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『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第二章 鎌倉創業編

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第七話 墨で縛る

 鎌倉で嫌われるものは、いくつもある。


 負け戦。

 少ない恩賞。

 他家の大きな顔。

 そして、帳簿。


 政子はその日、米蔵の片隅で、若い書記役が泣きそうな顔をしているのを見た。


 名を、弥七という。


 まだ二十にも届かぬような若者で、武士の家の末の者らしい。刀を持てば腰が少し泳ぐが、筆を持つ手は悪くない。


 ただし今は、その筆を握りしめたまま固まっていた。


「どうしたの」


 政子が声をかけると、弥七は慌てて平伏した。


「政子様!」


「そんなに驚かなくてもよいわ」


「も、申し訳ございません」


 政子は帳面へ目を落とした。


 米の納入と配分を書いたものだ。


 だが、途中から数字が乱れている。


 同じ家の名が二度出ていたり、兵数と米の量が合わなかったり、誰かが後から書き足したような跡もあった。


「これは、あなた一人で?」


「いえ、各家の目付の方々にも確認を……」


「確認した結果、こうなったの?」


 弥七はますます顔を青くした。


「申し訳ございません」


「責めているのではないわ。何が起きたか知りたいだけ」


 政子がそう言うと、弥七は震える声で話し始めた。


 米を受け取る時、各家の者が口を挟む。


 兵数は昨日より増えた。


 負傷者がいるから余分に要る。


 遠方から来たから先に寄越せ。


 上総は多く、三浦は古く、千葉は遠く、土肥は石橋山で苦労した。


 誰もが理屈を持っている。


 そして、その理屈を帳面にどう書けばよいのか、弥七には分からない。


「口で言われたことを、そのまま書いたのね」


「はい……」


「すると、後から別の者が違うと言う」


「はい」


「書いた者が悪いことになる」


 弥七は泣きそうに頷いた。


 政子は帳面を閉じた。


「これは、あなたが悪いのではないわ」


 弥七が顔を上げた。


「本当でございますか」


「ええ。書き方が決まっていないのが悪い」


「書き方、でございますか」


「そう」


 政子は米蔵の中を見回した。


 俵が積まれている。


 人が出入りする。


 それぞれが自分の家のことだけを考えている。


 このままでは、どれほど正直な者が書いても帳面は乱れる。


 帳面が乱れれば、決まりが乱れる。


 決まりが乱れれば、力の強い者が勝つ。


 それでは、何のために鎌倉を作っているのか分からない。


「藤乃」


「はい」


「頼朝殿にお伝えして。米の記録について、急ぎ整える必要があります」


「承知しました」


「それから、父上にも」


 藤乃はすぐに動いた。


 弥七はまだ不安そうにしている。


 政子は少しだけ声を柔らかくした。


「弥七」


「はい」


「あなたは字が書ける」


「は、はい」


「それは刀と同じくらい大事なことよ」


 弥七はぽかんとした。


「刀と、同じ?」


「ええ。刀は人を斬る。墨は言い逃れを斬る」


 弥七は息を呑んだ。


 政子は帳面を指先で叩いた。


「ただし、刃が鈍ければ役に立たない。書き方を整えましょう」


 その日の夕方、小さな会合が開かれた。


 広間ではない。


 米蔵に近い一室だ。


 頼朝、時政、数人の実務を担う者、そして弥七のような書記役たち。


 武功を誇る武士たちは少ない。


 そのせいか、部屋は広間より静かだった。


 ただし、皆の顔には別の疲れがある。


 刀を振るう者には分からない、帳面を背負う者の疲れだ。


「米の記録が乱れています」


 政子はそう切り出した。


 頼朝は頷く。


「聞きました」


 時政は帳面を開き、顔をしかめた。


「これはひどい」


 弥七が小さく縮こまる。


 政子はすぐに言った。


「弥七一人の責ではありません。決まりが足りないのです」


 時政は政子を見た。


「続けろ」


「はい」


 政子は紙を広げた。


「まず、記録する項目を揃えます。家の名、兵数、納めた米、受け取った米、追加を求めた理由、確認した者の名」


 書記役たちの顔が変わる。


 項目が決まれば、書きやすい。


 同時に、ごまかしにくい。


「次に、口で言っただけの追加は認めない。急ぎの場合でも、あとで必ず理由を書き残す」


 時政が頷いた。


「よい」


「さらに、帳面は一冊だけではなく、控えを作ります」


 部屋がざわついた。


 書記役の一人が青い顔をする。


「二冊、書くのでございますか」


「ええ。一冊は米蔵、一冊は頼朝殿のもとへ。後から誰かが直そうとしても、片方だけでは済まないように」


 頼朝が静かに政子を見た。


「二重に残す」


「はい」


「面倒ですね」


「面倒だから意味があります」


 時政が横で小さく笑った。


「儂の言葉を取ったな」


「父上の言葉は便利ですので」


「褒めておらぬな」


「少しは」


 部屋の緊張が、少しだけ緩んだ。


 政子は話を続ける。


「それから、書記役を一人に固定しません。複数人で回します。文字に慣れぬ者には、数字と印だけでもよい形を作る」


「印?」


 頼朝が尋ねた。


「各家の印です。受け取った者が確認した印を押す。字が苦手でも、印なら押せるでしょう」


 時政は腕を組んだ。


「印を偽る者が出る」


「出ます」


 政子は即答した。


「ですから、印だけに頼らず、目付の名も残します。偽れば、誰がその場にいたかも残る」


「逃げにくいな」


「逃がさないための帳面です」


 頼朝が低く笑った。


「墨で縛る、か」


 政子は頷いた。


「刀で縛れば反発します。恩だけで縛れば足元を見られます。でも、記録で縛れば、少なくとも言った言わないの争いは減ります」


 書記役たちが真剣に聞いている。


 さきほどまで青ざめていた弥七も、少し顔を上げていた。


 自分たちの仕事が、ただ叱られるだけの雑務ではなく、鎌倉を支える仕組みなのだと気づき始めている。


 政子はそこを逃さなかった。


「あなた方の仕事は、地味です」


 書記役たちが緊張する。


「武功にはなりません。酒席で語られることも少ないでしょう。けれど、あなた方が正しく残さねば、武功も恩賞も争いになります」


 弥七の目が揺れた。


「刀を持つ者だけが鎌倉を支えているのではありません。筆を持つ者も、鎌倉を支えています」


 部屋は静まり返った。


 頼朝も時政も、口を挟まなかった。


 やがて、頼朝が言った。


「その通りです」


 その一言で、書記役たちの背筋が伸びた。


 頼朝の認める言葉。


 それは彼らにとって、何よりの支えになる。


「今後、記録を乱す者があれば、私に報告せよ」


 頼朝が続けた。


「書いた者を責める前に、乱した者を調べる」


 弥七が、思わず頭を下げた。


「ありがたき幸せにございます」


 時政は帳面を閉じた。


「では、さっそく書式を整えろ。政子」


「はい」


「そなたが案を出せ」


「私がですか」


「言い出したのはそなただ」


 政子は少しだけ父を見た。


 父は当然という顔をしている。


 逃がしてくれない。


 だが、それも信頼なのだろう。


「承知しました」


 その夜、政子は弥七たち書記役と共に、帳面の書式を整えた。


 家名。

 兵数。

 納入米。

 配給米。

 追加理由。

 確認者。

 印。

 控えの有無。


 並べてみると、思ったより簡単ではない。


 どの順に書けば間違えにくいか。


 どこを大きく空ければ後で追記できるか。


 誰が見ても分かるようにするにはどうするか。


 政子は何度も紙を直した。


 弥七は最初こそ緊張していたが、次第に意見を言うようになった。


「政子様、兵数は最初に書いたほうが、米の量と照らしやすいかと」


「なるほど。では家名の横へ」


「追加理由は、あまり狭いと書けませぬ」


「では下に一段作りましょう」


「印は最後のほうがよいかもしれません。途中に押すと、墨で汚れます」


「あなた、よく見ているのね」


 弥七は驚いたように顔を赤くした。


「い、いえ」


「よいことよ。見る者がいなければ、仕組みはすぐ使いにくくなる」


 藤乃が横で小さく笑った。


「政子様は、見る者がお好きでございますね」


「そう?」


「はい」


「なら、そうかもしれないわ」


 政子は弥七へ向き直った。


「弥七。今後、書きにくいところがあれば必ず言いなさい」


「私が、でございますか」


「使う者が言わなければ、形だけの決まりになります」


「しかし、私のような者が」


「あなたのような者が言うの」


 政子はきっぱり言った。


「現場を知らぬ者が作った決まりは、たいてい役に立ちません」


 弥七は深く頭を下げた。


「承知しました」


 その様子を見て、政子は少しだけ安堵した。


 書記役たちが自分の仕事に意味を持てば、帳面は強くなる。


 帳面が強くなれば、鎌倉の決まりも強くなる。


 翌日、新しい帳面が使われ始めた。


 最初に不満を言ったのは、やはり上総の者だった。


「面倒なことを増やしおって」


 そう言いながらも、印を押した。


 三浦の者も眉をしかめたが、上総が押したのを見て押した。


 千葉の者は丁寧に確認した。


 土肥の者は、追加理由を書く欄に少し戸惑った。


 だが、全員が何らかの形で従った。


 それを見た時、政子は思った。


 決まりとは、最初から尊ばれるものではない。


 面倒だと文句を言われながら、何度も使われるうちに形になる。


 昼過ぎ、広常本人が米蔵に現れた。


 弥七は緊張で筆を落としそうになる。


 広常は帳面を覗き込み、顔をしかめた。


「細かいな」


「細かいから役に立ちます」


 政子が答えると、広常は振り向いた。


「またお前か」


「政子です」


「知っている」


「では、そのように」


 広常は鼻を鳴らしたが、怒ってはいない。


「これでわしの兵が腹を減らさずに済むのか」


「少なくとも、誰がどれだけ持っていったかは分かります」


「分かると腹が膨れるのか」


「分からなければ、誰かが勝手に持っていって、上総の兵が損をすることもあります」


 広常の眉が動いた。


 損。


 その言葉は効く。


「ほう」


「帳面は、上総殿を縛るだけではありません。上総殿の取り分を守るものでもあります」


 広常は帳面をもう一度見た。


「なるほどな」


 彼は弥七の前に立った。


「おい、書く者」


「は、はい!」


「わしの兵の分、少なく書くなよ」


 弥七は真っ青になった。


 政子がすぐに言う。


「少なく書けば、控えで分かります」


「ならよい」


「多く書いても分かります」


 広常は政子を見て、にやりと笑った。


「本当に可愛げがないな」


「最近、その噂を流しております」


「自分でか!」


 広常は大声で笑った。


 米蔵の空気が少し緩む。


 弥七も、ぎこちなく笑った。


 広常は帳面に自ら印を押した。


 それを見ていた他家の者たちが、互いに目を合わせる。


 上総広常が押した。


 ならば、他の者も押さざるを得ない。


 政子は心の中で頷いた。


 広常は、本当に使い方次第だ。


 夕方、頼朝に報告すると、彼は感心したように言った。


「上総殿に帳面を守らせるとは」


「守ったというより、自分の得になると思わせただけです」


「それが難しいのです」


「広常殿は、損得がはっきりしているので分かりやすい方です」


「皆がそうなら楽なのですが」


「本当に厄介な方は、損を隠して綺麗事を言います」


 頼朝は小さく笑った。


「あなたは、ますます人を見る目が鋭くなる」


「鎌倉が鍛えてくれます」


「嫌な鍛え方ですね」


「ええ」


 政子は軽く息を吐いた。


「でも、今日のことで少し分かりました」


「何が」


「記録は、ただ残すものではありません。人を動かすものです」


 頼朝は黙って聞いていた。


「帳面に書かれると思えば、人は言葉を選びます。印を押すと思えば、責任を意識します。控えがあると思えば、ごまかしにくくなる」


「墨で縛る」


「はい」


「刀より長く残るかもしれませんね」


 政子はその言葉に、しばらく黙った。


 刀は一瞬で人を従わせる。


 だが、刀の威は刀がそこにある間だけだ。


 墨は静かだ。


 しかし残る。


 後から見返される。


 積み重なる。


 いずれ鎌倉は、刀だけではなく、この墨で動くようになるのかもしれない。


「頼朝殿」


「はい」


「書ける者を増やすべきです」


 頼朝の目が変わった。


「武士に?」


「はい。全員でなくともよいのです。各家に一人でも、記録を読める者、書ける者が必要です」


「嫌がるでしょうね」


「でしょうね。ですが、読めぬ者は読める者に従うしかなくなります」


 頼朝は深く頷いた。


「それは、大きい」


「刀を持つ者が、文字を軽んじている間に、文字を扱う者が鎌倉を動かすようになります」


「恐ろしいことを言う」


「現実です」


 頼朝はしばらく考えた。


「いずれ、文書を扱う仕組みも必要になりますね」


「はい」


 政子は頷いた。


「米だけではありません。恩賞、土地、命令、訴え。すべて言った言わないでは済まなくなります」


「鎌倉は、思っていたより早く大きくなっている」


「だから、墨が追いつかなければ崩れます」


 頼朝は政子を見た。


「あなたがいてよかった」


 あまりにまっすぐ言われたので、政子は返事に詰まった。


「……帳面の話をしている時に、そういうことを言わないでください」


「なぜ」


「困ります」


「では、覚えておいてください」


「何をです」


「帳面の話をしているあなたを、私は頼もしいと思っています」


 政子は目を逸らした。


「本当に、言葉の置き方がずるい方」


「あなたに教わりました」


「教えていません」


 頼朝は静かに笑った。


 その夜、政子は文箱を開いた。


 今日のことを書きつける。


 米帳、乱れあり。

 弥七、字よし。されど責められ萎縮。

 記録の項目を定める。家名、兵数、納入、配給、追加理由、確認者、印。

 二冊作る。控えを残す。

 広常殿、印を押す。

 帳面は縛るだけでなく、取り分を守るものと示す。

 書ける者を増やす必要あり。


 最後に、頼朝の言葉を思い出す。


 墨で縛る。


 政子は筆を止めた。


 その言葉は、少し怖い。


 けれど、鎌倉に必要な怖さだった。


 刀の時代に、墨で人を縛る。


 それは武士たちがまだ気づいていない力だ。


 女の声と同じだ。


 軽んじられているものほど、気づかれぬうちに深く入り込む。


 政子は最後に一行を書いた。


 ――刀で従わぬ者も、墨には縛られる。


 書いてから、少し笑った。


 可愛げのない文章だ。


 だが、それでいい。


 可愛げがなくとも、役に立つなら。


 外では、鎌倉の夜が続いている。


 米蔵では弥七たちが帳面を乾かしているだろう。


 手当所では布が洗われているだろう。


 広間では明日の戦の話が続いているだろう。


 そして政子の文箱には、今日もまた一枚、鎌倉の形が増えた。


 誰もまだ知らない。


 この小さな帳面が、やがて武士の国を支える柱の一つになることを。


 誰もまだ呼ばない。


 この女が、ただの頼朝の妻ではなく、鎌倉の仕組みを見つめる者になることを。


 政子は灯を消した。


 闇の中で、墨の匂いがかすかに残る。


 その匂いは、戦場の血より静かで、ずっと長く残りそうだった。

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