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『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第一章プロット 『流人の妻』編

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第八話 鎌倉へ

 頼朝が生きている。


 その報せが届いた時、政子は筆を持ったまま、しばらく動けなかった。


 安房へ逃れたという。


 海を渡り、敵の追手を逃れ、命をつないだという。


 泥にまみれ、敗者として、けれど生きていると。


「……そう」


 政子の声は、自分でも驚くほど小さかった。


 藤乃が涙を浮かべている。


 下男たちも、女房たちも、館の者たちは皆、息を詰めるように政子を見ていた。


 泣いてよいのだろうか。


 笑ってよいのだろうか。


 喜んでよいのだろうか。


 誰も分からなかったのだ。


 政子は筆を置いた。


 それから、ゆっくりと息を吸った。


「湯を」


 そう言った。


 藤乃が瞬きをする。


「湯、でございますか」


「ええ。戻ってくる者がいるかもしれない。傷を洗う湯を絶やさないで」


「はい」


「米も炊いて。握り飯にしておいて。海を越えた者は、必ず腹が減るわ」


「はい」


「それから、北条へ使いを。父上の所在を確かめて。頼朝殿が生きているなら、父上も必ず次へ動く」


 政子の声が部屋に通るにつれ、館の者たちの顔に色が戻っていった。


 喜びに崩れるのは後でよい。


 泣くのも後でよい。


 生きているなら、次がある。


 次があるなら、支度がいる。


 それが政子の答えだった。


 けれど人払いをしたあと、政子は一人で膝を抱えた。


 誰もいない部屋で、ようやく息が震えた。


「生きて……いた」


 口にすると、胸の奥で押し込めていたものがあふれそうになった。


 頼朝は生きている。


 約束を破らなかった。


 みっともなくても、泥にまみれても、逃げてでも。


 生きた。


 政子は袖で目元を押さえた。


 涙は少しだけ出た。


 だが、声を上げて泣くことはしなかった。


 まだ、兄のことがある。


 宗時の死は、すでにほぼ確かだった。


 けれど政子は、まだ心のどこかで兄の声を探していた。


 生きて戻って叱る。


 そう言った兄の声を。


 その声は、もう戻らない。


 頼朝が生きたことの喜びと、兄を失った痛みは、政子の中で一つにならなかった。


 片方が光なら、片方は深い穴だった。


 その二つを抱えたまま、立たねばならない。


 戦とは、きっとそういうものなのだろう。


 勝った者だけが進むのではない。


 失った者も、残された者も、泣きながら進まされる。


 政子は顔を上げた。


 庭の向こうで、朝の光が濡れた葉に当たっている。


「兄上」


 小さく呼んだ。


 返事はない。


 当たり前だ。


 それでも呼ばずにはいられなかった。


「頼朝殿は、生きていました」


 それだけを伝える。


 まるで、遠くにいる兄が聞いているかのように。


「だから、私は進みます」


 政子は立ち上がった。


 泣いた跡を整え、文机の前に戻る。


 頼朝生存の噂は、すでに流してある。


 今度は、もっと強く流す必要がある。


 源頼朝は死ななかった。


 石橋山で敗れたが、火は消えなかった。


 敗れた男に、次がある。


 この噂は、敵には不安を、味方には迷いを、様子見の者には欲を生む。


 勝ち馬を待つ坂東武士たちは、匂いに敏い。


 血の匂いだけではない。


 利の匂い。


 時代が動く匂い。


 それを嗅ぎ取れば、彼らは必ず集まる。


 頼朝が言ったことを、政子は思い出す。


 坂東武士は、誇りで怒り、利で動き、恩で縛られる。


 そして最後に選ぶのは、自分の土地。


 ならば、頼朝が生きていることは、土地を守る新しい旗がまだ倒れていないという意味になる。


 政子は筆を走らせた。


 源頼朝、安房にて再起。

 北条時政も生存。

 坂東に新たな旗、なおあり。


 書いてから、少し考え、最後の一文を変えた。


 坂東に、京へ従うだけではない道、なおあり。


 露骨すぎるかもしれない。


 だが、今はそれくらいでいい。


 女房たちの伝手を使い、寺へ、市へ、商人へ、豪族の奥向きへ。


 噂は水のように流れる。


 政子はその流れに、小さな石を置くだけでよかった。


 数日後、頼朝からの文が届いた。


 文は短かった。


 生きている。


 それだけで十分だった。


 だが文末に、頼朝らしい言葉があった。


 ――負けたなら、次に勝てばよいだけ、との言葉、忘れませぬ。


 政子はその一文を何度も読んだ。


 涙が出そうになったので、文を畳んだ。


 藤乃がそばで、何も言わずに湯呑みを置いた。


「笑われませぬのね」


 政子が言うと、藤乃は首を傾げた。


「何をでございますか」


「私が、文一つでこのように動かなくなることを」


「笑えませぬ」


「なぜ」


「政子様が今まで泣かずに立っておられたことを、皆、見ておりますから」


 政子は目を伏せた。


「泣かなかったわけではないわ」


「はい」


「一人で少し泣いた」


「はい」


「それを知っている顔ね」


「女房の耳は、障子よりよく聞こえますので」


 政子は小さく笑った。


「まったく、頼もしくて厄介だわ」


「恐れ入ります」


 藤乃も笑った。


 その笑いは、敗北の夜以降、初めて館に戻った柔らかい音だった。


 頼朝は安房で息を吹き返した。


 石橋山で散った小さな軍勢は、海を越えた先で別の形を取り始める。


 上総広常。


 千葉常胤。


 様子見をしていた坂東の大物たちが、次第に頼朝へ近づいていく。


 政子のもとへ届く報せは、日に日に変わった。


 最初は、生きているかどうか。


 次は、誰が合流したか。


 さらに次は、どれほどの兵が集まったか。


 敗者の逃走は、いつの間にか再起の行軍へ変わっていった。


 その変化を聞くたび、政子は胸の底で震えるものを感じた。


 時代が動いている。


 それも、京の命令ではなく、坂東の土の上で。


 ただし、集まる者たちは美しい理想で集まっているわけではない。


 源氏のため。


 平家への恨み。


 土地を守るため。


 恩賞への期待。


 隣の家に遅れを取らぬため。


 名を上げるため。


 それぞれが違う腹を抱えて、頼朝のもとへ寄ってくる。


 政子は、そのことを忘れなかった。


 人が増えれば、力になる。


 同時に、火種も増える。


 父から文が届いたのは、頼朝の勢力が大きくなり始めた頃だった。


 文は短い。


 政子、北条の娘であることを忘れるな。

 宗時の死を無駄にするな。

 佐殿のもとで、目を開けていろ。


 それだけだった。


 政子はその文を、長く見つめた。


 父は、政子を呼び戻せとは書かなかった。


 許すとも書かなかった。


 だが、目を開けていろ、と書いた。


 それは父なりの認め方だった。


 厳しく、不器用で、温かくはない。


 けれど確かに、政子の立つ場所を認めていた。


「父上……」


 政子は文を胸に当てた。


 兄の死を無駄にするな。


 その言葉は重い。


 政子一人では背負いきれないほど重い。


 だが、背負わなければならない。


 宗時は戻らない。


 だからこそ、彼が生きていたなら見ただろうものを、政子が見なければならない。


 頼朝が鎌倉へ向かうという報せが届いた時、館の空気はさらに変わった。


 鎌倉。


 その名は、ただの土地の名ではなくなりつつあった。


 海を背にし、山に守られ、坂東武士たちが集う場所。


 京から遠く、けれど京に背を向けるには十分な場所。


 頼朝はそこを拠点にするつもりなのだ。


「政子様」


 藤乃が尋ねた。


「鎌倉とは、どのような所なのでしょう」


「私も、よくは知らないわ」


「不安ではございませぬか」


「不安よ」


 政子は正直に答えた。


「でも、伊豆に留まっているほうが、もう不自然なのでしょう」


 火は、火種のままではいられない。


 燃え広がるなら、場所がいる。


 鎌倉は、その場所になる。


 政子は出立の支度を始めた。


 持っていくものは多くない。


 衣。


 文箱。


 父からの文。


 頼朝からの文。


 そして兄からもらった包みの布。


 握り飯はとうに食べ終えていたが、包み布だけは残していた。


 洗って、乾かして、畳んである。


 それを見るたび、兄の声が蘇る。


 北条を背負って行け。


 政子は、その布を文箱の一番奥へ入れた。


 鎌倉への道中、政子は初めて、頼朝のもとへ集まってくる武士たちを目の当たりにした。


 荒々しい男たちだった。


 大声で笑う者。


 こちらを値踏みする者。


 源氏の旗を見て目を輝かせる者。


 頼朝に忠誠を誓いながら、隣の武士の兵数を気にする者。


 皆、同じ方向を向いているようで、実際にはそれぞれ別のものを見ている。


 頼朝はその一人一人に言葉をかけた。


 名を呼ぶ。


 父祖の功を挙げる。


 土地の不満を聞く。


 平家への怒りを受け止める。


 そして、恩賞の匂いを少しだけ漂わせる。


 政子は、その姿を見ていた。


 頼朝は、負けて変わった。


 いや、負けたことで隠していたものが表に出た。


 慎重さは残っている。


 恐れも消えていない。


 だが、もう流人の顔ではなかった。


 人を集める者の顔。


 人を使い、人に使われ、人の欲を受け止める者の顔。


「政子殿」


 頼朝が馬を寄せてきた。


 久しぶりに近くで見る顔だった。


 やつれている。


 だが目は死んでいない。


「生きて戻ると言いました」


「戻る場所が変わっております」


「それは、少し困りますね」


「ええ。約束違反です」


 政子が言うと、頼朝はわずかに笑った。


 それから、少し真面目な顔になる。


「宗時殿のことを」


「聞いています」


「すみません」


 頼朝は頭を下げようとした。


 政子は静かに止めた。


「謝らないでください」


「ですが」


「兄上は、あなた一人のために死んだのではありません。北条のため、自分の選んだ道のために戦いました」


 言いながら、胸が痛んだ。


 だが、これは言わなければならない。


 頼朝がすべてを背負えば、美談にはなる。


 しかし美談にしてしまえば、兄の選択が頼朝の物語に飲み込まれる。


 それは嫌だった。


「兄上の死を、あなたの罪だけにしないでください」


 頼朝は政子を見た。


 その目に、痛みと敬意が混じる。


「分かりました」


「その代わり」


「はい」


「無駄にしないでください」


「必ず」


 頼朝の声は低かった。


 政子は頷いた。


 それで十分だった。


 鎌倉へ入る日、空はよく晴れていた。


 海からの風が、旗を大きく揺らす。


 源氏の白旗。


 その下に、坂東の武士たちが集まっている。


 誰もが頼朝を見ていた。


 歓声が上がる。


 石橋山で敗れた男が、今や大軍を従えて鎌倉へ入る。


 その光景だけを見れば、まるで劇のようだった。


 敗北からの逆転。


 落ちた者の再起。


 嘲った者たちを黙らせる、見事な勝ち上がり。


 だが政子は、歓声だけを見なかった。


 武士たちの顔を見た。


 熱狂する者。


 計算する者。


 頼朝を試す者。


 隣の家の出方を気にする者。


 負けた時に逃げる道を、心のどこかで探している者。


 彼らは頼朝を祝っている。


 しかし、頼朝だけに心を預けたわけではない。


 この男たちは、獣だ。


 かつて頼朝がそう言った。


 誇りで怒り、利で動き、恩で縛られ、最後に土地を選ぶ者たち。


 その獣たちが、今、同じ場所へ集まっている。


 頼朝は彼らを率いる。


 だが、率いるだけでは足りない。


 繋ぎ止めなければならない。


 互いに噛み合わぬように。


 欲で散らぬように。


 不満で牙をむかぬように。


 政子は馬上から鎌倉の地を見た。


 山に囲まれた土地。


 海へ開かれた土地。


 ここが、これからの中心になる。


 頼朝の拠点。


 北条の賭け。


 宗時の死の先。


 そして、政子自身が選んだ道の先。


 歓声の中、頼朝が政子のほうを見た。


 ほんの一瞬だった。


 言葉はない。


 だが政子には分かった。


 見ているか、と。


 政子は小さく頷いた。


 見ている。


 あなたを。


 この土地を。


 集まった武士たちを。


 そして、まだ誰も知らない未来を。


 武士たちは頼朝の名を呼んでいる。


 源氏の御曹司。


 平家に対抗する旗。


 坂東の希望。


 だが政子には、その歓声の奥に、別の音が聞こえていた。


 不満。

 欲望。

 嫉妬。

 恐怖。

 忠義。

 打算。


 それらが渦を巻いている。


 この国は、まだ生まれていない。


 頼朝が旗を立てただけでは、国にはならない。


 人を集めただけでは、政にはならない。


 勝っただけでは、続かない。


 続けるためには、誰かが見なければならない。


 聞かなければならない。


 黙っている者たちの声を拾い、怒鳴る者たちの本音を読み、家と家、人と人、欲と恩を結ばなければならない。


 それは、刀だけではできない。


 政子は、ゆっくりと息を吸った。


 潮の匂い。


 馬の汗。


 武士たちの熱気。


 新しい土地の土の匂い。


 そのすべてが、胸に入ってくる。


「ならば」


 政子は誰にも聞こえない声で呟いた。


「私が、この獣たちを繋ぎ止める」


 女は黙っていろ。


 そう言われてきた。


 政治は男の仕事だと笑われた。


 流人に惑わされた愚かな娘だと噂された。


 だが今、政子は鎌倉にいる。


 頼朝の隣に。


 北条の娘として。


 失った兄の記憶を抱えて。


 そして、これから始まる武士の国の入口に立っている。


 まだ誰も、北条政子を尼将軍とは呼ばない。


 まだ誰も、この女が後に御家人たちを動かす言葉を持つなど知らない。


 今はただ、頼朝の妻となる女。


 北条から来た気の強い娘。


 そう見えているだけだ。


 それでいい。


 見くびられている間に、見ればいい。


 軽んじられている間に、覚えればいい。


 聞かれない間に、聞けばいい。


 いつか彼らが気づいた時には、もう遅い。


 鎌倉の風が、政子の髪を揺らした。


 頼朝の旗が青空に翻る。


 歓声は、なお続いている。


 政子はその中で、静かに微笑んだ。


 まだ、微笑むだけでよい。


 いつかこの武士たちが、女だからと政子を侮れなくなる日が来る。


 いつか、黙れと言った者たちが、政子の言葉を待つ日が来る。


 いつか、頼朝の妻ではなく、鎌倉そのものとして立つ日が来る。


 その未来を、この時まだ誰も知らない。


 ただ政子だけが、潮風の中で見ていた。


 鎌倉は、始まったばかりだった。

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