にコメントした動画だ。
当時のルルナが笑いながら喋っていた。
私はその声を聞きながら、今日のるなの顔を思い出した。
画面の向こうの顔と、今日見た顔が、同じ人だとわかっていて、でも全然違う感じがした。
どちらも好きだった。
どちらも本物だった。
でも、今日の顔の方が、もっと近くで見たいと思っていた。
それが何なのかは、もうわかってきていた。
認めるのが、少し怖かった。
でも、明日もるなに会う。
会ったら、また顔を見てしまう。
また顔が赤くなる。
またからかわれる。
それが、なんか、楽しみだった。




