第二話 坂東一の嫌われ者
鎌倉では、毎日誰かが怒鳴っていた。
兵糧が足りぬ。
褒美が少ない。
あの家ばかり重んじられている。
石橋山で戦った者をもっと遇するべきだ。
いや、今さら来た大軍を軽んじれば鎌倉は保たぬ。
武士たちは、すぐ怒る。
そして、すぐ比べる。
誰が上座か。
誰が頼朝に近いか。
誰が多く兵を連れてきたか。
誰が古くから味方か。
政子は、それを毎日見ていた。
朝から晩まで。
表向きは、ただ奥にいる女として。
だが実際には、鎌倉の空気はすべて奥へ流れてくる。
誰が不満を漏らした。
誰が酒席で暴れた。
誰が誰を嫌っている。
誰の妻が、どの女房へ愚痴をこぼした。
男たちは、戦場では口を閉じる。
だが家へ戻れば、妻や女房の前で必ず何かを吐く。
政子は、それを拾った。
「上総殿が、また怒鳴ったそうです」
藤乃がそう言いながら、文を整理している。
政子は筆を止めた。
「今度は何」
「鎌倉へ入った順ではなく、兵数で座を決めろ、と」
政子は思わず苦笑した。
「らしいわね」
上総広常。
石橋山の敗北後、頼朝へ加わった坂東屈指の大豪族。
率いる兵は多く、頼朝再起の大きな柱になった男。
だが同時に、極めて扱いづらい男でもある。
声が大きい。
態度も大きい。
そして、自分が頼朝を支えているという自負を隠さない。
「古くからの御家人たちが不満顔です」
「当然でしょう」
「どうなさいますか」
「私が何かする話ではないわ」
政子はそう言った。
だが藤乃は、少し困った顔をした。
「佐殿は、今朝から難しいお顔でございます」
政子は小さく息を吐いた。
頼朝は今、獣たちを一つの群れにしようとしている。
だが獣は、腹が減れば噛みつく。
しかも今の鎌倉には、強い獣が多すぎた。
広常はその代表だ。
力があるからこそ、従うふりだけでは済まない。
扱いを誤れば、味方でありながら鎌倉そのものを割る。
「……見に行くわ」
「広間へですか」
「ええ」
政子は立ち上がった。
今の自分は、まだ表立って口を出せる立場ではない。
だが、見ることはできる。
見るだけなら、誰にも止められない。
広間には、すでに険悪な空気が漂っていた。
上総広常は、まるで熊のような男だった。
身体が大きい。
声も大きい。
笑えば豪快だが、怒ればそのまま刀を抜きそうな迫力がある。
その広常が、堂々と腕を組んでいた。
「わしは、頼朝殿が敗れて逃げた後に兵を出した。だが、その兵がなければ今の鎌倉はなかったはずだ」
周囲の武士たちの顔が硬い。
中には露骨に不快そうな者もいる。
石橋山から付き従った者たちにしてみれば、後から大軍を連れてきた広常が大きな顔をするのは面白くない。
「だからといって、すべてが兵数で決まるわけではない」
低い声で返したのは三浦義澄だった。
こちらは老獪な海の武士。
広常ほど露骨ではないが、腹の底は簡単に見せない。
「石橋山で命を懸けた者もいる」
「だから何だ」
広常が笑う。
「死んだ者を褒めて勝てるなら、いくらでも褒めてやる」
空気が凍った。
何人かが腰を浮かせる。
宗時の名は出なかった。
だが石橋山で死んだ者たちを軽く扱うその言葉は、確実に刺さった。
政子の胸も、一瞬熱くなった。
兄の顔が浮かぶ。
だが政子は動かなかった。
ここで感情を出せば、広常の思う壺になる。
頼朝は上座で黙っていた。
広常を叱らない。
だが、笑ってもいない。
広常はなお続ける。
「戦は綺麗事ではない。兵を持つ者が強い。当たり前だろう」
「上総殿」
頼朝が静かに口を開いた。
その声で、広間が少し静まる。
「兵を率いて来てくださった恩は、忘れておりません」
「ならば」
「ですが、石橋山で命を懸けた者たちがおらねば、私は今ここにおりませぬ」
頼朝の声は穏やかだった。
怒鳴らない。
広常の面子を潰さない。
だが、線は引く。
「どちらが上かではなく、どちらも必要だったのです」
広常は鼻を鳴らした。
不満げだ。
だが完全には反発しない。
頼朝が、自分の功を否定しなかったからだ。
政子はそれを見ていた。
頼朝は広常を抑え込もうとしていない。
抑え込めば、広常は暴れる。
だから、暴れながらも鎌倉の内側へ置こうとしている。
獣を檻に入れるのではない。
群れの中へ残す。
それが今の頼朝のやり方だ。
広常が去ったあと、広間には疲労だけが残った。
頼朝は深く息を吐く。
「政子殿」
いつの間にか、頼朝はこちらに気づいていた。
「見ていましたか」
「ええ」
「どう思われました」
政子は少し考えた。
「上総殿は、嫌われるのがうまい方ですね」
頼朝が苦笑した。
「うまい、ですか」
「はい。言わなくてもよいことまで言う」
「その通りです」
「でも、ああいう方は必要です」
頼朝の目が少し細くなる。
「なぜ」
「皆が腹の底で思っていることを、代わりに口にするからです」
広間には、まだ数人の武士が残っていた。
皆、耳を澄ませている。
政子は構わず続けた。
「兵を多く持つ者が大きな顔をしたい。当然です。後から来た者が、古参より重く扱われたい。当然です。でも多くの方は、それを露骨には言えない」
「上総殿は言う」
「ええ。だから嫌われる。でも、皆が心のどこかで同じことを考えているから、完全には切れない」
頼朝は腕を組んだ。
「つまり」
「坂東一の嫌われ者を、坂東一の働き者にしておけばよいのです」
広間の空気が少し変わった。
何人かが、思わず政子を見た。
女が政治を語っている。
本来なら不快に思う者もいるはずだ。
だが、誰も口を挟まなかった。
政子の言葉が、あまりにも今の鎌倉を言い当てていたからだ。
「上総殿は、働いている間は鎌倉のためになります。問題は、暇な時です」
頼朝が小さく笑った。
「それは、ひどい言いようですね」
「事実です」
「では、どう働かせる」
「忙しくしてください」
「忙しく」
「ええ。平家方への備え、兵の取りまとめ、道の整備、坂東の豪族との折衝。上総殿は力があります。だから、力を使う場所を与え続ける」
「なるほど」
「それに」
政子は少しだけ声を落とした。
「上総殿のような方が、自分は重んじられていると思っている間は、他の大豪族たちも鎌倉を侮れません」
頼朝は黙った。
そして、ゆっくり頷いた。
「……あなたは、本当に恐ろしい方だ」
「最近よく言われます」
「自覚は」
「ありません」
「嘘ですね」
「少しあります」
広間の空気が、ようやく少し緩んだ。
だが、その時だった。
廊下の向こうから、怒鳴り声が聞こえた。
「どけ!」
広常だった。
しかも、かなり酒が入っている。
武士たちが顔をしかめる。
広常はそのまま広間へ戻ってきた。
「頼朝殿!」
「どうされました」
「女だ」
広常が、政子を真っ直ぐ指さした。
広間が静まり返る。
「今の話、あの女がしたのか」
頼朝の顔が変わる。
だが政子は、先に口を開いた。
「ええ」
広常の眉が動いた。
「女が、武士のことを分かったように語る」
「間違っていましたか」
「……面白い女だな」
広常は政子をじろじろ見た。
無遠慮な目だ。
だがそこには、侮りだけではなく興味もあった。
「北条の娘というのは知っていたが、流人に惚れて頭がおかしくなっただけではなさそうだ」
広間の空気が凍る。
誰も息をしない。
頼朝が口を開きかける。
だが政子は、少しも怯まずに広常を見た。
「上総殿」
「何だ」
「あなたは、人を怒らせるのがお上手ですね」
広常が一瞬ぽかんとした。
次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「ははは! 違いねえ!」
豪快な笑い声が広間に響く。
武士たちが呆気に取られる。
広常は涙が出るほど笑ってから、政子を見た。
「女に面と向かってそう言われたのは初めてだ」
「皆様、思っていても言わないだけです」
「だろうな!」
広常はまた笑った。
政子は、その笑いを見ていた。
この男は荒い。
下品で、空気も読まない。
だが、裏表が少ない。
だからこそ扱いやすい部分もある。
本当に厄介なのは、笑顔のまま毒を飲ませる男たちだ。
「北条の娘」
広常が言った。
「お前、面白いな」
「ありがとうございます」
「礼を言うところか?」
「褒め言葉でしょう?」
広常はまた笑った。
「気に入った! 頼朝殿!」
「はい」
「この女、奥へ隠しておくには惜しいぞ!」
広間の空気がざわつく。
武士たちが顔を見合わせる。
政子は静かに広常を見返した。
「私は隠れておりません」
「違いねえ!」
広常は豪快に笑いながら去っていった。
嵐のような男だった。
広常が去ったあと、広間には妙な静けさが残る。
頼朝が政子を見た。
「怖くなかったのですか」
「少しは」
「少し、ですか」
「刀を抜かれたら困るなとは思いました」
「もっと早く困ってください」
頼朝が珍しく本気で呆れた顔をしたので、政子は少し笑った。
だが、周囲の武士たちの目は変わっていた。
女。
奥にいるだけの存在。
その認識に、わずかなひびが入った。
政子はそれを感じていた。
今すぐ何かが変わるわけではない。
むしろ反発する者も増えるだろう。
だが、それでいい。
鎌倉は、まだ始まったばかりだ。
政子は、その夜、文箱を開いた。
上総広常。
嫌われることを恐れず。
されど、欲と誇りに素直。
働かせれば刃、放置すれば火種。
書いてから、少し考える。
そして最後に、一行だけ加えた。
――獣は、檻より群れで使うべし。
政子は筆を置いた。
灯が揺れる。
鎌倉には、まだ多くの獣がいる。
誇り高い獣。
卑怯な獣。
賢い獣。
牙を隠した獣。
頼朝は、その群れの先頭に立っている。
だが、先頭に立つだけでは足りない。
群れが同じ方向を向くよう、見続けなければならない。
政子は静かに目を閉じた。
女は黙っていろ。
その声は、まだ鎌倉のあちこちにある。
けれど今日、広間で少しだけ変わった。
北条の娘は、ただ流人に惚れた女ではない。
武士たちを見ている女だ。
そう思い始めた者が、確かにいた。
それだけで十分だった。
鎌倉の夜は、まだ長い。
そして政子は、その長い夜の中で、少しずつ名を持ち始めていた。




