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『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第二章 鎌倉創業編

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第六話 可愛げのない女

 鎌倉で一番早く広まるものは、馬ではない。


 噂だ。


 朝に台所で落ちた言葉が、昼には馬屋へ届き、夕方には広間の酒席で笑い話になる。


 そして夜には、別の家の奥で、まったく違う形に変わっている。


 政子はその速さを知っていた。


 だからこそ噂を使った。


 だが、使う者は、使われることも覚悟しなければならない。


「政子様」


 藤乃が、少し硬い顔で入ってきた。


「何かあったのね」


「はい」


 藤乃は迷ったように一度口を閉じた。


 その仕草だけで、政子はよくない話だと分かった。


「言いなさい」


「広間の一部で、政子様のことを……」


「何と?」


「佐殿を女の言葉で惑わせている、と」


 政子は筆を止めた。


 思ったより早い。


 いや、遅いくらいかもしれなかった。


 米の配分。


 手当所。


 馬の置き場。


 宿所の整理。


 政子の名は表には出していない。


 だが、鎌倉に目がある者なら気づく。


 奥の茶会の後、頼朝の決定が変わっている。


 女たちの不満が、鎌倉の決まりに反映されている。


 そして、その中心に政子がいる。


「ほかには?」


 政子は静かに尋ねた。


「北条の娘が、佐殿の御寵愛を笠に着ている、と」


「まあ」


「それから……」


「まだあるのね」


 藤乃は悔しそうに唇を噛んだ。


「可愛げのない女だ、と」


 政子は思わず笑ってしまった。


 藤乃が驚いた顔をする。


「政子様」


「ごめんなさい。あまりに予想通りで」


「腹は立たれませぬか」


「立つわ」


 政子は筆を置いた。


「でも、可愛げで鎌倉が保つなら、いくらでも可愛くしているわ」


 藤乃は少しだけ笑った。


 だがすぐに不安そうな顔へ戻る。


「佐殿にお伝えしますか」


「いいえ」


「ですが」


「頼朝殿が動けば、私の言葉で惑わされているという噂が強くなるだけよ」


 政子は立ち上がり、外を見た。


 鎌倉の空は曇っている。


 こういう日は、人の心まで湿る。


「噂の出どころは?」


「はっきりとは。ただ、古くからの御家人の一部と、最近加わった家の若い者たちの間で」


「両方から?」


「はい」


 政子は少し考えた。


 古参は、奥から政へ口を出す女を嫌う。


 新参は、鎌倉での立場を探るために、誰かを悪く言って自分の位置を確かめたい。


 どちらも分かる。


 分かるが、放置はできない。


 ただし、正面から潰せば逆効果だ。


「茶会を開きます」


「奥の方々を?」


「ええ。ただし今日は、いつもの方々だけではなく、噂をしている家の奥も呼んで」


「敵を呼ぶのですか」


「敵かどうか、まだ決まっていないわ」


 政子は藤乃を見た。


「噂を止めたいなら、噂をする理由を見なければ」


 その日の茶会は、いつもより空気が硬かった。


 三浦や千葉の奥方たちは慣れてきている。


 だが初めて来る女たちは、警戒を隠さなかった。


 とくに、梶原の縁に連なる女がいた。


 年は政子より少し上。


 落ち着いた物腰だが、目に刃がある。


 梶原景時の名は、鎌倉で少しずつ重みを持ち始めていた。


 石橋山で頼朝を助けたとも、見逃したとも言われる男。


 賢いが、好かれるタイプではない。


 その縁者もまた、場を見る目が鋭かった。


「本日はお招きいただき、光栄にございます」


 女は丁寧に頭を下げた。


 政子も微笑んで返す。


「こちらこそ。鎌倉では、奥同士のつながりがまだ浅うございますから」


「奥のつながりで、鎌倉の決まりまで変わると聞き及んでおります」


 場が静まった。


 藤乃がわずかに身を強張らせる。


 政子は茶碗を持ったまま、ゆっくりその女を見た。


「それは大げさね」


「そうでしょうか」


「鎌倉の決まりをお決めになるのは、佐殿と御家人の方々です」


「では、政子様は何も?」


「茶を出しているだけです」


 女の目が、かすかに笑った。


「そのお茶は、ずいぶん効くようで」


 政子も微笑んだ。


「ええ。眠気覚ましにはなるようです」


 数人が小さく笑った。


 刃を刃で受けず、扇で逸らす。


 女同士の場では、それが要る。


 梶原の女は、少しだけ目を細めた。


「では、私も遠慮なく眠気を覚まさせていただきます」


「ぜひ」


 茶会は、最初こそ探り合いだった。


 だが、政子はいつも通りに進めた。


 米の配分で困ったこと。

 手当所の様子。

 馬の水場。

 宿所の人手。

 下女たちの疲れ。

 若い兵の酒癖。


 話が生活へ移ると、女たちは自然と口を開く。


 政への警戒はあっても、目の前の困りごとは現実だからだ。


「若い兵が水場で騒ぐのは、本当に困ります」


「夜番のあとに酒を飲む者が増えております」


「手当所はありがたいのですが、布の洗い場が足りませぬ」


 不満は次々出た。


 梶原の女も、しばらく黙って聞いていたが、やがて口を開いた。


「記録をつける者たちにも、不満がございます」


 政子はそちらを見る。


「書記役の?」


「はい。各家から目付を出すようになりましたが、文字に慣れぬ者もおります。数を間違えれば責められ、正しく書けば恨まれる」


 政子は、はっとした。


 そこは盲点だった。


 記録を残すことは決めた。


 だが記録する者の負担までは、まだ十分に見ていなかった。


「それは、確かに」


 政子は素直に頷いた。


 梶原の女は少し意外そうな顔をした。


 反論されると思っていたのかもしれない。


「記録をつける者が潰れれば、決まりも崩れますね」


「はい」


「よいことを聞きました。ありがとうございます」


 政子が頭を下げると、場の空気が変わった。


 梶原の女の目から、わずかに棘が抜ける。


「……政子様は、否定なさらないのですね」


「正しいと思えば、聞きます」


「女の愚痴でも?」


「女の愚痴ほど、暮らしの本音が混じりますから」


 梶原の女は、しばらく黙った。


 そして、少しだけ笑った。


「では、もう一つ愚痴を」


「どうぞ」


「政子様は、嫌われ始めております」


 藤乃が息を呑んだ。


 周囲の女たちも顔を強張らせる。


 政子は茶碗を置いた。


「知っています」


「ならば、なぜやめませぬか」


「何を?」


「奥の声を集めることを」


 政子はまっすぐ女を見た。


「それをやめれば、鎌倉は良くなりますか」


 梶原の女は返答に詰まった。


 政子は続ける。


「私が可愛げのある女として奥で黙っていれば、米は勝手に公平に配られますか。怪我人は勝手に治りますか。馬の置き場は揉めませんか。水場で若い兵は騒がなくなりますか」


 声は荒げない。


 だが、言葉は一つずつ置く。


「私が嫌われることで、それらが少しでも整うなら、安いものです」


 客間が静かになった。


 梶原の女は、政子をじっと見ている。


「……本当に、可愛げのない方」


「よく言われます」


「腹は立ちませぬか」


「立ちます」


 政子が即答すると、今度は梶原の女が笑った。


「正直でいらっしゃる」


「怒らぬ女だと思われるのも困ります」


「では、なぜ怒鳴らないのです」


「怒鳴る役は、鎌倉にもう足りています」


 その言葉に、今度は客間全体が笑った。


 上総広常の顔を思い浮かべた者が多かったのだろう。


 笑いが場をほどく。


 政子はその隙に、少し声を柔らかくした。


「私は、皆様の夫君を動かしたいのではありません」


 それは完全な本音ではない。


 だが、嘘でもない。


「各家が崩れれば、鎌倉も崩れます。奥が疲れ切れば、表も乱れます。だから聞いているのです」


 梶原の女は茶を見つめた。


「政子様のことを、佐殿を操る女だと言う者もおります」


「でしょうね」


「否定なさらぬのですか」


「頼朝殿は、操られるほど軽い方ではありません」


 政子は静かに言った。


「そして私は、人形遊びがしたいわけでもありません」


 梶原の女の目が変わった。


 その言葉は、彼女に届いたようだった。


「では、何を?」


「鎌倉を、続く場所にしたいのです」


 自分で言って、政子は少し驚いた。


 だが、もう言葉は引けない。


「勝つだけではなく。人が集まり、食べ、傷を癒やし、不満を処理し、次の朝を迎えられる場所に」


 場にいた女たちは、誰も笑わなかった。


 それは、女たちが日々している仕事そのものだった。


 朝を迎えさせること。


 戦場の武功にはならない。


 だが、それがなければ家は続かない。


 梶原の女は、ゆっくり頭を下げた。


「失礼なことを申しました」


「いいえ」


「ですが、嫌われるという話は本当です」


「忠告として受け取ります」


「なら、私から一つ」


 梶原の女は顔を上げた。


「嫌われるなら、理由をこちらで選ばねばなりません。噂は放っておくと、勝手に育ちます」


 政子は目を細めた。


 面白い。


 この女は、ただ刺しに来たのではない。


 使える。


「どうすればよいと思いますか」


 政子が尋ねると、梶原の女は少し驚いたようだった。


 だがすぐに答えた。


「政子様が佐殿を操っている、という噂は危ういです。これは佐殿の威を傷つけます」


「ええ」


「ならば別の噂を流せばよろしい」


「別の?」


「政子様は可愛げがない。だが奥の揉め事にはよく気づく、と」


 政子は少し笑った。


「可愛げがないは残すのね」


「真実味が必要です」


 客間でまた笑いが起きた。


 政子も笑った。


 確かに、そのほうがよい。


 美化した噂は広がりにくい。


 少し棘があるほうが、人は信じる。


「では、そうしましょう」


 政子は言った。


「私は可愛げがない。けれど、奥の揉め事には役に立つ」


「はい」


「なかなかひどい噂ね」


「役に立つ噂でございます」


 梶原の女は涼しい顔で言った。


 政子はその女を、改めて見た。


 敵として来た。


 だが、帰る頃には完全な敵ではなくなっている。


 こういう相手こそ、鎌倉には必要だ。


 茶会が終わる頃、政子は梶原の女に声をかけた。


「また来てください」


「よろしいのですか」


「ええ。あなたの愚痴は役に立ちます」


「それは光栄でございます」


「ただし」


 政子は少しだけ笑った。


「次は、もう少し優しく刺してください」


 梶原の女は初めて、年相応の笑みを浮かべた。


「努力いたします」


 その夜、頼朝は政子を訪ねてきた。


 おそらく、茶会の噂はもう届いているのだろう。


「可愛げがない、そうですね」


 開口一番それだった。


 政子は眉を上げた。


「頼朝殿まで仰いますか」


「いえ、確認を」


「確認する必要がありますか」


「ありません。知っていました」


「頼朝殿」


 頼朝は珍しく楽しそうに笑った。


 政子は少し腹が立ったが、同時にその笑みを見て安心もした。


 頼朝が笑えるなら、噂はまだ致命的ではない。


「冗談です」


「笑えません」


「私は笑いました」


「なお悪いです」


 頼朝は笑みを収めた。


「ですが、噂の件は聞きました。私があなたに操られている、と」


「はい」


「不愉快ですか」


「不愉快というより、危険です」


「私もそう思います」


 頼朝は真面目な顔になった。


「私の威に傷がつく」


「はい」


「そして、あなたが余計な敵を作る」


「はい」


「どうしますか」


「もう手は打ちました」


 政子は茶会でのことを話した。


 梶原の女の発言。


 可愛げはないが役に立つ、という噂へ変えること。


 記録係の不満。


 女たちの反応。


 頼朝は黙って聞いていた。


 聞き終えると、深く息を吐いた。


「噂を消すのではなく、形を変える」


「消そうとすると、かえって燃えます」


「それを誰に教わったのですか」


「鎌倉です」


 頼朝は少しだけ目を伏せた。


「あなたは、本当に鎌倉で強くなっていく」


「可愛げがなくなっているだけかもしれません」


「それは最初から」


「頼朝殿」


「失礼」


 頼朝は笑った。


 だがそのあと、静かに言った。


「私は、あなたの可愛げのなさに救われています」


 政子は言葉に詰まった。


「……褒めているのですか」


「心から」


「下手です」


「すみません」


 頼朝は政子を見た。


「私の前でまで、可愛げを作る必要はありません」


 その言葉は、思いのほか深く胸に入った。


 政子はしばらく返事ができなかった。


 可愛げがない。


 賢い女は嫌われる。


 女は黙っていろ。


 これまで何度も聞いてきた言葉が、胸の奥で重なっていた。


 だが頼朝は、それを直せとは言わない。


 むしろ、そのままでよいと言う。


「……困ります」


「何が」


「そういうことを言われると」


「はい」


「少し、嬉しくなります」


 頼朝は驚いた顔をした。


 政子はすぐに視線を逸らした。


「今のは忘れてください」


「忘れません」


「忘れてください」


「大事な言葉は覚えます」


「本当に腹立たしい方」


「六度目か七度目ですね」


「数えないでください」


 二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。


 外では、鎌倉の夜が騒がしい。


 だがこの部屋だけは、少し静かだった。


「記録係の件ですが」


 政子は話題を変えた。


「負担が大きくなっています。文字に慣れぬ者もいます。ここを整えないと、米の記録も馬の割り振りも崩れます」


「分かりました。書ける者を集めます」


「ただし、特定の家に偏らぬように」


「ええ」


「梶原殿の縁は、使えるかもしれません」


「景時ですか」


「はい。好かれにくい方でしょうが、記録や監察には向いているのでは」


 頼朝は、少しだけ考える顔をした。


「あなたは、人の嫌われ方を見るのがうまい」


「父上に言われました。役に立つ嫌われ方をしろ、と」


「なるほど」


「梶原殿も、嫌われるでしょう。でも役に立つ嫌われ方ができるなら、鎌倉には必要です」


 頼朝は深く頷いた。


「覚えておきます」


 政子は少し不安になった。


 自分の言葉が、また誰かの行く末を変えるかもしれない。


 だが、もう恐れてばかりはいられない。


 見たものを伝える。


 それが政子の役目になりつつある。


 深夜、政子は文箱を開いた。


 今日の出来事を書きつける。


 政子、佐殿を女の言葉で惑わすとの噂あり。

 可愛げのない女との評。

 梶原の縁者、鋭し。敵にするより使うべし。

 記録係に不満。文字に慣れぬ者多く、負担重し。

 噂は消すより形を変える。

 可愛げなし、されど奥の揉め事に役立つ、という形へ。


 筆を止める。


 可愛げなし。


 自分で書くと、少し腹が立つ。


 だが同時に、笑えてもくる。


 これが自分なのだ。


 今さら、しおらしく黙っている女には戻れない。


 戻りたいとも思わない。


 政子は最後に一行を書いた。


 ――嫌われ方を、こちらで選ぶ。


 父の言葉に近い。


 だが、今の政子自身の言葉でもあった。


 嫌われないことを目指すのではない。


 軽んじられるのでもない。


 必要だから疎まれ、必要だから呼ばれる。


 その場所へ行く。


 灯が揺れた。


 鎌倉の夜は今日も深い。


 広間では男たちが明日の兵の話をしているだろう。


 手当所では女房たちが布を洗っているだろう。


 米蔵では記録係が数字と格闘しているだろう。


 そしてどこかで、また政子の噂が生まれている。


 可愛げのない女。


 政子は小さく笑った。


「上等です」


 誰にともなく呟いた。


 可愛げがない。


 ならば、その可愛げのなさで鎌倉を支えればよい。


 いつか、女は黙っていろと言った者たちが、黙って政子の言葉を待つ日まで。


 政子は筆を置き、文を畳んだ。


 名のない評定は、今日も奥で続いている。

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