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『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第二章 鎌倉創業編

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第八話 帳面に残る嘘

 帳面が整うと、困る者が出た。


 それは政子にも分かっていた。


 誰がどれだけ米を受け取り、誰が追加を求め、誰が確認し、誰が印を押したのか。


 墨で残る。


 控えも残る。


 言った言わないで逃げられない。


 だからこそ、最初に帳面を嫌う者が出るのは当然だった。


 だが政子は、まさかこんなに早く出るとは思っていなかった。


「政子様」


 弥七が顔色をなくしてやってきたのは、朝餉の支度が終わった頃だった。


「どうしたの」


「帳面が……合いませぬ」


 政子は茶碗を置いた。


「どの帳面?」


「米でございます。昨日の控えと、蔵の帳面で、追加分の数が違っております」


 藤乃が息を呑んだ。


 政子はすぐに立ち上がった。


「見せて」


 米蔵の奥で、弥七は二冊の帳面を広げた。


 一冊は蔵に残すもの。


 もう一冊は頼朝のもとへ上げる控え。


 政子は指で行を追った。


 家名。


 兵数。


 納入。


 配給。


 追加理由。


 確認者。


 印。


 問題の箇所は、すぐに分かった。


 ある小さな御家人の家が、病人が出たという理由で米の追加を受けている。


 蔵の帳面には、二俵。


 控えには、一俵。


 印はどちらにもある。


 だが、追加理由の字が微妙に違う。


「これは、同じ人が書いたものではないわね」


 政子が言うと、弥七は青い顔で頷いた。


「はい。蔵の帳面のほうに、後から書き足した跡がございます」


「誰が担当したの」


「私ではございません。昨日は別の者が」


「名は」


「小野寺の家の者で、信綱と申します」


 政子はその名を覚えた。


「信綱本人は?」


「今朝から姿が見えませぬ」


 藤乃が眉を寄せた。


「逃げたのでしょうか」


「まだ分からないわ」


 政子は帳面を閉じた。


「決めつけると、見誤る」


 ただし、何かが起きたのは間違いない。


 一俵が二俵になっている。


 米一俵。


 大きな不正ではない。


 だが、小さいから見逃せば、帳面は死ぬ。


 最初の嘘をどう扱うかで、今後が決まる。


 政子は頼朝に報告する前に、まず現場を見た。


 米俵の置き場。


 出入りした者の足跡。


 印を保管している箱。


 昨日の番をしていた下男。


 水場の女房。


 蔵の近くで荷運びをしていた者。


 聞けば聞くほど、話は単純ではなかった。


 信綱が怪しい。


 それは確かだった。


 だが、追加を受けた御家人の家では、本当に病人が出ていた。


 しかも兵ではなく、下働きの老女だったという。


 その家は小さい。


 兵数も少ない。


 鎌倉での立場も弱い。


 米一俵を多く得ても、大きな顔ができるわけではない。


 むしろ、見つかれば潰される。


「……妙ね」


 政子は呟いた。


 藤乃が尋ねる。


「何がでございますか」


「大きな家なら、ごまかす理由がある。小さな家が、初めての帳面で危ない橋を渡るには、得が小さすぎる」


「では、信綱殿が?」


「信綱殿が勝手に書き足したとしても、米はどこへ行ったのかしら」


 米一俵は軽くない。


 一人で隠せるものではない。


 政子はしばらく考えた。


「その病人のいる家へ行きます」


「政子様が直接?」


「ええ」


「危なくは」


「危ないほど大きな家ではないわ」


「そういう問題では」


「分かっている。藤乃も一緒に」


 その家は、鎌倉の外れに近い場所にあった。


 立派な屋敷ではない。


 急ごしらえの宿所に近い。


 出てきたのは、痩せた中年の女だった。


 政子の姿を見るなり、顔色を変える。


「政子様……!」


「病人がいると聞きました」


「は、はい」


「見舞いです。驚かせてごめんなさい」


 女はさらに戸惑った。


 責めに来られたと思ったのだろう。


 中へ通されると、奥の部屋で老女が寝ていた。


 熱がある。


 薬の匂いもする。


 病は嘘ではない。


 政子はそばへ膝をついた。


「米の追加を受けましたね」


 中年の女が身体を強張らせる。


「はい……」


「一俵?」


 女は震えながら答えた。


「はい。一俵でございます」


 政子と藤乃は目を合わせた。


 やはり。


「二俵ではないのね」


「とんでもございません。一俵でも、ありがたく……」


 女は途中で言葉を詰まらせた。


 その顔を見て、政子は嘘ではないと思った。


 怯えはある。


 だが、ごまかしている怯えではない。


「その一俵は、どこに?」


「こちらに」


 女が案内した先には、確かに米俵が一つあった。


 封も正しい。


 では、帳面上で増えたもう一俵はどこへ消えたのか。


 政子は女へ向き直った。


「昨日、米を受け取った時に何か変わったことは?」


「変わったこと……」


「誰が立ち会いました」


「書きつける若い方と、蔵の下男の方。それから……」


 女は言いよどむ。


「それから?」


「上総の兵の方が、近くに」


 政子の目が細くなる。


「上総?」


「はい。ただ、直接話したわけではございません。荷運びを手伝うと言って、米俵を動かしておられました」


 藤乃の顔が険しくなった。


 上総。


 またか。


 だが、ここでも決めつけてはいけない。


 上総の名が出れば、疑いは簡単にそちらへ向く。


 それを狙った可能性もある。


「その兵の顔は覚えていますか」


「若い方で……左の眉の上に傷が」


 政子は覚えた。


「分かりました。病人の手当は、手当所へ相談して。薬が足りなければ藤乃へ」


 女は驚いた顔をした。


「よろしいのですか」


「病人は本当でしょう」


「はい……!」


「なら、それと帳面の件は分けます」


 女は深く頭を下げた。


 政子は家を出た。


 外へ出ると、藤乃が低く言った。


「上総の兵が怪しゅうございますね」


「怪しいわ」


「では」


「でも、怪しすぎる」


 政子は道の先を見た。


「上総殿の兵が米を盗めば、必ず目立つ。しかも眉に傷がある者など、覚えられやすい」


「誰かが仕組んだと?」


「まだ分からない」


 ただ一つ、確かなことがある。


 これは米一俵の話では済まない。


 帳面が始まったばかりの今、不正の疑いが上総に向かえば、広常は激怒する。


 小さな御家人は怯える。


 書記役は萎縮する。


 そして帳面そのものが、争いの種になる。


 政子は頼朝と時政に報告した。


 広間ではなく、小さな部屋。


 帳面と控えを並べ、弥七、藤乃、そして米を受け取った家の証言を一つずつ整理する。


 頼朝は黙って聞いていた。


 時政は腕を組んだまま、途中で口を挟まない。


 話し終えると、頼朝が言った。


「上総殿に聞くべきでしょうか」


「すぐには危険です」


 政子は答えた。


「なぜ」


「広常殿は怒ります。自分の兵が疑われたとなれば、必ず」


 時政が頷く。


「怒るだろうな」


「ですが、放置すれば帳面が死にます」


 頼朝が静かに言う。


「では、どうします」


「眉に傷のある兵を探します。ただし、上総殿を通さず探すと、かえって角が立つ」


「ならば」


「広常殿へ、先にこちらから頼むのです」


 頼朝の目が少し動いた。


「頼む?」


「はい。帳面に不一致がある。上総殿の兵が荷運びを手伝ったらしい。確認のため、該当する者を出していただきたい、と」


「疑うのではなく、確認か」


「ええ。広常殿に、上総の兵を守る機会を与えます」


 時政が低く笑った。


「なるほど。責めれば噛みつく。守らせれば動く」


「はい」


「そなた、上総殿の扱いに慣れてきたな」


「慣れたくはありません」


 頼朝が少し笑った。


 だがすぐに表情を引き締める。


「分かりました。私から上総殿へ話しましょう」


「私も同席します」


 頼朝と時政が同時に政子を見た。


 政子は静かに言った。


「帳面の件です。私が最初に見つけました。逃げるわけにはいきません」


 時政は渋い顔をした。


「女が出ると、また噂になるぞ」


「もう可愛げがない女という噂はあります」


「開き直るな」


「役に立つ嫌われ方をしろと、父上が」


「都合よく使うな」


 時政はため息をついた。


「だが、今回は出ろ。帳面の読み方を説明できる者が要る」


 頼朝も頷いた。


「ただし、無理はしないでください」


「広常殿が怒鳴ったら?」


「私が止めます」


「では、頼りにしております」


 頼朝は少しだけ苦笑した。


 広常は、話を聞くなり予想通り怒った。


「わしの兵が米を盗んだと言うのか!」


 部屋が揺れるような声だった。


 政子は耳が痛くなったが、顔には出さなかった。


 頼朝が静かに言う。


「盗んだとは言っておりません。帳面に不一致があります」


「同じことだろう!」


「違います」


 政子が口を開いた。


 広常の目がこちらへ向く。


「またお前か」


「政子です」


「知っている!」


「でしたら、そのように」


 広常は苛立った顔をしたが、怒鳴る先を少し失ったようだった。


 政子は帳面を広げる。


「蔵の帳面には二俵。控えには一俵。病人のいる家が受け取ったのは一俵。ならば、残る一俵がどこへ行ったのかを調べております」


「だから、なぜ上総の兵が出る」


「その場で荷運びを手伝った者に、左眉の上に傷があったと証言がありました」


 広常の顔が変わった。


「左眉の傷……」


 心当たりがある顔だった。


「誰です」


「佐太郎だ」


 政子は目を瞬いた。


 手当所で傷を隠していた、あの若い兵。


「佐太郎殿は、まだ手当所では」


「昨日から軽い仕事には出ている。傷はまだ完全ではないが、じっとしていられぬ馬鹿だ」


 広常は舌打ちした。


「呼べ」


 佐太郎はすぐに連れてこられた。


 眉の上に古い傷。


 そして腕にはまだ布が巻かれている。


 彼は広常と政子を見るなり、顔を青くした。


「佐太郎」


 広常の声は低かった。


「米を盗ったか」


「盗っておりません!」


 即答だった。


 政子は佐太郎の顔を見る。


 怯えている。


 だが、嘘をついた者の怯えかどうか。


「昨日、病人のいる家の米を運びましたか」


「はい。人手が足りぬようでしたので」


「一俵?」


「はい。一俵です」


「二俵目を見ましたか」


「見ておりません」


「信綱という書記役は?」


 佐太郎は少し考えた。


「いました。帳面を書いていた方です」


「何か話しましたか」


「いえ。ただ……」


「ただ?」


「蔵の外で、誰かに呼ばれていました。すぐ戻ると」


「誰に」


「分かりません。顔は見ておりません。ただ、声は若い男でした」


 信綱は、その後姿を消している。


 政子は頼朝と時政を見た。


 話が変わってきた。


 信綱が自分で不正をしたのか。


 誰かに呼ばれて、その隙に帳面を書き換えられたのか。


 あるいは、脅されたのか。


 広常が苛立った声で言う。


「つまり、うちの兵は盗っていないな」


「今のところ、そう見ます」


「今のところ?」


「確認が終わるまでは、断定しません」


 広常は不満そうだったが、政子の言い方に怒鳴り返しはしなかった。


「佐太郎殿」


 政子は若い兵へ向き直った。


「あなたが荷運びを手伝ったことは、悪いことではありません。ただ、これからは誰の荷をどこへ運んだか、必ず記録の者に告げなさい」


「はい」


「あなたが覚えていなければ、あなたが疑われます」


 佐太郎は深く頭を下げた。


「承知しました」


 広常は鼻を鳴らした。


「面倒な世になった」


「面倒だから、米が守られます」


 政子が言うと、広常は少しだけ笑った。


「そればかりだな、お前は」


「便利な理屈ですので」


 その時、部屋の外から足音がした。


 弥七が駆け込んでくる。


「佐殿、政子様!」


「どうした」


「信綱殿が見つかりました!」


 信綱は、寺の裏で見つかった。


 逃げようとしていたわけではなかった。


 殴られて、気を失っていた。


 命に別状はない。


 だが、顔は腫れ、右手の指を痛めていた。


 目を覚ました信綱は、怯えながら話した。


 米の追加を書いていた時、誰かに呼ばれた。


 蔵の裏へ行くと、見知らぬ男が二人いた。


 帳面に二俵と書けと言われた。


 拒むと殴られた。


 その後のことは覚えていない。


「男たちの特徴は」


 頼朝が問う。


 信綱は震えながら答えた。


「一人は、京訛りのような話し方でございました。もう一人は、顔を隠しておりました」


 京訛り。


 部屋の空気が変わった。


 時政が低く言う。


「平家方か」


「もしくは、それを装った者」


 政子は言った。


「目的は米一俵ではありません。帳面への疑いを作ることです」


 頼朝が頷く。


「上総と小御家人を争わせる。記録制度を始まりから腐らせる」


「はい」


 広常が拳を鳴らした。


「つまり、わしを疑わせるためか」


「その可能性があります」


「ふざけた真似を」


 広常の怒りは、今度は別の方向へ向いた。


 政子は静かに言った。


「広常殿」


「何だ」


「怒るなら、帳面を守るほうへ怒ってください」


「は?」


「この仕掛けは、帳面が邪魔だから行われました。ならば、帳面を守ることが相手への仕返しになります」


 広常はぽかんとした。


 それから、腹の底から笑った。


「お前、本当に変な女だな!」


「政子です」


「知っている!」


 広常は立ち上がった。


「よし。上総の者には帳面を乱すなと命じる。米を取るなら正面から取れ。こそこそ書き換える者は、わしが許さぬ」


 頼朝が微かに笑った。


「助かります」


「佐殿、これは貸しだ」


「ええ」


「それから政子殿」


 広常が初めて、自然にそう呼んだ。


「うちの佐太郎を疑いきらなかったことは、覚えておく」


 政子は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ただし、可愛げはない」


「それも覚えておいてください」


 広常はまた笑い、部屋を出ていった。


 事件は、完全には解決しなかった。


 京訛りの男たちは見つからない。


 平家方の探りか。


 山木の残党か。


 それとも鎌倉内部の誰かが外の者を使ったのか。


 分からない。


 だが、帳面は守られた。


 それどころか、上総広常が帳面を守る側へ回った。


 これは大きい。


 夜、政子は頼朝と時政に向かって言った。


「帳面を狙われたということは、帳面に意味があるということです」


 時政が頷く。


「敵は、役に立たぬものを壊そうとはせぬ」


 頼朝も静かに言った。


「ならば、もっと強くしなければ」


「はい」


 政子は答えた。


「書記役を守る仕組みも必要です。帳面を書く者が脅されれば、墨は簡単に曲がります」


「人をつけましょう」


「それから、書記役同士が互いに孤立しないように。誰か一人を叩けば帳面が曲がる形では危うい」


「複数で書く」


「はい。さらに、怪しい変更は必ず印を二つ以上」


 時政が苦い顔をした。


「また面倒が増える」


「面倒だから意味があります」


 政子が言うと、父と頼朝が同時に笑った。


 政子も少し笑った。


 この言葉は、鎌倉の合言葉になりそうだった。


 その夜、政子は文箱を開いた。


 帳面に残る嘘。

 米一俵の差。

 小御家人、病人は事実。

 佐太郎、疑われるも盗みなし。

 信綱、脅され殴られる。

 京訛りの男、正体不明。

 目的は米ではなく帳面への不信か。

 広常殿、帳面を守る側へ回る。

 書記役を守る仕組み必要。


 最後に、政子は筆を止めた。


 人を裁くのは怖い。


 もし早々に上総を責めていれば、広常との関係は傷ついた。


 もし小御家人を疑いきれば、弱い家は潰れた。


 もし弥七を叱って終わらせていれば、帳面は書く者の恐怖で歪んだ。


 正しいと思って進めた仕組みが、人を傷つけることもある。


 政子はその怖さを、初めて肌で知った。


 墨は人を縛る。


 だが、間違った墨は人を殺すかもしれない。


 政子は静かに一行を書いた。


 ――帳面に残る嘘は、刀傷より深く人を裂く。


 書いた後、しばらくその文字を見つめた。


 重い。


 だが、忘れてはならない。


 鎌倉を作るとは、ただ制度を作ることではない。


 制度で傷つく者まで見ることだ。


 外では、鎌倉の夜が続いている。


 米蔵では、新しい帳面が乾いているだろう。


 手当所では、信綱が右手を冷やしているだろう。


 佐太郎はまた落ち着かず、誰かに叱られているかもしれない。


 広常は酒を飲みながら、帳面は守れと怒鳴っているかもしれない。


 政子は少し笑った。


 可愛げのない女。


 そう呼ばれている。


 ならば、可愛げのないまま、嘘を見抜こう。


 怒鳴らず、焦らず、帳面と人の顔を見比べながら。


 女は黙っていろ。


 その声はまだある。


 だが今日、黙って見たからこそ、誰かを早まって裁かずに済んだ。


 政子は灯を消した。


 闇の中に、墨の匂いが残る。


 その匂いは昨日より少し重かった。

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