4:消えた妹3
2日後——
大阪地方検察庁。
朝から降り続いた雨のせいで、検察庁舎の窓は薄く曇っていた。ただでさえ深海のように色のない庁舎が、より一層、色を失ったかのような顔をして訪問者を迎え入れた。
三條遥は、机に積まれた記録を一つずつ確認していた。灰色の空が、そのまま部屋の空気に滲んでいる。
起訴前整理手続の資料。
供述調書、実況見分調書、鑑定書。
ページをめくる指は正確で、無駄がない。
「……ここ、齟齬がありますね」
斜め横に座る事務官が顔を上げる。
「どの部分でしょうか」
遥は該当箇所をペンで軽く示した。
「被疑者の供述では“午後九時に帰宅”となっている。でも、防犯カメラの映像は二十一時三十分。三十分のズレがあります」
「あ……本当ですね」
「このズレは小さくない。アリバイの根拠が崩れる可能性がある」
声は落ち着いている。感情は一切乗っていない。
だが、言葉は的確に核心を突く。
「再度、確認を取りましょう。必要なら追加で供述を取るように浪速署に連絡してください」
「わかりました」
事務官が素早くメモを取る。
彼女は優秀な事務官だが、イマドキの子らしく残業を全くしようとしない。もう少し仕事に精を出してくれたら、なんて考えながら遥は次の資料に目を落としていた。
次の資料を読み進めていると、けたたましく電話が鳴った。
こういうときの電話はたいてい良くない電話に決まってる、そう思いながら、遥は電話を取る事務官を横目でとらえた。
「はい、三條検事室、事務官の榎本です。……少々お待ちください」
榎本は電話を保留にし、
「検事、浪速署の東山さんからです」
遥は資料から顔をあげ、榎本の言葉に頷き無駄のない動作で受話器を取った。
「……はい、その件は現段階では起訴は見送ります。証拠が足りません」
一拍置く。
「感情ではなく、立証できるかどうかです」
淡々とした口調。
だが、その一言で相手の熱を静かに断ち切る。
「追加の証拠が出れば、再検討します」
それだけ言って、通話を終える。
受話器を置いた瞬間、ほんのわずかに視線が落ちた。
(足りない)
いつもそうだ。
真実ではなく、証明できるものだけが裁かれる。
その現実を、誰よりも理解している。
**
――昼過ぎ。
簡素なデスクで、コンビニのおにぎりを一つ開ける。包装を剥がしながら、書類に目を通す。
食事は作業の一部に過ぎない。
その時、机の端に置いたスマートフォンが、短く震えた。
遥は視線だけを落とす。画面には、簡潔なメッセージ。
送信者:涼。
《美咲がバイトしてた店、特定。ミナミ。今夜、行く》
遥は数秒、その画面を見つめた。
指で軽くスクロールし、前後のやり取りを確認する。余計な言葉はない。いつもの調子だ。
「さすが、涼。早いわね」
小さく呟く。
だが、そのスピードに対して驚きはない。
(想定内)
むしろ——
(少し、早すぎる)
ほんのわずかな違和感が、頭の奥に引っかかる。だが、表情には出ない。遥は親指で短く返信を打った。
《単独行動は避けて。歩と合流して》
送信。
数秒後、既読。返信はない。
「聞く気ないわね」
遥はため息ともつかない息を吐く。
その直後、別の通知が入る。
内線。
「三條検事、会議室にお願いします」
「すぐ行きます」
遥はスマートフォンを裏返し、机に置く。昼食を終え、再び、検事の顔に戻る。立ち上がり、スーツの裾を軽く整える。鏡代わりのガラスに映る自分を一瞬だけ確認する。
乱れはない。感情も、外には出ていない。
——法の中で動く自分。
——法の外で動く自分。
その境界を、誰よりも正確に引きながら。
遥は静かに会議室へと歩き出した。
その夜。
すべてが少しだけ、動き始める。
***
その頃——
大阪市内の古びたワンルームマンション。
カーテンは閉め切られ、昼間だというのに部屋は薄暗い。外の音もほとんど入ってこない。部屋の中には、ほとんど物がなかった。
小さなベッド。折りたたみ式のテーブル。床に無造作に置かれたスポーツバッグがひとつ。生活感は、極端に薄い。
そのベッドの上で、三條歩は毛布にくるまり、静かな寝息を立てていた。規則正しい呼吸。だが、完全に力が抜けているわけではない。どこか、すぐにでも起きられるような緊張が残っている。
歩は昨夜は当直だった。救急搬送が二件、緊急オペが一件。ほとんど休めていない。
手術灯の白い光。血の匂い。モニターの警告音。それらが、まだ身体の奥に残っている。
寝返りを打つ歩の眉がわずかに動く。夢を見ている。
——助けられた命。
——助けられなかった命。
その境界が、曖昧に混ざる。
「……っ」
小さく息を詰まらせる。だが、目は覚めない。
この生活を、歩は自分で選んでいる。特定の病院に所属すれば、生活は安定する。勤務時間もある程度は固定され、収入も計算できる。だが、それを選ばなかった。
フリーランス。当直やスポット勤務を渡り歩く働き方。
理由は単純だ。その方が、稼げる。診療報酬は年々削られ、病院経営は逼迫している。赤字経営の医療機関は珍しくなく、閉鎖や統合の話も後を絶たない。勤務医の給与が、今後大きく上がる見込みは薄い。
「やってられへんわな」
以前、誰にでもなくそう漏らしたことがある。
だが、理由はそれだけではない。もうひとつ。
——時間。
フリーであれば、自分でスケジュールを組める。
空いた時間。
不規則な隙間。
そこに——もう一つの仕事を差し込める。
S3。
依頼が入れば動く。
人を救うために。
時に、法の外で。
歩はもう一度、寝返りを打つ。
枕元に置かれたスマートフォンが、わずかに光った。涼からのメッセージ。
《今夜、ミナミ。店、当たりつけた》
だが、歩は気づかない。眠りは深い。
その寝顔は、どこか無防備で現場で見せる顔とは、まるで別人のようだった。
数秒後。
再び静寂が部屋を満たす。
だがその静けさは、長くは続かない。夜になれば、また目を覚ます。そして、いつものように軽い調子で言うのだ。
——「ほな、行こか」
まるで、これから命の境界に踏み込むことなど、なんでもないことのように。
***
その頃——
涼の部屋。
モニターが3台並ぶデスク。パソコンの冷却ファンの音のみ響く室内。デスクの上には、配信用のマイクとカメラ。 背後の壁はシンプルで、生活感を意図的に消している。 リングライトが白く灯る。
画面の中に映るのは、整った中性的な顔立ちの青年。低く落ち着いた声。
「今日は、ちょっと早い時間に配信してる」
穏やかな声でカメラ越しに語りかけると、すぐにチャットが流れ始める。
《なんで今日は早い時間なの?》
《まだ仕事中なのに》
《アーカイブ残して~》
コメント欄は一気に速度を上げる。 画面の右側を文字が流れていく。
涼はそれを一瞥して、小さく笑った。
「まだ仕事中の人は、ごめんね」
一拍置く。
「アーカイブは残さない」
その瞬間、さらにコメントが増える。
《えー!》
《アーカイブ残してほしい》
《今見れな~い》
《それは困る》
涼は顎に手を当てるような仕草をして、少し考える演技をする。そして、肩をすくめた。
「……わかったよ」
涼はわずかに口角を上げる。
「じゃあ、二十四時間限定で残してやるよ」
《神!》
《助かる》
《好き》
《優しすぎる》
一気に肯定のコメントが流れる。
涼はそれを見ながら、ほんの一瞬だけ目を細めた。
(簡単だな)
だが、その感情は表には出さない。
「最近さ、映画館行ってないんだよな」
そう言いながら、自然に会話を広げる。 チャットはさらに加速する。
涼は椅子に軽くもたれかかる。視線はカメラから外さない。
「なんか観たいんだけど、今って何やってんの?」
チャットがすぐに反応する。
《○○やってる》
《新作いっぱいあるよ》
《ホラーおすすめ》
《アニメ映画やばい》
「へぇ……」
興味があるのかないのか、曖昧な相槌。
「みんなさ、映画館で映画観るときって、なんか食べたり飲んだりする?」
少し前に身を乗り出す。
「絶対これ食べる、とか決めてるやつある?」
チャットの流れがさらに加速する。
《ポップコーン一択》
《ナチョス》
《ホットドッグ》
《コーラとポップコーン》
《キャラメル派》
《塩派》
涼はそれを眺めながら、くすっと笑った。
「やっぱポップコーンだよな」
指先で机を軽く叩く。
「なんで映画館で食べるポップコーンって、あんなに美味いんだろうな」
少しだけ目を細める。
「家で食べると、ああはならないんだよな」
一拍。
ふと思い出したように続ける。
「そういえばさ、4Dで映画観たことあるやついる?」
チャットがまたざわつく。
《ある》
《酔った》
《楽しい》
《無理だった》
《水かかるやつでしょ》
涼は頷く。
「俺、一回だけあるけどさ」
少しだけ笑いを含んだ声になる。
「あれもう映画じゃないだろ。アトラクションだよな」
手で軽くジェスチャーをする。
「椅子めっちゃ動くし、風とか来るし、水かかるし」
肩をすくめる。
「正直、ストーリーに集中できなかった」
《わかる》
《それがいいんだよ》
《映画というより体験》
「まあ、嫌いじゃないけどな」
小さく笑う。その笑顔は柔らかい。自然で、穏やかな笑顔。
話が途切れたところで、デスクの端に置かれたスマートフォンが静かに光った。
遥からのメッセージ。
《単独行動は避けて。歩と合流して》
涼は一瞬だけ視線を落とし、時間を確認する。
「そろそろ切るか」
何気ない調子で言う。
「今日はこの辺で終わりにするわ」
《早い》
《もっとやって》
《もう終わり?》
「また今度な」
軽く手を振る。
「アーカイブは二十四時間な。見逃したやつはそれで我慢して」
一拍。
「じゃあ、またね」
配信が切れ、画面が暗くなる。同時に涼の表情から、さっきまでの柔らかさが消えた。
スマートフォンを手に取り、もう一度メッセージを確認する。 グループLINEに送った涼のメッセージに、歩は既読をつけていない。
(歩はまだ寝てるのか。なら、一人で行くか)
涼はゆっくり立ち上がり鏡の前に立つ。 髪を整える。 声を一度だけ低く落とす。
「よし」
短く呟く。
次に向かうのは、映画館ではない。 ネオンの街。
嘘と本音が混ざる場所。
中原美咲がいた、夜の顔の世界へ。




