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『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第二章 鎌倉創業編

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第一話 御家人たちの目

 鎌倉へ入った日、政子は初めて理解した。


 人が集まることと、人が従うことは違う。


 源氏の白旗は、確かに坂東武士たちを呼び寄せた。


 石橋山で敗れ、一度は泥の中へ沈んだはずの頼朝が、安房で息を吹き返し、上総、千葉の大軍を得て鎌倉へ入った。


 その光景だけを見れば、物語は美しい。


 敗れた流人が立ち上がり、かつて見下していた者たちを黙らせる。


 それはたしかに、胸のすく逆転だった。


 だが、政子の目に映った鎌倉は、勝利の都ではなかった。


 まだ、獣たちの寄り合い所だった。


「佐殿、我らは石橋山の時よりお味方するつもりでおりました」


 そう言って頭を下げる男の声に、政子はわずかな濁りを聞いた。


 つもりでいた。


 便利な言葉だ。


 実際には動かなかった者が、後から忠義を差し出す時によく使う。


 頼朝は笑って応じた。


「その心、ありがたく思う」


 笑っている。


 だが、信じてはいない。


 政子には分かった。


 頼朝の目は、相手の頭ではなく、膝の角度を見ていた。深く下げているようで、すぐ立てる姿勢。恭順の形を取りながら、まだ逃げ道を残している。


 鎌倉に集まった武士たちは、皆そうだった。


 平家への不満はある。


 頼朝への期待もある。


 だが、命も土地も家もすべて預けるほど、まだ頼朝を信じてはいない。


 勝ちそうだから寄る。


 負けそうなら離れる。


 その当たり前の浅ましさを、彼らは「武士の現実」と呼ぶのだろう。


 政子は、それを軽蔑しなかった。


 軽蔑しても人は動かない。


 欲深いなら、欲の置き場を作ればよい。


 恐れるなら、恐れの向きを変えればよい。


 誇り高いなら、その誇りを傷つけぬ形で縛ればよい。


 頼朝の隣に立つというのは、恋に酔うことではない。


 こういう男たちを、笑顔で迎え、腹の底で数えることだった。


「政子殿」


 頼朝が声をかけた。


 客人たちが下がった後の広間は、急に広く見えた。


 さきほどまで溜まっていた熱が消え、畳の上に汗と土の匂いだけが残っている。


「疲れましたか」


「いいえ」


「嘘ですね」


「では、少し」


 頼朝は小さく笑った。


「あなたが疲れたと言うのは珍しい」


「戦場へ出るより、こちらのほうが疲れそうです」


「武士たちの相手が?」


「ええ。刀を抜いている時より、頭を下げている時のほうが厄介です」


 頼朝は広間の外へ目を向けた。


 庭の向こうでは、武士たちがまだ集まり、笑い、互いの兵数を探り合っている。


「彼らは、味方です」


「今は」


 政子がそう言うと、頼朝は否定しなかった。


「今は、ですね」


「はい。頼朝殿が勝ち続ける限り、味方です。恩賞が出る限り、味方です。自分の土地が守られる限り、味方です」


「手厳しい」


「あなたが教えたのです」


「余計なことばかり教えている気がします」


「今さらです」


 政子は庭先へ目をやった。


 武士たちの中には、政子を見る者もいる。


 好奇。


 値踏み。


 侮り。


 流人のもとへ走った北条の娘。


 気の強い女。


 頼朝の寵を得た女。


 彼らの目は、そう語っている。


 だが、まだ誰も政子を政治の相手とは見ていない。


 それでいい。


 見くびられている間に、見ておけばよい。


「今日、頭を下げた方々の中で、最も信用できぬのは、三番目に挨拶した方です」


 政子が言うと、頼朝がこちらを見た。


「なぜ」


「頼朝殿のお言葉を聞いている間、二度、隣の者の顔を見ました。自分の判断より、周囲の空気を待っている方です」


「名は」


「工藤殿の縁の者と名乗っておられました」


「覚えていましたか」


「名を覚えないで、何を見るのです」


 頼朝は少しだけ目を細めた。


「では、二番目に危ういのは」


「最初に涙を見せた方です」


「涙?」


「はい。石橋山で馳せ参じられず無念、と仰っていた」


「ああ」


「あの方の涙は、頼朝殿へ向けたものではありません。周囲に見せるための涙です」


「なぜ分かる」


「泣いているのに、袖で目元ではなく口元を隠しました。涙より、言葉を選んでいる」


 頼朝は黙った。


 それから、低く笑った。


「あなたを広間の奥に置いておくのは、敵より味方に恐ろしい」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めています」


「では、もっと褒めてください。私は疲れていますので」


 言ってから、政子は自分で少し驚いた。


 こんな軽口が出るほどには、頼朝のそばにいることに慣れてしまったのかもしれない。


 頼朝も一瞬驚いた顔をし、それから柔らかく笑った。


「よく、見てくれました」


 ただそれだけだった。


 だが政子には、妙に効いた。


 美しい、賢い、頼もしい。


 そういう言葉ではない。


 見てくれた。


 自分の仕事を、役目として受け止めてくれた言葉だった。


「……次も見ます」


「頼みます」


 その時、廊下の向こうから藤乃が現れた。


 鎌倉へ来てからも、彼女は政子のそばにいる。伊豆の館で築いた女たちの耳は、この新しい地でも必要だった。


「政子様、北条殿より使いが」


「父上から?」


「はい」


 政子は頼朝を見た。


 頼朝は小さく頷く。


「会いましょう」


 使いは佐伯だった。


 伊豆から来た時より、顔つきが少し変わっている。


 石橋山を越え、宗時の死を越え、鎌倉へ入った北条の家臣として、彼もまた別の場所へ来たのだ。


「政子様」


「父上は」


「ご無事です。鎌倉にて佐殿へお仕えする支度を進めておられます」


「そう」


 政子は静かに息を吐いた。


 父も来る。


 北条は、もう後戻りしない。


「それで、父上のお言葉は」


 佐伯は一通の文を差し出した。


 政子は受け取り、その場で開いた。


 文は相変わらず短い。


 鎌倉は人が集まりすぎる。

 人が集まれば、欲も集まる。

 佐殿の隣にいるなら、笑顔の下を見ろ。

 宗時の代わりに、見誤るな。


 政子は文を閉じた。


 父らしい。


 慰めも、労りもない。


 だが、信頼だけがある。


 重い信頼だった。


「父上は、私をまだ娘と思ってくださっているのかしら」


 政子がぽつりと言うと、佐伯は困った顔をした。


「それはもう、もちろんでございます」


「では、なぜこんなに容赦がないのでしょう」


「時政様ですので」


 政子は少し笑った。


「そうね」


 佐伯は周囲を確認し、声を低くした。


「それと、政子様。時政様より、口頭で」


「何?」


「鎌倉の者たちは、佐殿に従いに来たのではない。勝ちに来たのだ、と」


 政子は文を握る手に力を入れた。


 父も同じものを見ている。


 人が集まることと、人が従うことは違う。


 時政はそれを、政子よりずっと前から知っていたのだ。


「承りました」


「それから……」


 佐伯は言いにくそうに口ごもった。


「何?」


「時政様は、政子様にお会いになりたいようでございます」


 政子は一瞬、言葉を失った。


「父上が、そう言ったの?」


「いえ」


「では、なぜ分かるの」


「政子は鎌倉で飯を食えているのか、と三度ほど仰せでしたので」


 政子は目を伏せた。


 胸の奥が熱くなる。


 父は不器用すぎる。


 怒っている。


 認めている。


 心配している。


 それを全部まとめて「飯を食えているのか」になる。


「食べています、と伝えて」


「はい」


「それと」


 政子は少し考えた。


「父上こそ、無理をなさらぬように、と」


 佐伯はかすかに笑った。


「そのままお伝えして、怒られぬでしょうか」


「怒られてください」


「政子様まで、時政様に似てこられた」


「失礼ね」


「失礼いたしました」


 佐伯が下がったあと、政子はしばらく文を見つめていた。


 宗時の代わりに、見誤るな。


 父は痛いところを突く。


 兄の名を出されると、政子は逃げられない。


 鎌倉は、始まりの土地であると同時に、兄の死の先にある土地でもある。


 ここで見誤れば、宗時の死も、石橋山の敗北も、ただの悲劇で終わる。


 それだけはできない。


 夕方、鎌倉の新しい館では、再び武士たちとの対面が続いた。


 政子は奥から見ていた。


 この日、政子の目に留まったのは、一人の若い武士だった。


 名を畠山重忠という。


 まだ若い。


 だが、立ち居振る舞いに妙な清潔さがあった。


 大声で忠義を語るわけではない。


 過剰にへりくだるわけでもない。


 頼朝の前に出ると、まっすぐ頭を下げ、必要な言葉だけを述べた。


 ただし、その目には影があった。


 石橋山では敵方にいた者。


 いま頼朝に従うには、重いものを抱えている。


 政子は、その目を覚えた。


 敵だった者ほど、味方になった時の扱いが難しい。


 責めすぎれば離れる。


 許しすぎれば古参が不満を持つ。


 頼朝は、その綱を渡らねばならない。


 重忠が下がったあと、別の武士が陰で囁いた。


「昨日の敵が、もう味方顔か」


 政子はその声を聞いた。


 聞かなかったふりをした。


 藤乃に目配せする。


 藤乃はすぐに動いた。


 誰が言ったか。

 誰が頷いたか。

 誰が黙っていたか。


 こういう小さな棘は、放っておくと膿む。


 御家人たちの不満は、戦場の傷より見えにくい。


 だが腐れば、組織全体を蝕む。


 夜、政子は頼朝にそのことを伝えた。


「畠山殿への風当たりが出ています」


「早いですね」


「昨日の敵が今日の味方になるのです。言われぬほうがおかしいでしょう」


「どう見る」


「畠山殿を過度に重んじれば、古くから味方した者が不満を持ちます。かといって冷遇すれば、降った者たちが怯えます」


「では」


「皆の前で責めず、皆の前で過度に褒めず。まずは働き場所を与えるべきです」


「働き場所」


「はい。人は、何もしないでいると噂の的になります。働いていれば、その働きを見る者が出ます」


 頼朝は腕を組んだ。


「あなたは、人の置き場所を見るのがうまい」


「台所も広間も同じです。働き場所を間違えれば、どれほど良い人でも邪魔になります」


「台所がまた出ましたね」


「台所は偉大です」


 頼朝は笑った。


 だがすぐに真顔になり、頷いた。


「畠山には、働かせましょう」


 政子はほっとした。


 自分の言葉が届く。


 それは嬉しい。


 だが同時に、怖くもあった。


 自分の言葉一つが、人の立場を変えるかもしれない。


 誰かを救うかもしれない。


 誰かを追い詰めるかもしれない。


 見て、考え、伝える。


 それだけのことが、鎌倉ではもうただの女の感想ではなくなりつつあった。


 政子はその夜、文箱を開いた。


 父からの文を奥へ入れ、代わりに新しい紙を広げる。


 鎌倉、始まる。

 人集まるも、心一つならず。

 勝ちに来た者多し。従いに来た者少なし。

 畠山重忠、扱い注意。

 古参の不満、早くもあり。

 頼朝、聞く耳あり。されど背負うもの増す。


 筆が止まる。


 少し迷って、最後にこう書いた。


 ――私は、笑顔の下を見る。


 父の言葉を、そのまま自分の言葉に変えた。


 外では、鎌倉の夜風が吹いている。


 伊豆の風とは違う。


 潮の匂いが強く、どこか開けている。


 けれど、その開けた先には、平家がいる。


 京がある。


 そして、まだ姿を見せぬ無数の敵と味方がいる。


 政子は灯を見つめた。


 もう「流人の妻」ではない。


 鎌倉に立つ者になった。


 だが、まだ何者でもない。


 頼朝の妻になる女。


 北条時政の娘。


 宗時の妹。


 それらの名を背負いながら、政子は少しずつ、自分の名で立つ場所を探している。


 女は黙っていろ。


 まだ、その声は消えていない。


 むしろ鎌倉では、もっと大きくなるだろう。


 荒々しい武士たちの中で、女の声はますます軽んじられる。


 けれど政子は、もう知っている。


 軽んじられることは、見えなくなることでもある。


 見えない者は、よく見える。


 政子は筆を置き、窓の外を見た。


 鎌倉の闇の中で、武士たちの笑い声が聞こえる。


 酒の匂い。


 野心の匂い。


 不満の匂い。


 始まったばかりの武士の国は、まだ危うい。


 だが、その危うさの中にこそ、政子の居場所がある。


 誰もまだ気づいていない。


 この奥にいる女が、すでに彼らの顔と声と欲を覚え始めていることを。


 いつか、この記憶が鎌倉を支える柱になることを。


 政子は静かに灯を消した。


 闇の中で、父の文の一節が胸に残る。


 笑顔の下を見ろ。


「見ています、父上」


 政子は小さく答えた。


 そして、その言葉の先に兄を思った。


「兄上の代わりに」


 鎌倉の夜は深い。


 けれど伊豆の夜とは違い、そこにはすでに多くの息遣いがあった。


 獣たちが眠る音。


 その獣たちを繋ぎ止める仕事は、もう始まっている。

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